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3.あなたのおかげで今、わたしは幸せです
4.
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宣言通り、アシェルはそれからさらにダニエルのことを気にかけるようになった。毎朝ダニエルの部屋に顔を出し、たっぷりと抱っこをしてから仕事に向かう。それ以外の時間も暇さえあればダニエルのもとにやってきて、彼の世話をしたり、遊んでくれたりするようになった。
(ダニエル様、とっても嬉しそう)
はじめはアシェルが触れる度に不安そうな顔をしていたダニエルも、今では彼が来る度に弾けるような笑顔を見せてくれる。そうすると、アシェルも嬉しそうに笑うので、フィオナは一層幸せな気持ちになった。
「ダニエル……と、寝ているのか」
ある時、ダニエルの昼寝中にアシェルがやってきた。彼は音を立てないようベビーベッドに近づくと、ダニエルの寝顔に目を細める。
「かわいいでしょう?」
「……ああ」
幸せそうなアシェルの笑顔を見つめながら、フィオナは胸がいっぱいになった。
「それは……なにを書いているんだ?」
「これですか? 実はここに来てから毎日、ダニエル様の成長録をつけているんです」
「ダニエルの?」
目を丸くするアシェルに、フィオナは革張りの冊子を手渡す。
「はい。どんなふうに一日を過ごしたのか、その日のご様子、わたしが感じたことなどを書き綴っております。そしたら、いつかダニエル様のお母様が戻っていらっしゃった時に、お渡しすることができるでしょう?」
「……そうか、それで」
ダニエルの母親について、使用人たちは頑なに口をつぐんでいる。今どこにいるのか、どんな事情があってダニエルを置いていったのか、どうしてアシェルがそれを受け入れたのか、フィオナには知る由もない。
けれど、もしも自分がダニエルの母親なら、どれだけ離れていても我が子の様子を知りたいと思う。だから、もしも彼女が再び公爵家に現れたときのために記録を残そうと思ったのだ。
「ありがとう、フィオナ」
アシェルはダニエルの成長録にひととおり目を通した後、泣きそうな表情で微笑む。
「けれど、ダニエルの母親は――妹はもうこの世にいないんだ」
「え?」
アシェルの言葉に、フィオナは目を見開く。
「アシェル様の妹……?」
「ああ。実は、ダニエルは妹と身分の低い男性との間にできた子なんだ。だが、妹は出産の時に命を落としてしまった。相手の男性も病気でこの世を去ってしまって……それで公爵家の子として育てることにしたんだ。けれど、そんな事実を大っぴらにするわけにもいかないし、ダニエルの将来のことも考えると、私の子と偽るのが一番だろうということになった。私は女性が苦手だし、後継者も確保できてちょうどいい、と」
「そうだったんですね……」
返事をしながら、フィオナはそっとダニエルを見た。
ダニエルとアシェルはよく似ている。言われなければ永遠に気づかなかっただろう。
「だけど、そんな秘密をわたしに打ち明けてよかったのですか?」
「……君だから打ち明けたんだ」
アシェルはそう言って、フィオナの手をギュッと握る。フィオナの心臓がドキッと高鳴った。
「どうか、これからもずっと、私とダニエルの側にいてくれないだろうか?」
「それは……もちろんそのつもりです。ダニエル様の成長をこの目で見守り続けたいと願っておりますわ」
眼差しが熱い。フィオナはアシェルから目をそらしつつ、そんなふうに返事をする。
「使用人としてではない。私の妻として、ダニエルの母親として、共に生きてほしい。……フィオナのことが好きなんだ」
アシェルはそう言って、まじまじとフィオナを見つめた。
(アシェル様がわたしのことを……?)
