雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第三章 春時雨

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 四月最初の週末は、爽やかな晴れの日だった。
 週末はたいてい近くにある公立図書館に行く。誰かと連れ立って遊びに行くなんてことはないし、天気のいい休日に樹が訪ねて来ることはない。家事を一通りすませたら、図書館に行って本を読むのが週末の楽しみだった。

 このアパートを選んだ理由の一つにこの図書館もあった。近所に図書館があるというのは、やはり嬉しい。読書は私の数少ない趣味だ。
 土曜日はいつも混んでいる。ガラスの自動ドアが開き館内に入ると、家族連れや一人で来ている人、たくさんの人で溢れかえっていた。本当は人の少ない図書館の方が好きなのだけれど、週末にそれを望むことはできない。こうして本に囲まれて本の匂いがしている空間にいられるだけで心が落ち着いた。

 月初めの来館の時は、まず、”今月の新刊”というコーナーに向かう。

何か一冊でも残っているといいけど――。

そう思いながら歩いている時だった。

「すみません、後ろ通ります」
「すみません――」

台車を押して歩く職員が視界に入り、慌てて通路の端に避ける。その台車を見送ろうとした時、不意にその台車が止まった。不思議に思って顔を上げる。

「君……」

台車を押していた人が、私の顔を凝視している。とても驚いたように目を見開いていた。

「あ……」

心の奥の奥に鍵をかけてしまい込んだ記憶が勝手に飛び出して来る。一つ一つ写真のように蘇る。雰囲気はだいぶ変わった。でも、あの頃の面影が残っている。その人はただ立ち尽くして私を見るばかりで、言葉を発しない。私の目の前に現れたその人は、私が高校二年の時、学校の図書室でほんの少しの間言葉を交わした人。名前も知らない男子生徒だった。

「図書室で話をした、同じ高校の先輩……ですよね?」

あまりにも何も言わずに私を見ているから、痺れを切らし私から口を開いた。私の方だって混乱している。でも、相手の方が自分より動揺している様子を見ると、なぜか落ち着けるみたいだ。

「ご、ごめん。ちょっと、いや、かなりびっくりして」

それは、その口調と表情、挙動から十分わかります――。

「こんな偶然、あるんだな――」

その人が自問自答するように呟いた時、別の人の声が聞こえた。

春日井かすがいさん、向こうの返却分も運んでもらえますか?」
「ああ、はい。すみません、すぐ行きます」

周囲の景色が、一気に視界に戻る。ここは図書館で、通路の真ん中だ。

「……じゃあ」

私は素早く小さく頭を下げ、その場から立ち去る。この人は仕事中だ。それに何より、私たちは再会を懐かしむほどの関係じゃない。たったひと月程度、図書室で言葉を交わしていただけだ。

別れの挨拶さえ必要としなかった関係――。

思いもしなかった人に突然会ってただ驚いた。そこに別の感情が入り込みそうになった自分に驚く。見当違いの怒りか虚しさか。いや、やっぱりそれはおかしい。余計な感情を振り切るべく、振り返らずに目的の場所に向かった。

”今月の新刊コーナー”

その台の上には、いくつかの新刊の紹介文が掲示されていたが、肝心の本はやはりほとんどなくなっていた。その台の前で溜息を吐く。

あの人、私のこと覚えていたんだ――。

残っていた本を手に取りながら考える。何年前のことだろう。頭の中で計算する。六年――はじき出された年数に驚きを覚える。あの人と会っていた頃、まさか樹とこんな関係になるなんて思っていなかった。樹は弟でしかなかった。今の私とは違う私だった。記憶なんて曖昧なはずなのに、あの短い期間のことが鮮明に思い出される。これまで思い出したこともなかったのに、思い出そうと思えば、こんなにも簡単に思い出せたのだ。

初めて心から”楽しい”と思えた時間だった。なんでもない他愛ない会話に、やりとりに、心が温かくなった――。

そこまで思って、手に取った本を台に戻す。今の私には必要のない過去だ。樹の顔が浮かぶ。一呼吸して歩き出す。

今日は、もう帰ろう――。

なんとなく落ち着かなくて、来たばかりの私は図書館のエントランスに向かった。アパートに戻ってスマホを見ると、樹からメッセージが届いていた。

(今日は何してる?)

週末は樹からのメッセージが増える。朝、昼、夜、少なくとも三回。野球部の練習の合間に送っているのかと思うと、いつもそのメッセージをしみじみと見てしまう。
 樹は大学生になっても相変わらず忙しい毎日を送っていた。体育会野球部は、お遊びのサークルとはわけが違う。練習も厳しい。その上、私のところに来るためのバイトもしている。勉強だって絶対に手を抜かない。いつも成績優秀者に選ばれていると聞いている。

(いつもと同じだよ。家事して買い物して、少し図書館に寄ったの)

遠く離れていても、常に樹は私を見ている。

でも、この関係はいつまで続けられるのだろう――。

ふとそう考えそうになって思考を停止する。

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