拝啓 未来に残らない僕たちへ

くじら

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第6話 静かな日々のはじまり

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 都市行きのバスが去ってから、病院は本当の意味で静かになった。

 残された患者の多くは、自分で動くことができない人たちだ。点滴や吸引器が命綱で、ベッドから動くことすらできない人もいる。
 そんな彼らのケアを、桐野さんが一人でやろうとしていた。見かねた先生――黒川聡(くろかわ さとし)――が、無言でその作業を交代しながらこなす姿があった。


 「桐野さん、次の投薬は私がやる。記録もそっちにまとめておいて」


 黒川先生は事務的にそう言って、患者の体温や点滴の残量を確認していく。
 先生がこんなふうに、他の患者さんと直接向き合っているのを僕は初めて見た気がした。
 今までは僕のところにも、いつもは看護師さんが来てくれて、先生は検診のときに短く言葉を交わすくらいだった。

 だけど今は違う。
 桐野さんが手を離せないときには、先生が自分でベッドサイドに立ち、静かに患者さんの様子を見て回る。

 そんな先生の背中を見て、僕は少しだけ意外な気持ちになった。


 (――先生も、本当はここに残された人たちを捨てきれなかったんだ)


 誰もが都市に行きたかったわけじゃない。
 でも、ここに残ったということは、何かしらの“決意”があったのだろう。
 それを口にすることも、態度に出すこともない人だけど、今こうして動いていることがすべてだった。

 

 「今日は天気がいいみたいね」


 桐野さんはいつもの調子で、窓のカーテンを開けてくれる。
 ベッドの上で寝返りも打てない患者さんに優しく声をかけていた。


 「じゃあ、ちょっと空気入れ替えるね。……眩しすぎたら言ってね」


 患者さんはわずかに目を開き、微かに頷いた。
 本当は、もう自分では起き上がれない。でも、こうして“誰か”が声をかけてくれるだけで、少し安心したような表情になる。

 

 桐野さんは忙しそうにベッドサイドを行き来しながら、僕にだけ小さく笑いかける。


 「……人数が少ない分、やることも多いのよね。朔也くんも、あんまり無理しないで」

 「……僕も、何か手伝えますか?」

 「リハビリがてら、簡単な見回りぐらいなら――うん、お願いしようかな」


 そう言いながらも、僕ができる範囲をしっかり見極めてくれる。

 

 リハビリのため、僕はゆっくりと廊下を歩く。
 途中で先生とすれ違うと、先生は淡々とカルテを片手に、


 「無理をしすぎないように。次の見回りは僕がやるから、リハビリを優先していい」


 とだけ言い、いつもの調子で各病室を見て回る。

 

 となりの病室から、静かな呼吸音が聞こえる。
 その部屋の田島さんは、もう長いこと自分で動くことができない人だ。
 僕が扉の前に立つと、田島さんが気づいた。


 「……綾瀬くん?」

 「田島さん、おはようございます。今日はどうですか?」

 「ん。まあ、ぼちぼちだな。……ここに残るなんて、あんまり良いもんじゃないと思ってたけど、先生も桐野さんもいてくれて助かったよ」


 田島さんは照れ隠しのように小さく笑った。
 枕元には、色あせた家族写真が飾られている。


 「本当はね、家族がもう一緒にいられないって分かっててさ。でも、最後まで“誰か”がそばに居てくれるのは、やっぱり違うもんだ」


 僕は、ただ頷くことしかできなかった。


 「無理に生きてくれなんて思ってないよ。でも……君みたいな若い子がここにいてくれると、なんだか安心するんだ」

 

 廊下を進んでいくと、他の病室でも桐野さんが患者さんに声をかけていた。
 もう喋ることもできなくなった人。微かなまばたきでしか意思を伝えられない人。
 それでも、桐野さんや先生の声に反応して、まぶたや指先がほんのわずか動くのが分かる。

 みんな、本当はもっと早く“誰にも見送られずに終わる”と思っていたのかもしれない。
 でも今は――桐野さんと先生が残っている。そのことが、どれほど心強いのか、僕にも少し分かる気がした。

 

 生活資源――病院の備蓄や水、非常用電源。数年分はあると言われている。
 けれど、このままじゃ永遠には生きていけない。
 外の世界から、食糧や日用品を調達する必要があることは、誰もが分かっていた。


 「……先生も、時々は一緒に外に出てくれるんですか?」


 自分なりの見回りが終わったあと、先生と合流してそんなことを話していた。
 黒川先生は少しだけ眉を動かしたが、やはり淡々と答える。


 「必要があればな。だが基本は、院内での管理が優先だ。外の状況も、今後は逐次把握しなければならない」

 「……ですよね」


 会話は短いけれど、ほんのわずかに先生の“覚悟”のようなものが滲んでいる気がした。

 こうして、僕たちの新しい日常が始まった。

 

 リハビリを終えて、自室に戻る。
 ベッドに腰を下ろしてから、そっとカバンの奥から“やりたいことリスト”を取り出した。

 ペンを手に、今日の出来事を思い返す。

 

 ――「誰かの力になりたい」

 

 そう、そっと書き足した。
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