こんなふうに好意を打ち明けられたのは生まれて初めてのことだ。元夫のハリーとは完全な政略結婚で、夫婦としての義務的なふれあいしか経験していない。彼はすぐに愛人ができてしまったし、自分には縁がないとすら思っていた。
(嬉しい)
愛情には愛情が返ってくるなんて思っていない。それでも、誰かに想われていると思うだけで、心が温かくなる。フィオナ自身、アシェルに惹かれている自覚があったのだからなおさらだ。
けれど――。
「申し訳ございません」
アシェルの想いにこたえるわけにはいかない。フィオナは静かに首を横に振る。
「それはなぜ?」
「わたしは……一度離婚を経験しています。公爵夫人にふさわしくありません」
言いながら、涙が込み上げてくる。
本当は嬉しいと伝えられたなら――「はい」とこたえられたらよかったのに。そう思わずにはいられなかった。
「そんなこと、私はちっとも気にしないよ」
アシェルがフィオナの手の甲に口付ける。慈愛に満ちた温かな瞳。彼はフィオナと出会ってから大きく変わった。その理由がフィオナにあるのは間違いないだろう。
「無理ですよ。だってわたしは、わたしには――アシェル様の子を生むことができませんから」
「え?」
胸が引きちぎられそうなほどの痛みをこらえながら、フィオナはそっとアシェルを見上げる。
あの日のことを打ち明けるのは、フィオナにとってあまりにも辛いことだった。思い出したくない過去と、向き合いたくない未来。――けれど、アシェルがフィオナとの結婚を望んでいる以上、黙っているわけにはいかない。
ひととおり事情を終えると、アシェルは「そうだったのか」とつぶやいた。
(本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう?)
フィオナはお腹の子と夫を一度に失った。それだけでなく、他の誰か――アシェルと一緒になる未来まで奪われてしまった。あの時は、ハリー以外の誰かと結婚するなんて想像すらしていなかったけれど、フィオナにはそんな道はないのだと、現実を突きつけられたような気がする。
「――けれど、私はそれでも構わないよ」
と、アシェルが言う。フィオナは「え?」と目を見開いた。
「夫婦として、君と共に生きていきたい。フィオナを愛しているんだ」
力強いアシェルの言葉。フィオナの瞳から涙がこぼれ落ちる。アシェルはフィオナを力いっぱい抱きしめた。
「それに、私たちにはダニエルがいる。あの子は私の子供だ。……君がそう思わせてくれたんだ。だから、子供のことは気にしなくていい。私はフィオナと結婚したいんだ」
込み上げてくる幸福感。フィオナはおずおずとアシェルのことを抱きしめ返す。
「わたしも、アシェル様のことが好きです」
フィオナが言うと、アシェルは幸せそうに目を細めた。
(ダニエル様、とっても嬉しそう)
はじめはアシェルが触れる度に不安そうな顔をしていたダニエルも、今では彼が来る度に弾けるような笑顔を見せてくれる。そうすると、アシェルも嬉しそうに笑うので、フィオナは一層幸せな気持ちになった。
「ダニエル……と、寝ているのか」
ある時、ダニエルの昼寝中にアシェルがやってきた。彼は音を立てないようベビーベッドに近づくと、ダニエルの寝顔に目を細める。
「かわいいでしょう?」
「……ああ」
幸せそうなアシェルの笑顔を見つめながら、フィオナは胸がいっぱいになった。
「それは……なにを書いているんだ?」
「これですか? 実はここに来てから毎日、ダニエル様の成長録をつけているんです」
「ダニエルの?」
目を丸くするアシェルに、フィオナは革張りの冊子を手渡す。
「はい。どんなふうに一日を過ごしたのか、その日のご様子、わたしが感じたことなどを書き綴っております。そしたら、いつかダニエル様のお母様が戻っていらっしゃった時に、お渡しすることができるでしょう?」
「……そうか、それで」
ダニエルの母親について、使用人たちは頑なに口をつぐんでいる。今どこにいるのか、どんな事情があってダニエルを置いていったのか、どうしてアシェルがそれを受け入れたのか、フィオナには知る由もない。
けれど、もしも自分がダニエルの母親なら、どれだけ離れていても我が子の様子を知りたいと思う。だから、もしも彼女が再び公爵家に現れたときのために記録を残そうと思ったのだ。
「ありがとう、フィオナ」
アシェルはダニエルの成長録にひととおり目を通した後、泣きそうな表情で微笑む。
