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第七章

ルカの求めるものは

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 頬に優しい温もりを感じて、ルカはあれ?と辺りを見渡した。どこまでも続く木立の影に陽の光がさしこみ、緑がきらきら風に揺れている。ピチチチチと頭上で小鳥がさえずり、足元では虫がチキチキチキと鳴く。
 いつもの王宮の林の中だ。
 なんだか長い夢を見ていたような気がする。どんな夢だったかは思い出せないが、ふんわり温かくて優しい夢だ。
 ルカはそっと頬に手のひらをあててみた。頬には不思議とまだ温もりがある。包み込むような優しい温かさだ。触れれるわけもないのに、ルカはそこに何かあるかのように感じ、頬を寄せた。
 ああ。この温もりがずっとずっとあればいいのに。
 たとえ姿が見えなくても、こうやって感じられる温もりがあれば、どれだけ暗い夜が心強いだろう。
 びゅうびゅう風の強い日、がたがた揺れる戸板に怯えなくてすむし、雨の滴る夜、忍び込む寒さに震えることもない。一人ぼっちの寂しさもきっと耐えられる。
 
 ルカは感傷を振り払うように頭を振った。
 だめだだめだ。こんなことを考えていてはいけない。ありもしない温もりを求めたりするから、余計に夜が辛くなるんだ。期待してはいけない。何も求めなければ、ルカはこのまま淡々と時を過ごせる。
 時折やって来るエメレンスのことだってそうだ。
 今日は来るかもしれない。明日は来るかもしれないと期待して待ったのに来なかった時のあの失望。ルカのいない間に来てはいけないと、林に食料を調達しに行くこともせず待った時のあの虚しさ。
 はじめから来ないと思っていれば何ともなかったのに、ちょっと期待したばかりにそれを裏切られた時の落胆は大きい。
 エメレンスは優しいけれど、ずっとルカと一緒にいてくれるわけではない。一週間に一度来てくれればいい方だ。もっと幼い時は、夜になると帰っていくエメレンスによくお願いしたものだ。一緒に朝までいてほしいと。
 けれどエメレンスは困ったような顔をするだけで必ず王宮に帰っていく。ああ、だめなんだ。エメレンスはルカとずっと一緒にはいられないのだとわかった時、どうしようもなく寂しくて泣いた。
 自分の側には誰もいてくれない。どこまでいってもルカは一人ぼっちだった。
 
 ルカはぱんっと軽く自分の両頬を叩いた。
 変な期待を持ってはいけない。頬の温かさなんて気のせいだ。知らない間にお日様が当たっていて、それで温かくなっただけだ。
 ルカは林の中を駆け出した。こんな時は、あの赤いエルセの実を探すんだ。甘酸っぱくて少し食べれば空腹を満たせる不思議な木の実だ。
 エルセの実?
 ルカははたと立ち止まった。
 あの赤い実は、そんな名だったろうか。エメレンスにもらった図鑑にはのっていなくて、名前がわからなかったのではなかったか。
 一体どこからエルセの実という名が湧いて出てきたのか。不思議だ。ルカは今度はゆっくり歩きながら林の中を進んだ。見慣れた風景なのに、もう一つ別の映像がだぶって見える。もっと木々の丈が長くて、木の根がごつごつと地面から出ている林の中。もう少し行くと大きな川があって、その川は隣国との国境線だ。
 国境線だって。
 ルカは自分の思考に笑った。王宮から出たことのないルカが、隣国との国境線を知るはずがない。なんだか今日はおかしなことばかり思いつく。
 ちょろちょろと流れる水の音に、ルカは顔でも洗おうと小川に手を浸した。まだ半分寝ぼけているのかもしれない。頬の温もりといい、変な思いつきといい。今日のルカはおかしい。
 王宮の林の中を流れる水は冷たくて澄んでいる。お魚もたくさんいて、たまに自前の竿で釣り上げて焼いて食べる。
 ルカは小川の水で顔を洗った。不思議なことに冷たい水で洗っても洗っても、まだ頬の温もりは消えない。

「やっぱり変なの…」

 呟いた声に応えてくれる声はない。
 そうだよね。当たり前だ。当たり前なのに、夢の中では小さなルカの呟きにもちゃんと応えてくれる人達がいたような気がする。
 ずっと夢の中だったらよかったのにな。
 どんな夢だったか、ほとんど覚えていないが、そこにはルカの望むものが全てあったように思う。幸せな夢だ。  
 
 ルカは小川の流れてくる方へと視線で辿った。この小川を北へと辿っていくと、王宮を出て王都の街中に出る。王宮はぐるりを城壁で覆われているが、小川の流れ込む場所だけは途切れていて、そこから外に出られる。

