拝啓 未来に残らない僕たちへ

くじら

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第8話(前編) 帰りたかった場所

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数日ぶりに雲が切れて、朝の光が病院の廊下を淡く照らしていた。
 まだ静かな院内。その空気の中で、僕はずっと考えていた。「家に帰りたい」と思う気持ちは日に日に強くなっていた。

 端末に書いたやりたいことリスト。その一番上、「家に帰る」という項目が、どうしても気になって仕方がなかった。
 あの家に、自分のものが、思い出が、何かひとつでも残っている気がしてならなかった。もしかしたら、今となってはどうでもいいものばかりかもしれない。それでも、自分の足で確かめてみたいと思った。

 でも、一人で出歩くのはまだ難しい。
 そんな時、リハビリ室で片付けをしていた桐野さんに、思い切って声をかけた。


 「桐野さん、ちょっと相談があるんです」

 「うん? どうしたの?」


 柔らかい声と視線に、背中を押されたような気持ちになる。

 僕は端末の画面を見せながら言う。


 「家に帰ってみたいんです。……今なら、リハビリも順調だし、先生も桐野さんか先生自身が一緒であれば、外に出てもいいと仰ってました。」


 桐野さんは一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに小さくうなずいた。


 「そっか。もう先生には伝えているのね。家に最後に帰ったのは入院前だから、4年は帰ってないものね。行きたくなるの、わかるよ」

 「あの、もし無理そうなら先生に……」

 「だいじょうぶ。私が付き添うよ。外は危ない場所もあるけど、私もずっと気になってたし。何より、朔也くんが自分から“行きたい”って言えたこと、すごく大事な一歩だと思う」


 その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなった。

 その日のうちに、二人で黒川先生のもとへ外出の許可をもらいに行った。
 先生はリハビリの進捗データや体調の記録を確認して、少しだけ長く黙った。


 「……体調に問題はないな。途中で異変を感じたら、直ぐに戻ること。それと、外での行動記録を残すこと。以上を守ってくれ。桐野さん、外ではお願いしますね」


 その事務的な声にも、どこか安心を覚える自分がいた。

 「分かりました」と返すと、先生は「何かあったら、すぐに連絡を」と小さく付け加えた。

 病室に戻ってから、僕は自分のノートと端末を見比べた。
 家に帰る理由は、本当に自分の中でもはっきりしていた。


 "あの家に、何か残っている気がするから。たとえ何もなくても、今の自分の目で、ちゃんと終わらせたい"

 ベッドに座って、じっと手を見つめる。


 「……ようやく、ここまで来たんだな」


 リハビリで少しずつ回復してきた体。自分の意志で何かを“やりたい”と動くこと。すべてが、今までの僕と違うところだ。

 外では、カラスの声と遠くの波音が交じり合い、どこか懐かしさと寂しさを運んでくる。
 窓から坂道のほうを眺めると、病院の敷地の先に、小さな家並みがまだ残っているのが見えた。


 その先に、僕の家がある。

 僕は、出発までの準備を始めた。
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