「けれど、ダニエルの母親は――妹はもうこの世にいないんだ」
「え?」
アシェルの言葉に、フィオナは目を見開く。
「アシェル様の妹……?」
「ああ。実は、ダニエルは妹と身分の低い男性との間にできた子なんだ。だが、妹は出産の時に命を落としてしまった。相手の男性も病気でこの世を去ってしまって……それで公爵家の子として育てることにしたんだ。けれど、そんな事実を大っぴらにするわけにもいかないし、ダニエルの将来のことも考えると、私の子と偽るのが一番だろうということになった。私は女性が苦手だし、後継者も確保できてちょうどいい、と」
「そうだったんですね……」
返事をしながら、フィオナはそっとダニエルを見た。
ダニエルとアシェルはよく似ている。言われなければ永遠に気づかなかっただろう。
「だけど、そんな秘密をわたしに打ち明けてよかったのですか?」
「……君だから打ち明けたんだ」
アシェルはそう言って、フィオナの手をギュッと握る。フィオナの心臓がドキッと高鳴った。
「どうか、これからもずっと、私とダニエルの側にいてくれないだろうか?」
「それは……もちろんそのつもりです。ダニエル様の成長をこの目で見守り続けたいと願っておりますわ」
眼差しが熱い。フィオナはアシェルから目をそらしつつ、そんなふうに返事をする。
「使用人としてではない。私の妻として、ダニエルの母親として、共に生きてほしい。……フィオナのことが好きなんだ」
アシェルはそう言って、まじまじとフィオナを見つめた。
(アシェル様がわたしのことを……?)
こんなふうに好意を打ち明けられたのは生まれて初めてのことだ。元夫のハリーとは完全な政略結婚で、夫婦としての義務的なふれあいしか経験していない。彼はすぐに愛人ができてしまったし、自分には縁がないとすら思っていた。
(嬉しい)
愛情には愛情が返ってくるなんて思っていない。それでも、誰かに想われていると思うだけで、心が温かくなる。フィオナ自身、アシェルに惹かれている自覚があったのだからなおさらだ。
けれど――。
「申し訳ございません」
アシェルの想いにこたえるわけにはいかない。フィオナは静かに首を横に振る。
「それはなぜ?」
「わたしは……一度離婚を経験しています。公爵夫人にふさわしくありません」
言いながら、涙が込み上げてくる。
本当は嬉しいと伝えられたなら――「はい」とこたえられたらよかったのに。そう思わずにはいられなかった。
「そんなこと、私はちっとも気にしないよ」
アシェルがフィオナの手の甲に口付ける。慈愛に満ちた温かな瞳。彼はフィオナと出会ってから大きく変わった。その理由がフィオナにあるのは間違いないだろう。
「無理ですよ。だってわたしは、わたしには――アシェル様の子を生むことができませんから」
「え?」
胸が引きちぎられそうなほどの痛みをこらえながら、フィオナはそっとアシェルを見上げる。
あの日のことを打ち明けるのは、フィオナにとってあまりにも辛いことだった。思い出したくない過去と、向き合いたくない未来。――けれど、アシェルがフィオナとの結婚を望んでいる以上、黙っているわけにはいかない。
ひととおり事情を終えると、アシェルは「そうだったのか」とつぶやいた。
(本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう?)
フィオナはお腹の子と夫を一度に失った。それだけでなく、他の誰か――アシェルと一緒になる未来まで奪われてしまった。あの時は、ハリー以外の誰かと結婚するなんて想像すらしていなかったけれど、フィオナにはそんな道はないのだと、現実を突きつけられたような気がする。
「――けれど、私はそれでも構わないよ」
と、アシェルが言う。フィオナは「え?」と目を見開いた。
「夫婦として、君と共に生きていきたい。フィオナを愛しているんだ」
力強いアシェルの言葉。フィオナの瞳から涙がこぼれ落ちる。アシェルはフィオナを力いっぱい抱きしめた。
「それに、私たちにはダニエルがいる。あの子は私の子供だ。……君がそう思わせてくれたんだ。だから、子供のことは気にしなくていい。私はフィオナと結婚したいんだ」
込み上げてくる幸福感。フィオナはおずおずとアシェルのことを抱きしめ返す。
「わたしも、アシェル様のことが好きです」
フィオナが言うと、アシェルは幸せそうに目を細めた。
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