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第二部
繋がっていく絆【side:創介】 6
しおりを挟むそれから少し経った、晴れた日。その日は、朝から会議が詰め込まれていた日だった。
「常務、次の会議室は第二になります」
「分かった。資料の準備は?」
「はい、出来ております。では、五分後には始まりますので」
分単位でスケジュールが組み込まれている。一息つく暇もなかった。
「さて、行くか――」
デスクから離れた時、電話の鳴る音がする。
「すみません。すぐに出ます」
電話に出た神原がすぐに声を上げた。
「常務、常務のお母様からお電話です」
え――?
一瞬、聞き間違いかと思った。
お母様って、あの人か――?
今、俺にとっての母はあの人しかいないのに、そんなことを自分の中で確認してしまう。
どうして、あの人が俺に――?
絶対にあり得ない人からの電話に、緊張が走る。
「ああ、分かった」
デスクの上にある電話の受話器を取る。
「もしもし――」
受話器の向こうから、初めて聞く電話越しの声が鼓膜にこびりつく。
――雪野さん、今、病院にいます。あなたが来るべきだと思って電話しました。
「病院って……」
――流産したんです。早く来てあげてください。
そう言って、その電話は切れた。
流産って、どうして……。
雪野は、大丈夫なのか? 今すぐ、雪野の元に行かないと――。
雪野は無事なのか。そのことしか頭になかった。
「神原、会議は全部キャンセルしてくれ」
「え……っ? 何か、あったんですか?」
「悪い。今日は戻れない」
それだけ言い捨てて、部屋を飛び出した。
タクシーに飛び乗り、告げられた病院へと向かう。そこは、雪野がかかっている産婦人科だった。
信号待ちにじりじりとした気持ちになりながら、雪野の顔ばかりが蘇る。
『すごく嬉しくて。創介さんと私の赤ちゃん、早くほしいなって思っていたから』
妊娠が分かったその日の雪野の笑顔。あれが雪野の本物の笑顔。その笑顔がすぐさま目に浮かび、砕けて粉々になった。
雪野――。
病院の前に車が着くと、適当に札を差し出して車から出る。
受付で雪野の名を告げるとすぐに病室を教えてくれた。つい先日も、同じことをした。でも、その時は、子供が出来たと知った日だった。
「――雪野」
病室の扉を開けて、真っ先に飛び込んで来たのは、継母――あの人の姿だった。
「雪野は……っ」
明るい陽が差し込む個室の部屋のベッドに、雪野が横たわっている。
「今、やっと落ち着いて眠ったところです。とりあえず、主治医のところに行ってください」
病室で目を閉じて眠る姿はあの日と同じはずなのに、雪野の表情は全然違うものだった。目を閉じているのに、苦しそうに眉をしかめて。そして――髪が、乱れていた。
「どうして、あなたが――」
「詳しいことは後で。とりあえず早く話を聞いて来たほうがいいと思います」
淡々と吐かれる声。あの人は、雪野のベッドから離れた壁際のソファに座っていた。
「はい」
俺は、言われる通り、この前も診察をしてくれた医師の元へと向かった。
「今回は、残念ですが、流産ということになります」
まず、その事実を告げられた。
「雪野の……、妻の身体は?」
「大丈夫ですよ。子宮にも問題はありませんでした。妊娠初期でしたからね。初期の流産というのは、そう珍しいことではないんですよ。妊婦に問題があるというより、胎児の方に問題があったということが多い。ですから、次の妊娠も問題なくできるはずです」
「そうですか……。とりあえず、妻の身体は大丈夫なんですね」
とにかく、そのことに安堵する。
「ええ。むしろ、身体の問題より心に目を向けてあげてください。とかく、妊婦さんは流産すると自分を責めてしまいますから。心の傷も大きいんです」
雪野が無事だったのなら、誰も雪野を責めたりしない。
「奥様の、心のままの感情を吐き出させてあげるのが、何よりだと思いますよ」
雪野の傍にいて、いくらでも吐き出せたい。そうしてやるつもりだ。
雪野の目が覚めたら帰宅していいと告げられ、診察室から出る。
病室に戻り扉を横へとそっとスライドさせると、雪野の声が聞こえて来た。
「ーーお母様、今日は、すみませんでした」
「もう、目が覚めてしまったの? もう少しゆっくりしていてもいいのよ」
なんとなく部屋に入るのが憚られて、その場に立ち止まる。
