Escape from 底辺(EFT)

一条 千種

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第29話 渋谷のホテルで-初キス-

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 なにせ、初めてのことだ。
 いくらその手の映像作品を見て予習を重ねてきたとはいえ、いざ実践となれば心細いものだ。

 聞いたことがあるぞ。
 学問には、目学問、耳学問、体学問があって、そのなかで最も重要なのは体学問だと。
 その理論からいくと、これが俺にとって初めての実践の場で、俺自身はまだまだなにも知らないひよっこということになりそうだ。

 すべては、愛凛がリードしてくれる。

「立って」

 手を引かれるまま、愛凛の前に立つ。
 異常な近さに、愛凛の顔がある。
 高校入学の頃、ふたりの背丈せたけはほとんど変わらないくらいだったが、今は俺の成長スピードが速いのか、少しだけ俺の目線が高い。

「抱きしめて」

 その通りにした。
 彼女は、愛凛の体は、俺が想像していたよりもよほどやわらかかった。

 そして、その瞬間、自分でも驚くほどの、ほとばしるような感動があふれた。
 こんなに、これほどに切なくて、いとおしい感触が、世の中にはあったのか。

 同時に、俺は予感した。
 このような感覚を味わって、これからさらにこのような振る舞いを続けて、終わってのち、彼女を離すことなどできない、できるわけがない、と。
 今の今だけ、彼女を愛して、この部屋を出たら、またもとのズッ友に戻る、そんな器用なことはできないだろうと思った。

 それでも、愛凛の言うまま、俺は彼女を抱きしめた。

「もっと、強く抱いて」

 応えると、愛凛も同じように、俺の背中に手を回した。

 まるで、愛し合う恋人のように。

 シャンプーの爽やかな匂いと、それとは別の、恐らく香水の甘い香りが、首元からただよう。
 一瞬、俺はその芳香に恍惚こうこつとした。

「未来、すごくドキドキしてる。心臓疲れちゃうよ」
「うん……いきなり心臓止まったらごめん」
「じゃあ、人工呼吸の練習しよっか」
「えっ……」
「ファーストキス、とっておきたいなら、しなくてもいいよ」
「ううん、その……キス、したい」

 愛凛が優しい微笑みを見せた。俺の言葉が、あまりに子どもっぽいからだろうか。

「カワイイじゃん」

 微笑を浮かべたまま、愛凛の目が、唇が、近づいた。

 ファーストキスの感触、聞きたい?

 なんと言えばいいのか。
 キスって、唇と唇が触れ合う、それだけのことだろ?

 それだけのことなんだけど、なんだか特別な感じがした。多くの人が、ファーストキスというものにあこがれや、神聖さや、甘酸っぱさ、よろこびといった特殊な価値を与え、意味ある思い出として記憶したがるのが、分かる気がした。
 彼女の唇はやわらかく、接触面を通じて、びりびりと感電するように大量の愛情が流れ込んでくる。味はしないが、香りはした。愛用しているリップグロスの香料なのかもしれない。

 こんなにも気持ちのいいものがあるのかと、俺は身もだえするような思いにかられた。

 愛凛は、そんな俺に感想を求める。

「……なんか、気持ちいい」
「そうでしょ。キスって気持ちいいんだよ」
「もっとしていい?」
「いいよ。いっぱいして」

 俺は、愛凛のリードに従いつつも、まるで教わったばかりのことを反復練習するように、ただひたむきに口づけを繰り返した。
 夢中になるほどに、この覚えたてのキスは快美をもたらす体験だった。

 やがて、愛凛は唇の動きに大胆な技巧を加えた。軽く唇を開き、俺の唇を挟むようにしたり、吸ったり、ついばむようにする。

 大人のキスだ。
 これが、大人のキスだ。

 俺は一心不乱に応えようとしたが、必死すぎたかもしれない。

「そんなに唇に力入れなくていいよ。力抜いて」
「う、うん。ごめん」
「謝らないの。リラックスして、楽しんでくれた方が、私もうれしいから」
「分かった。ありがとう」
「のどかわいてるみたい。なにか飲む?」
「うん、なんでもいいけど」

 確かに、緊張のために口の中が干上ひあがったようにカラカラだ。
 愛凛はテレビの下にある自販機から、飲み物を2本、取り出した。

「はい、お水あげる」
「ありがと……って、愛凛のそれなに?」
「これ、メキシコ風の麦ソーダ水」

 (麦ソーダ水……?)

