Escape from 底辺(EFT)

一条 千種

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第28話 渋谷のホテルで-約束-

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 俺氏こと高杉未来、高校1年生にして初めてあこがれの地、ラブホテルへと足を踏み入れる。
 それ自体は俺自身のために喜び祝うべきことであるはずだが、しかし本来なら心の準備も必要なら体の準備も必要だ。

 童貞を卒業するというのは、男にとってはまさしく清水の舞台から飛び降りるようなもんでな。

 いや、待て待て待て。

 ラブホテルに来たからといって、愛凛とベッドインするとは限らないぞ。
 彼女は普通の精神状態じゃない。とにかく、誰かに一緒にいてほしいんだ。その誰かがズッ友の俺なら、彼女にとってよほど安心できるわけで、その場所がたまたまこのような部屋だというだけじゃないか。

 ん、そもそも俺って、ラブホテルに入っていいのか?

 どちゃくそ緊張していたせいでそれどころじゃなかったんだが、もしかしてこういうとこって未成年お断りだったりする?

 俺はただ、愛凛にくっついて、道玄坂を歩いてきただけだ。途中で路地に入り、ホテル街の独特の雰囲気におびえながら、さらに歩いた。愛凛は一切の躊躇ちゅうちょなく、そのうちのひとつ、【フリータイム 4,800円】と看板の出たホテルへと入っていった。
 愛凛を引き止めることも、意中をただすことも、立ち止まることさえもできずに、愛凛は無言で部屋のボタンを押し、エレベーターに乗り、部屋のドアを開ける。
 その背中には、なにやら有無を言わさぬ意志の強さが感じられた。

 長いブーツをゆっくりと丁寧に脱ぎ、折り目正しくそろえてから、彼女は部屋のソファに座る。
 俺も、その隣に座るしかない。

 部屋にはヒーリング調の謎のピアノ音楽が流れていたが、耳障みみざわりだったのか、愛凛がすぐに消した。
 ゴク、と俺がつばを飲み込む音が部屋に響く。

 ソファに背中を預けた愛凛が、浅く腰掛ける俺の横顔に、

「みーちゃ、こういうとこ初めて?」

 と尋ねる。

「……うん、そうだね」
「そう。そしたら、緊張するよね」
「……うん、まぁ」
「みーちゃ、こっち見て」

 そわそわとする俺の横で、愛凛は異様に落ち着いている。

 俺は彼女にならい、ソファにもたれて、透き通るように美しい彼女の瞳に視線を向けた。
 寒くもないのに、全身の筋肉がこわばって、ときに小さく震えた。

「さっき、そばにいてくれるって言ったじゃん」
「うん、言った」
「ひとりにしない、さびしくさせないって言ってくれたでしょ」
「言った」
「もうひとつ、お願いがあるの」
「うん……なに?」
「今だけ、この部屋を出るまでだけ、私を愛してほしいの」

 緊張のためだろうか、のどがきゅうっとすぼまって、声が出なかった。
 ただ唇が、小刻みに、意味もなく動いただけだった。

「嫌?」

 と、愛凛は容赦ようしゃがない。

「嫌なら、そう言って」
「……俺は」

 声がかすれ、一度、のどと舌と唇に意識を集中させる。

「その、嫌じゃないけど、どうしてそうしたいの?」
「……ショック療法かな」
「ショック療法?」
「そう。悲しくてつらい自分に、別のショックを与えて、元気になるの。大切な人に、これ以上ないってくらい愛されて、幸せな気持ちを持ち帰りたい。そうしたら、きっとひとりに耐えられるから」
「……その、どうして俺?」
「女の子じゃダメなの。女として、男として、愛されたい。いっぱい愛を感じたい。そんなこと、本当に信頼してお願いできるの、私にはみーちゃしかいないよ」

 彼女のその答えは、俺にとっては答えになっているようでなっていないように思われた。

 なぜ、俺に愛されたいのか?
 なぜ、俺になら頼めると思うのか?
 なぜ、俺をそこまで信頼するのか?
 俺が、彼女の親友だから?
 異性の親友は、ときにそういう関係になるものなのか?
 いや、そもそもお前は、俺を愛しているのか?
 そうでないなら、単に俺を利用したいだけなのか?

 俺には分からない。

 彼女の気持ちが分からなかった。
 ただ、俺はそんな豊かな源泉のようにき出る疑問よりも、彼女が俺だけを信じてこうして頼ってくれるのがたまらなくうれしく、そしていじらしかった。

 俺に、彼女を守ることができるなら。彼女に愛を感じてもらえるなら。
 彼女が、幸せな気持ちを胸に、今日この日を終えることができるなら。
 俺にできることはしようと、そう思った。

「分かった」
「いいの?」
「うん。けど俺、初めてだから、たぶんうまくできないよ」
「上手とか下手とかじゃないの。愛情を感じたいだけ。今だけ、私のこと本気で愛したつもりになって」
「今だけ……」
「うん、今だけの約束。みーちゃとはズッ友でいたいから。この部屋を出たら、昨日までの親友に戻る。それでもいい?」

 そんなことができるのか?
 一度、体を重ねて愛し合った男女が、まるで魔法がとけたように、もとの友達に戻ることなんてできるのか?

 どうだろう。俺には自信がない。

 しかし、俺は応諾おうだくした。

 ひとつは、愛凛の望むままに応えたい気持ち。これは親友としての親愛の情なのか、あるいはそれまで無意識のうちに封じていた、男としての彼女に対する愛情なのか、それは俺自身にもよく分からない。

 それから、もうひとつは情欲だった。愛凛は、本来なら友達になれたことさえ奇跡と言ってもいい、美しい女だ。その彼女を抱いてもいい、愛してもいいと知ったときの、その誘惑は強烈だった。
 抱きたい。愛したい、彼女を。

 愛凛は、俺の同意を得ると、さらに次々と、要求を口にした。

「じゃあ今だけ、私のこと愛凛って呼んで。私も、未来って呼ぶ」
「う、うん。愛凛……」
「未来」

 愛凛は俺の名前を呼びながら、手を握った。
 意外なほど小さく、華奢きゃしゃな手だった。
 その肌のなめらかさ。

 これまでも、愛凛の肌に触れたことはある。
 例えば、蓼科たてしな生活のかくれんぼのとき。そのあとのキャンプファイヤーでは手もつないだ。スポーツ大会で彼女をおんぶしたときは脚にも触れたし、それ以外にも偶発的に肌が触れ合ったことはある。

 だが、今回は意味合いが違う。互いの意志で、愛情を確認し合うために、手をつないでいる。

 急速に、手が汗ばんでくる。
 愛凛には、俺のそうした生理的な反応や、目の動き、体の動きで、手にとるように心理状態が察せられるらしい。

「緊張してる?」
「う、うん」
「楽にして。私が教えるから。っていっても、私も二人目だから、そんな慣れてないけど」
「ありがとう」
「前の彼氏のこと、一度話したことあるでしょ。私、セックスが怖いの。セックスで愛されたことがないの。でも、今日はセックスして、愛されて、幸せを感じたい」

 ぎゅっ、と愛凛の手に力がこもる。

 俺は生まれたての子鹿のようにガクブルしながら、これから始まる愛凛との甘美な時間に想像をめぐらせた。
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