拝啓 未来に残らない僕たちへ

くじら

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第10話(後編1): 思い出の不在

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 ボートを進めながら、何度も後ろを振り返った。
 病院のある丘は、もうはるか遠くに見えなくなっている。
 水面に反射する陽の光がまぶしい。静かだけど、まるで知らない土地に来たような、不安と高揚がないまぜになった気持ちだった。




____________________________________





「……もしかして、あれが?」


家が見えてきた瞬間、僕は思わず声を呑んだ。
 
 水面に沈む町並みの中、かろうじて二階のベランダだけが昔のまま残っている。玄関も窓も、すべて濁った水の底。
家のまわりに残された柵や植え込みは、水面からわずかに頭を出しているだけだ。

 桐野さんがボートをゆっくり家の脇に寄せてくれる。僕は何度も深呼吸し、緊張で汗ばんだ手のひらをズボンで拭った。


 「ここまで来ると、本当に家が水の中にあるんだな」
 

 呆然と呟く僕の横で、桐野さんがやさしく頷く。
 

 「私はここまで来たのは初めてだから、こうして目で確認するまで分からなかったよ」
 

桐野さんが慎重に辺りを見渡す。


「……これ、どうやって入る?
普通に玄関からしか考えてなかった」

「できるか分からないですが、ロープをベランダの手すりに引っかけて、そこから登れそうです」


持ってきたロープを握りしめながら、二階のベランダに目をやる。
何もやらないよりやってみた方がいいだろう。

 ボートを家の脇に寄せて、金属の柵にしっかりロープで係留する。
 ぐらぐらと頼りない足場の上、僕は持ってきたロープのフックをベランダの手すりへ何度か投げる。
 一度目は外れてしまったけれど、二度目でカチンとしっかりひっかかった。
 

 「桐野さん、ボートを頼みます」
 
 「わかった。無理しないで、危なかったらすぐ呼んで」

 
 手が震えそうになるのをスーツの補助に頼りながら、慎重にロープを伝って登っていく。
 思ったよりも高くて途中で少し怖くなったが、それでもベランダの手すりをつかんだとき、足元からずっと冷たいものが抜けていく気がした。
 
 ベランダのガラス戸は閉まっていたけど、鍵はかかっていなかった。手をかけて静かに開くと、湿った空気が一気に流れ込んできた。
 

 「……懐かしい匂いがする」
 

 久しぶりに踏み入れた二階の両親の寝室は埃っぽく、どこか時間が止まったままだった。
 外から差し込む光に、細かな塵が舞っている。
 
 下を見下ろせば、桐野さんが不安そうにこちらを見上げている。
 僕は手を振って大丈夫と合図をした。

 心臓がドクドクとうるさいほどに鳴っている。
 あの頃は毎日のように上り下りしていた階段も、今は水の底。

 
 “もう、この家で普通に過ごせる日は戻ってこないんだな”

 そう実感しながら、僕はゆっくりと自分の部屋へと向かう。



_________________________________




 二階の廊下を歩くたび、床がかすかにきしむ。
 あの日のまま残されたカーテンや、壁にかかった両親の似顔絵――どれも、薄くほこりを被っていた。


 自分の部屋の前につき、1度深呼吸をしてからドア開ける。
 家具の配置は入院前と変わらず、学習机とベッド、棚だけが残されていた。
 机の上には誰もめくることがなかった、色あせたカレンダーが置いてある。

 ……あまりにも、物がない気がする。
 部屋に入り、勉強机の引き出しを開けても、メモ帳や使いかけの文房具、古いノートが少し入っているだけだった。
ここに来る目的に入っていた1つ、記録端末もない。

もしかしてと思い、棚を見れば所狭しと並んでいた教科書や漫画は倒れているし、置いてあったはずのアルバムはなくなっていた。



くまなく探すこと10分。
ようやく理解ができた。

___もうここには、必要なものは残っていないんだ。


(母さん達がきっと、持って出て行ったんだろうな) 



 どこかで覚悟していたのに、胸の奥にぽっかりと穴があいたような気持ちになる。

押入れやクローゼットを探しても、服が数枚かろうじてかけられているだけで、肝心のアルバムや記録端末は見つからなかった。


____どうしても持ち帰りたかったものは、もう家族の手で新しい土地に運ばれてしまったんだ。


いつからなんだろう。
もしかしたら、ずっと前から、“この家を捨てる覚悟”をしていたのかもしれない。

“僕の帰る場所は、もうここにはない”

 そんな現実感が押し寄せてきて、部屋の温度が下がった気がする。
 静かな部屋の中で、僕は膝を抱え、しばらく動けなかった。
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