 彼女は再びソファに座り、せん抜きで開栓すると、そのままびんごとラッパ飲みした。
 麦といえばいかにも麦のような、透き通った黄色い飲み物だ。

 不思議そうにしていると、愛凛の唇と瞳が、いたずらっぽく変化した。

「おいしいよ。飲んでみる?」

 好奇心のままにうなずくと、彼女はもう一度、瓶をあおり、口に含んだまま、ソファに座る俺の腰をまたいだ。
 俺の頬を両手で支え、上からゆっくりと口をつける。
 俺は彼女の意図を察し、唇を開いた。

 麦と、それから柑橘かんきつのフルーティーな香り、強烈な苦みが、口いっぱいに広がる。

 あ、俺、死ぬわ。

 たぶん、この部屋から生きて出られない。
 こんなことされたら、脳がドロドロに溶けて、死ぬと思う。

 愛凛は、放心状態の俺の顔を、じっと見つめている。

「おいしい?」
「……うん、おいしい……」

 彼女は無言で、もう一度同じことをした。
 正体不明のその飲み物を含み、俺の口に流し込む。

 そのまま、俺と彼女とは、ずいぶんと長い時間、口づけを交わした。

 愛凛は気分がよくなったのか、これまで見せたことのないような、ぼんやりとした、あるいはうっとりしたような甘い瞳を見せた。

「ね、これ好きなんでしょ?」
「うッ、こ、これは……!」

 俺の膝に尻を乗っけたまま、腕を背中に回し、両脚でがっちりと腰を引き寄せる。
 だ、だいしゅきホールド!

 (こいつ、調べたな……!)

 絶句する俺に思わずクク、と声を漏らしながら、赤いネイルを施した指を妖しく動かして、俺のシャツのボタンを外していく。

「私のことも、脱がして」

 俺は手を伸ばすが、指が無残なほどに震えている。
 それでも、愛凛は待ってくれた。

「あせらなくていいよ。ゆっくり、時間かけて」
「分かった」

 フロントボタンと、それから袖のボタンを外すと、愛凛は自分で袖を抜いた。
 白をベースに、赤い花が刺繍ししゅうされ、ストラップは黒という、オシャレなブラジャーが眼前に現れる。

 俺は残念ながら女性の下着に関して専門家ではないが、そんな俺でさえ、その質感やデザインから一目で高級なものであると想像がつく。

 俺が黙って下着を凝視ぎょうししていると、愛凛はかわいい要求を重ねる。

「……めて」
「……あ、うん……きれいだよ」
「肩とか、おなかとか、背中とか、さわって」
「うん……」

 ここでも、俺は言われた通りにする。

 まるで、愛凛の命令に忠実に従う、出来そこないのロボットのようだ。
 愛凛はしかし、そんな俺に対してさえ、おかしさとともにいとおしみも感じるらしい。

「なんか、壊れもののガラス細工を扱ってるみたい」
「ごめんね、いくらなんでも下手すぎだよね」
「だから、謝らないの。それに私、うれしいよ。私のこと、傷つけないように、大切にしてくれてるんだよね」
「それは、もちろん大切だし、愛凛のこと傷つけたりなんかしないよ」
「うれしいよ。それでいいの。私のこと、大切に、愛して」

 ふと愛凛の目の端を見て、俺は気づいた。

「愛凛……泣いてるの?」

 彼女は返事をしなかった。
 ただ、いつもとはまるで別人のような、それこそ聖母のような慈愛と情愛を感じさせる眼差まなざしで、俺を見つめている。

 この時に、俺はわずかの迷いもなく、確信した。

 俺は、愛凛を愛している。愛し始めている。

 いとおしさが、激情になり、気づくと、夢中で彼女を抱きしめていた。
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