「すみません。さっきは、取り乱してしまって。お母様にご迷惑かけちゃって」
その声が震えているのに気付く。
「不思議ね。こういう時って、いつもはあんなに大きかった葛藤が全部消えちゃうのね。あなたが誰かなんて忘れていたわ」
あの人の口調はどこまでも淡々としている。でも、雪野は口籠るどころか、余計に声を震わせて言った。
「私も、誰の傍にいるのかも忘れて、騒いでしまいました……」
泣いている……。雪野が泣いていた。
「いいのよ。ましてや初めての妊娠でしょ。取り乱さない方が不思議です。哀しいことなのだから、哀しんでいい」
雪野の髪がどことなく乱れているように見えたのは、それだけ取り乱したことの表れだったのか。
「創介さんももう来てくれて、今、主治医のところに行っています。創介さんと顔を合わせているのもお互い気詰りになるだけだから、私はもう帰りますね」
「お母様!」
雪野の必死な声が響いた。
「こんな風に、二人だけでお母様とお話できたの、初めてだから。こういう機会があったら、絶対に言いたいって思っていたことがあるんです」
「……何ですか?」
「創介さんのことです」
「そんなこと、今はいいわ。今は、自分のことだけ考えなさい」
「今、言わせてください」
雪野の声は強い意思をあらわにしていた。
「お母様と創介さんの間には、長い間、葛藤があること、創介さんがお母様を傷付けてしまったこと、いろんな複雑な感情が絡まっていることを、少しですけど知っています。そのせいで、今もお母様はきっと苦しまれているんだろうってことも」
いつか、雪野と話をした。あの人に対する俺の今の感情。
「でも、創介さんが言っていたんです。
お母様に対して、許せないという感情はもう持っていないと」
「創介さん、が……?」
二人でした会話を思い出す。
「お母様の心の中にある、創介さんに対する罪悪感と憎しみ。その中の罪悪感だけでもなくなれば。創介さんも、そう望んでいるんじゃないかと思うんです。それだけは、どうしてもお母様に知ってほしくて」
「あなたって、人は……」
その、あの人の声が、初めて機械的なものではなくなった。感情が漏れ出る、そんな声だった。
「何もなかったように、分かり合えるなんてそんなこと思っていません。でも、心の中だけでも何か一つ変われば。それだけでも、少し重荷を下せるかもしれません。目に見えることだけが大切なわけじゃないって思うから」
「もう分かったから。ほら、横になって。あなた、気付いているの? さっきからずっと涙を流していること。雪野さんの心の中は、今、哀しみと喪失感で一杯なはずよ。そんな時にまで、他の人のことを考えなくていい」
その言葉と同時に、雪野の嗚咽が耳に届く。
「あなたが私に伝えてくれたのは、もちろん私のためでもあるでしょうけど、創介さんの気持ちも楽にしてあげたいとあなたがずっと思って来たからでしょう。
あなたにとって創介さんは、こんな時にまで、自分のことより考えてしまう存在。それだけ愛している人との子を失ったのだから、哀しいに決まっているの。
その哀しみを我慢してはだめよ。思い切り哀しんでいいんだから」
こんなにもあの人が言葉を尽しているのを聞いたことはない。いつも、父の後ろに隠れて。この数年、声すらまともに聞いたことはなかった。
「でも、雪野さんが私に伝えてくれたことは、ちゃんと受け取ったから。後は、もう自分のことだけ考えなさい」
「は、い……っ」
こらえていたものが溢れるように、雪野の泣き声が響く。雪野の思いが胸を締め付ける。
少しして、扉が開いた。病室から廊下へと出たあの人が俺に気付き、一瞬目を逸らす。でも、扉を閉めた後に、俺に向き合った。
「流産したと知った時、いつもの雪野さんでは考えられないほどに取り乱していた。『赤ちゃんは助けて』って。『ごめんなさい』って。だから、傍についていてあげてください。男の人が考えている以上の苦しさが、女にはある」
そう言い終えると、小さく頭を下げ、俺の前から立ち去ろうとした。
「今日は、本当に世話になりました。ありがとうございます」
その背中に咄嗟に声を掛ける。もう一度会釈をして、あの人は帰って行った。
そして、雪野の元へと行くために、病室へと足を踏み入れる。
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