「あれ?」

 ルカはまた思わず声が出た。
 どうしてこの小川を辿ると外へ出られると思ったのだろう。ルカは今までこの小川を北へと辿ったことはない。だからそんなこと知らないはずなのに。
 確かめてみようか。
 ルカはためらいながら小川を北へと遡った。王宮の林はあの林と比べてそれほど広くはない。
 あ、まただ。あの林ってどの林なんだろう。
 エルセの実を探しつつ歩いていくと、果たして想像した通りの光景が広がっていた。
 壁が小川の幅だけ途切れていて、その向こうにも木々が生い茂っている。でもこの壁を越えれば、ほどなく林から抜けられるはずだ。

 ここから逃げれば、新しい世界が広がっているのだろうか。夢に見たような温かな世界があるのだろうか。
 行ってみたい気持ちはあったが、でもルカは踵を返した。外はもっと酷いかもしれない。奴隷の希少種が外へ出ればどんな目に遭うのか。恐ろしくてとても逃げ出そうとは思えない。

「逃げないの?」

 小川を辿って元いた場所に戻ろうとすると、声をかけられた。黒髪黒目の希少種で、髪が大腿の辺りまである。色白の肌に大きな黒い目が印象的な女の子だ。見たことのない顔だった。もっとも、ルカはほとんど王宮にいる希少種の顔は知らないが。
 その女の子は、ルカを見ても驚かなかった。王宮奴隷はお仕着せの淡い水色に金糸で刺繍の施された丈の長い衣装を着ている。ルカのボロをまとった姿を見ると、たいてい驚かれるのだが。
 そういう女の子も、見たことのない柔らかそうな薄衣をまとっていた。女の子は「フロールよ」と名乗った。

「ねぇ、ルカ。どうして逃げないの?」

 フロールは同じ質問を繰り返した。

「どうして名前を知ってるの?」

 ルカはまだ名乗っていない。

「だってみんながルカ、ルカって呼んでたもの」

「みんな?」

 フロールはおかしなことを言う。みんなって誰のことを言っているのだろう。ルカはいつも一人ぼっちだ。ルカがそう言うと、フロールは、「ああなるほどね」と一人合点する。

「そうやって硬い殻に閉じこもって自分を守っているのね。おいで、ルカ」

 フロールが手を差し出した。はじめて会ったのに妙に親しげなフロールは、ためらうルカの手を取ると林を歩き出した。いくらも行かないうちに木立が途切れ、大きな湖が現れた。

「あれ? こんなところあった?」

 王宮の林の中はよく知っているはずなのに、はじめて見る場所だ。今までこんな大きな湖があることに気がつかなかったなんて、そんなことあるだろうか。
 湖の水は透き通ったブルーで、とってもきれいだ。陽の光を受けて湖面が金色にきらきら光っている。

「きれいだね、フロール」

 ルカはぽかんと口を開けて驚いた。きらきら光る金色が、ルカの記憶の底をつつく。フロールは湖のへりに腰掛け足を水に浸した。

「ルカもやってごらんなさい。気持ちがいいわよ」

「うん」

 ルカはフロールの隣に腰をおろし、同じように湖水に膝下を浸けた。冷たいかなと思ったけれど、意外に生暖かくて気持ちがいい。フロールが片足を跳ね上げ、水しぶきを飛ばした。ルカの頬にぴしゃっとかかって、フロールは笑った。
 ルカもフロールみたいに足をぱしゃぱしゃした。水滴があちこちに散って、フロールの顔にもルカの顔にもはねた。

「きゃっ。ルカったら、やったわね」

 フロールは水滴の散った顔でルカを見ると、片手で水をすくい、かけてくる。冷たくないのでそれもとても気持ちがよくて、でもお返しとばかりにルカは両手で水をすくって頭上高く腕を跳ね上げた。
 ぱらぱらと水滴が雨のように落ちてくる。フロールの上にもルカの上にも水滴は落ち、二人の髪は濡れネズミみたいになった。
 フロールはルカを見て笑った。ルカもフロールを見て笑った。二人でしばらく、くすくす笑いあった。
 はじめて会ったのに、フロールとは息が合う。隣りにいることが自然で、こんなにも楽しい。
 フロールなら、ずっとルカといてくれるだろうか。頼めば夜を一緒に過ごしてくれるだろうか。
 そんな期待が頭をもたげ、ルカは笑いを引っ込めた。そうやってすぐに甘い夢を見ようとするのは、ルカの悪い癖だ。断られた時の落胆が大きいから、それはだめだとあんなに自分に言い聞かせているのに。ちょっと楽しいとすぐに期待する。求めてしまう。
 ルカは膝上で両手を握り込んだ。俯いて急に黙り込んだルカの肩に、フロールは優しく手を置いた。

