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第二章 白驟雨
三
しおりを挟む季節は初夏へと移り変わろうとしていた。
高三になって予備校に通い始めた。半分は受験生だから。もう半分の理由は放課後の居場所確保のため。今はもう、図書室には行っていない。
授業を終え校舎を出ると、樹の所属する野球部が既に活動を始めていた。
『今日は絶対に、練習を見に来て』
昼休みに、樹がそう言っていたのを思い出す。下校がてら毎日の見ていると言っているのに、どうして敢えてそんなことを言って来たのか分からない。『なるべく近くまで来て』と言われていた。勇気を出して練習場所に近づくと、何人もいる部員の中にすぐに樹を見つけ出した。練習用のユニフォームと帽子だけれど、樹が着るととても凛々しい。
グローブを手にして、誰かとキャッチボールをしている。距離から言って、遠投の練習だろうか。樹が私の存在に気付き、こちらに向かって来る。
「練習中なんだから、いいよ――」
樹の行動に私の方が焦ってしまって、戻るように手を振ったその時だった。私の方に歩いて来る樹の背後から、白いボールが高速で投げられたのが目に入った。
「樹、危ないっ!」
すぐに声を上げたのに、樹は後ろを振り返ろうともしない。躊躇している時間なんてなかった。勝手に身体が動いていた。樹の身体を庇うように前に出る。その直後に、身体に鋭い痛みが身体に走った。
「姉さん……? 姉さんっ!」
樹の叫び声が鼓膜に響く。薄く目を開くと、酷く困惑した樹の表情が見えた。
「大丈夫、大丈夫……」
あんまり心配させたくなくてそう言っても、樹の叫び声は大きくなるばかりだった。あっという間に抱き上げられ、保健室に運ばれていた。
「すいませんっ。まさか、糸原のお姉さんに当たってしまうなんて――」
「おまえはもういいから。帰れ」
心配そうに小さくなっていた男子生徒の声を、樹が鋭く遮る。
「で、でも――」
「いいから。後は、俺がいるから」
樹の低い声に、私の方が申し訳なく感じてしまう。
「本当に、もう大丈夫なんで。樹がちょっと大げさだっただけ。だから、戻ってください」
ただボールがぶつかっただけなのに、喋るだけで骨に響くみたいに痛い。
「……そうですか? じゃ、じゃあ失礼します」
深く頭を下げてその男子生徒は保健室を出て行った。
「保健の先生、もう帰ったみたいなんだ。俺が手当てするよ」
二人になると、樹の声はいつものものに戻った。
「手当てって、本当に大袈裟。ボールが腕に当たっただけだし」
「当たっただけって、硬式ボールだぞ? 男が本気で投げたボールなんだ。大丈夫なわけないだろ! 腕、見せてみろ」
樹が私の腕のシャツを勢いよくたくし上げる。
「……こんなに痣になってるじゃないか」
「腕の痣なんて、そのうちすぐ消えるよ」
慌てて袖を戻そうとしても、樹の手が強く掴んでいてそれも出来ない。
「――どうして、俺を庇ったりしたんだよ」
腕を掴んだまま俯むく樹が、絞り出すような声で言う。
「どうしてって、目の前でボールが樹に当たりそうになってたんだよ? 樹が怪我したら嫌だもん、勝手に身体が動いたの」
野球に打ち込む樹の身体に、もしも怪我なんてさせてしまったら――。
そう考えただけで恐ろしい。
「わざとだよ」
「……え?」
「――わざとやったんだ」
その言葉の意味が分からなかった。
「姉さんが来るのを見計らって、あいつが俺に向かって投げるように仕向けていたんだ」
「どうして、そんなこと……」
樹が私から顔を逸らす。
「姉さんがどうするのか知りたかったからだよ。姉さんを試したんだ!」
声を荒げながら、その肩は酷く怯えているみたいだった。
「――怒れよ。俺のそんなくだらない感情のせいで怪我までしたんだから、怒ればいい!」
振り返った樹の表情は、今にも泣きそうだ。
「どうして怒らない?」
「怒ってるよ」
じんじんと響いていた痛みに、心の痛みまでもが重なる。
「そんなことして、もし自分が怪我したらどうするの? 樹に本当に当たっちゃったら、どうするのよ!」
悔しい――ただそんな気持ちだけが次から次へと溢れて来る。どう考えたって、そんな計画、上手く行く保証なんかない。自分が怪我することも想定していたはずだ。そんな風に自分の身体を粗末にしたのだ。
「姉さんは、俺のせいで怪我したんだ。それなのに、どうして姉さんは俺のために泣くの……?」
樹が私の肩を掴み、ゆらゆらと揺れる目で私を見る。
「怖かったんだよ。もしも樹に何かあったらって」
「俺が姉さんを試したことは、怒らないのか?」
すがるような瞳に、ふっと息を吐く。
「そんなことより、樹が怪我しなくて、本当に良かった……」
樹の腕を引き寄せて、樹のいつの間にか私よりずっと大きくなっていた背中を抱きしめた。
「何がそんなに不安なのか知らないけど、私にとって一番大切な人は樹だよ」
初めて私を必要としてくれた人。心から私を求めてくれた人だ。樹だけが、私を欲しいと言ってくれた。そんな樹は誰より大事な存在だ。そのことに嘘なんてない。何かを堪えるようにじっとしていた樹が、堪え切れなくなったのか強く私を抱きしめた。
「どこまで姉さんは俺を許すのか。どこまですれば逃げていくのか。逃げてしまうかもと思ったら怖いのに、何をしても逃げないでくれって願って。姉さんの気持ちを試さずにはいられなかった。心のどこかで、姉さんは俺を庇ったりしないと思っていた。それなのに……」
感情を吐き出し終えた後、私の腕を優しく持ち上げ青紫色をした痣に唇を当てた。
「この痣は、姉さんの俺への気持ちの証みたいだ」
そう囁きながら、愛おしげに何度も口付ける。
「証なんてなくたって、私はずっと樹のそばにいるから。私には、樹しかいない」
「俺しか、いない……?」
綺麗で透明な樹の目が、ゆっくりと私に向けられた。
「そうだよ。樹だけ」
どこまでも深いその目をただ見つめた。
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