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第4話 誰にも言えないリスト
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“やりたいことリスト”は、誰にも見られないように、ノートの奥や枕元にそっと隠している。
ベッド脇に置かれた病院から借りている記録端末にも、ときどき思いつくままにメモを残してみた。でも、それは“他の人が覗こうと思えばすぐに見えるもの”だと気づいてしまい、保存したあとで消してしまうこともあった。
「生きたい」と思う自分の気持ちは、なぜだかまだ秘密にしておきたいままだった。
窓の外からは、以前よりもはっきりと波の音が届いてくる。
病院は丘の上にあるはずなのに、潮騒が近づいてきている――そんな変化を肌で感じていた。
いつの間にか、遠くの街並みは水面に呑まれ、低い場所にあった道路や建物も少しずつ水に沈んでいくのがわかる。
そして、あれから両親は毎日のように病室へ顔を出していた。
「また明日来るからね」と、母さんは変わらず優しい声で笑いかけてくれる。
父さんは何か伝えたいことがあるのか、僕の顔をじっと見つめたまま、なかなか言葉を口にしないことが多かった。
その間も、僕は何度もリストを確かめては、小さな紙切れをぎゅっと握りしめるのが癖になっていた。
書いてあるのは、日々の思いつきや、そのときに感じた“ほんのささやかな願い”だ。
たとえば、
「いつか普通の服で外を歩いてみたい」
「自分でお湯を沸かしてカップラーメンを作ってみたい」
「夜の空を誰にも邪魔されずにゆっくり眺めたい」
「温かいお風呂に長く浸かりたい」
叶えられないものも中にはあるとは思う。けれどそれでも良かった。
――そんな、入院前には考えもしなかったようなことばかりだったから。
昼間はリハビリ室で、理学療法士の先生とストレッチや歩行訓練に励む。
不思議なもので、「生きる」と決めた日から、手や足を動かすたびに“昨日より少しでも前に進めたらいい”と思うようになった。
「最近、やる気が出てきたみたいだね」
先生は少し驚いた様子で声をかけてくれる。
毎日同じようなことの繰り返しだったのが、いまは“外に出る準備”だと感じられるようになった。
そんなある日、主治医の先生が病室にやってきた。
きちんと糊のきいた白衣をまとい、どこまでも事務的で隙のない雰囲気。
「綾瀬くん、少しお話ししましょう」
僕は咄嗟にリストを枕の下に隠し、先生の方を向いた。
「君が“生きたい”と希望していることは、桐野さんからも聞いています。ただ、外で生きていくことがいかに困難かは理解できていますね?」
「……はい。分かっています」
「それでも、僕は――生きていたいんです」
思いのほかはっきり口にできて、我ながら驚いた。
先生はほんの一瞬だけ表情を動かしたようだったが、すぐに淡々とした声に戻る。
「分かりました。それではそのように資料を作成し、提出してきます。必要な手続きや情報は改めて説明しますので」
本当に、淡々とした、どこまでも公平な口調だった。
先生が帰ろうとするタイミングで、僕はもう一度だけ声をかける。
「あの……先生。両親には、僕が“生きたい”と決めたこと、まだ伝えないでほしいです」
先生は一瞬だけ立ち止まって、振り返った。
「なぜですか?」
「……自分の口で伝えたいんです。まだ気持ちの整理がついていなくて」
先生はわずかにうなずき、小さく息を吐いた。
「分かりました。君自身が決めたことなら、それに口出しはしません。何かあれば、いつでも声をかけてください」
それだけを言い残し、静かに病室を出ていった。
夜になると、波の音はますます大きくなったように思えた。
もうここでの暮らしも、長くは続かないのかもしれない。
ベッド脇のノートに、今日も「リハビリを頑張れた」とだけ書き残す。
“まだやれることがある”という思いが、小さな灯のように胸の奥に灯っていた。
こうして僕の“秘密のリスト”は、少しずつ増えていった。
ベッド脇に置かれた病院から借りている記録端末にも、ときどき思いつくままにメモを残してみた。でも、それは“他の人が覗こうと思えばすぐに見えるもの”だと気づいてしまい、保存したあとで消してしまうこともあった。
「生きたい」と思う自分の気持ちは、なぜだかまだ秘密にしておきたいままだった。
窓の外からは、以前よりもはっきりと波の音が届いてくる。
病院は丘の上にあるはずなのに、潮騒が近づいてきている――そんな変化を肌で感じていた。
いつの間にか、遠くの街並みは水面に呑まれ、低い場所にあった道路や建物も少しずつ水に沈んでいくのがわかる。
そして、あれから両親は毎日のように病室へ顔を出していた。
「また明日来るからね」と、母さんは変わらず優しい声で笑いかけてくれる。
父さんは何か伝えたいことがあるのか、僕の顔をじっと見つめたまま、なかなか言葉を口にしないことが多かった。
その間も、僕は何度もリストを確かめては、小さな紙切れをぎゅっと握りしめるのが癖になっていた。
書いてあるのは、日々の思いつきや、そのときに感じた“ほんのささやかな願い”だ。
たとえば、
「いつか普通の服で外を歩いてみたい」
「自分でお湯を沸かしてカップラーメンを作ってみたい」
「夜の空を誰にも邪魔されずにゆっくり眺めたい」
「温かいお風呂に長く浸かりたい」
叶えられないものも中にはあるとは思う。けれどそれでも良かった。
――そんな、入院前には考えもしなかったようなことばかりだったから。
昼間はリハビリ室で、理学療法士の先生とストレッチや歩行訓練に励む。
不思議なもので、「生きる」と決めた日から、手や足を動かすたびに“昨日より少しでも前に進めたらいい”と思うようになった。
「最近、やる気が出てきたみたいだね」
先生は少し驚いた様子で声をかけてくれる。
毎日同じようなことの繰り返しだったのが、いまは“外に出る準備”だと感じられるようになった。
そんなある日、主治医の先生が病室にやってきた。
きちんと糊のきいた白衣をまとい、どこまでも事務的で隙のない雰囲気。
「綾瀬くん、少しお話ししましょう」
僕は咄嗟にリストを枕の下に隠し、先生の方を向いた。
「君が“生きたい”と希望していることは、桐野さんからも聞いています。ただ、外で生きていくことがいかに困難かは理解できていますね?」
「……はい。分かっています」
「それでも、僕は――生きていたいんです」
思いのほかはっきり口にできて、我ながら驚いた。
先生はほんの一瞬だけ表情を動かしたようだったが、すぐに淡々とした声に戻る。
「分かりました。それではそのように資料を作成し、提出してきます。必要な手続きや情報は改めて説明しますので」
本当に、淡々とした、どこまでも公平な口調だった。
先生が帰ろうとするタイミングで、僕はもう一度だけ声をかける。
「あの……先生。両親には、僕が“生きたい”と決めたこと、まだ伝えないでほしいです」
先生は一瞬だけ立ち止まって、振り返った。
「なぜですか?」
「……自分の口で伝えたいんです。まだ気持ちの整理がついていなくて」
先生はわずかにうなずき、小さく息を吐いた。
「分かりました。君自身が決めたことなら、それに口出しはしません。何かあれば、いつでも声をかけてください」
それだけを言い残し、静かに病室を出ていった。
夜になると、波の音はますます大きくなったように思えた。
もうここでの暮らしも、長くは続かないのかもしれない。
ベッド脇のノートに、今日も「リハビリを頑張れた」とだけ書き残す。
“まだやれることがある”という思いが、小さな灯のように胸の奥に灯っていた。
こうして僕の“秘密のリスト”は、少しずつ増えていった。
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