「何をそんなに怖がっているの? あなたはあなたの求めるものをもっと素直に欲しがればいいのよ」

「だめだよ。欲張ったらどんどんわがままになる。もっともっとと思ってしまう。ここでは何一つ欲しいものは手に入らないのに」

「欲張ったらいいんじゃなくて? 誰も咎めないわよ。人というのは本来貪欲な生き物だわ。方向さえ間違わなければ、自分の欲するものを求めればいいのよ。でもそうね。ルカの言う通り、ここにいたのでは何も手に入らないというのはそうね。あなたの求めるものは、この壁の向こうにしかないんだから」

「壁の向こうって」

 ルカは絶望的な気分で水面にきらめく金色を見た。壁の向こうに行くのは怖い。何が待っているのかわからない。今よりもっと酷い目に遭うかもしれない。それならここにいた方がましだ。月一回の診察さえ我慢すれば、あとは一人ぼっちだけれど、なんとか今までもルカは一人でやってきた。
 無我夢中でここを飛び出していった時とは違う。

「え?」

 ルカは記憶の底をつつく何かに顔を上げた。無我夢中で壁を越えた記憶が確かにある。
 おかしい。ルカは一度もここから外へ出たことはないはずなのに。

「どうして…」

 今日はやっぱり変だ。知らなかったはずの実の名前を知り、行ったことのない小川の先を知っている。それにこの水面のように、きらきら金色に光るものをルカは知っている。ルカにとって何より大事で、ずっと側にいたいと切実に願い、素直にその思いを口にしたことがある。

「……ユリウス?」

 ふと浮かんだ名を声に出して呟くと、薄膜で包んで隠していた記憶がぶわっと広がった。これまでのことが走馬灯のように蘇り、いまだ感じる頬の温もりにそっと手のひらをあわせた。
 ユリウスだ。きっとユリウスがルカの頬を手のひらで包み込んでくれているのだ。

「やれやれ。やっと思い出したわね」

「フロール? 誰?」

「ラウの妹よ。そして皆がレガリアと呼ぶそのものでもあるわね」

 ここに至る直前の出来事も思い出し、ルカはああと頷いた。

「わたし、ラウにレガリアを飲まされて。ラウって何者なの?」

「ラウは水の精霊王よ」

 フロールは希少種と呼ばれる者達が、フロールとバッケル王との間にできた子の子孫であることなどを説明した。

「体をなくした私が元に戻るためには、入れ物が必要だったの。ラウは、その入れ物にルカを利用した。でも一つの入れ物に二つの魂は共存できないの。結果、私がルカの意識をここに閉じ込めてしまったのよ。ごめんなさいね。こんなことするつもりはなかった。全くラウはほんとに勝手なんだから」

 レガリアを飲み込んだ瞬間、自分の意識が奥深くへと沈み込んでいくような感覚はあった。

「わたし、元に戻れるの?」

「もちろんよ。こうやってちゃんと目が覚めたんだから。でも悪いんだけど、私はしばらくルカの中に居候させてもらうわね。戻ったらラウに言っといてくれる? 早く私の体を見つけて元に戻してって。それまではルカの中で大人しくしてるわ」

「フロールの体って……」

 今見ているこの姿はでは何なのだろうか。
 その疑問にフロールは答える。

「今はほら、ルカの意識の底だから、実際になくても形作ることができるだけよ。たぶん私の本当の体は王宮のどこかにあると思うの。さぁそろそろ行きなさい。みんながあなたのことを心配して待っているわ。壁を越えれば元に戻れるわ」

 さぁとフロールはルカの背を押す。
 ルカは首をまわして後ろのフロールを振り返った。

「待って。フロールは? 一緒に行かないの?」

「私はここに残るわ。大丈夫。そんな顔しないで。この林はね、元々私が作ったものなの。だって変だと思わなかった? こんな街中にここだけ林があるなんて。バッケル王についてきた私が、故郷恋しさに作った林なのよ。小川も北のティルブ山から引いてきているの。この小川の水は王都の地下に落ちて、地下水脈になっているの。おかげで王都は水の豊富な街のはずよ」

「えっと……」

 ルカはあれ?と首を傾げた。どちらかというと王都は水不足で、街を巡る水路は干からびているし、ユリウスと王都に滞在していた時も、湯浴みは必要最低限にとどめていた。
 ルカがそう説明すると、フロールは「変ね」と腕を組んであごに手を当てた。が、考えてもわからなかったのだろう。とにかく早く帰れとルカを急かした。

「また会える? フロール」

「ええもちろんよ。またいつでも会いに来て。私は体が見つかるまでここにいるから」

 その返答にほっとして、ルカはフロールと別れて歩き出した。小川を辿って北へと向かって。
 今度はためらわず壁を越えた。途切れた壁をくぐり抜けると、強い光が満ち、ルカは眩しさに瞳を閉じた。
 この目を開ければ、必ずユリウスは待っていてくれる。頬の温かさに勇気を得て、ルカはゆっくりと瞳を開いた。




 
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