雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第三章 春時雨

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 それから一週間が経ち、金曜日が来た。朝からなんとなくフロア内はざわざわとしている。その中で一人、蚊帳の外にいた。

「――田中さん、なるべく早めにこの書類のチェックお願いします」
「ああ、そうか。今日は歓送迎会だったな」

私の頭上で会話が飛び交う。

「この量はさすがに定時までには無理だろ。ああ……」

田中さんが、ちらりと私に視線を寄こした。階段の踊り場で私のことを話題にしていた先輩社員だ。

「糸原さんは歓送迎会欠席なんだし、糸原さんにお願いしたらどうだ?」
「私、やります――」

少しでも何か役に立つのならとすぐに言葉を返したけれど、それもすぐに遮られた。

「何か用事があるから欠席するんでしょう? 定時上がりには変わりないじゃないですかぁ」
「確かにそうだ。それは、シツレイシマシタ」

田中さんが抑揚のない声でそう口にして、すぐに視線を私から逸らした。中途半端に差し出した私の手は宙ぶらりんになる。

「彼とデートとか、そんな感じ? いいなぁ。羨ましい」
「い、いえ」

隣の席の女子社員が私の席の方に身を乗り出して来る。

「まあ、本当のことは言えないよね。ごめんね。野暮なこと聞いちゃって。でもさ、完璧な理由を準備しておかないと。それが最低限のマナーじゃない?」

そう言い捨て、女子社員は椅子ごと自分の席に戻って行った。

私に落ち込む資格はない――。

膝の上で無意識のうちに強く握りしめていた手のひらを開く。仕事をきちんとする。私にできるのは、ただそれだけだ。

 特に用事もない私は、ただ電車に揺られて帰宅する。
 改札を出て、駅前の商店街を抜けて線路脇の道を歩く。少し歩くと小さな川が見えて来て、その短い橋を渡った先に私のアパートがある。
 いつもと同じ景色を見ながら橋を渡っていると、水量の少ない川に薄らと月が浮かんでいるのに気付いた。橋の手すりに身体を預けて川を見下ろす。急いで帰る理由もない。ただじっと、水面に揺れる月を見ていた。立っていると、一週間の疲れが足元に集まって来る。歩き出すことも億劫に感じて、そのまま無心で見つめていた。

「君――」

耳に届いた声に、おもむろに振り返る。同じ橋の上、そこに立っていたのはあの人だった。片手にスーパーの袋らしきものを持っている。自分から声を掛けて来ておいて、何故だかその表情はどこか戸惑っているようにも見えた。

「この辺に住んでるの?」
「……はい。あなたは?」

私は同じ場所に立ったまま言葉を返す。その人が、少し距離を開けて私の隣に立つと、同じように川を見下ろした。

「僕もこの辺。最近引っ越して来たばかりだから、まだあんまり土地勘なくて」

視線を下に向けたまま、その人がぽつりと言った。それが横顔なのをいいことに、ついじっくりと見てしまう。柔らかそうな前髪は、高校生の時より少し長いだろうか。背は、変わらず、私より少し高いくらい。目の印象は、少し違う。あの頃は、優しげな目だと思った記憶がある。でも、今のこの人の目は温度が低い。あの親しみやすさはなりを潜め、どこか人を入り込ませないバリアみたいなものを纏っているように見えた。

「君も東京にいたんだ。まさか、こんなに遠い場所で会うなんてな」

不意にその横顔が私の方を向く。じっと見てしまっていたことに気付かれたくなくて思わず身構えた。

「――雰囲気、なんか変わったね。でも、すぐに分かった」
「雰囲気が変わったのはあなたもです。それにしても、よく私のこと覚えていましたね。短い期間の知り合いでしかなかったのに」
「君の方こそ、僕のこと覚えていてくれたんだね」

呟くように言ったその人の目がどこか切なそうに見えて、何故か苛立ちを覚える。

「突然いなくなったからじゃないですか? それで余計に覚えているんだと思います」

気づけば、棘のある口調になっている。

「君は――そうか、僕たち名前も知らないんだな」
「あなたは春日井さんでしょう? 先週、図書館でそう呼ばれていました」

そう投げやりに言ってから、私はまた川を見下ろした。

「……あの、もしかして、何か怒ってる?」
「どうして、私があなたに怒らなくちゃいけないんですか?」

ついむきになって声を荒げてしまった。

「やっぱり、怒ってる」

そう言って春日井さんが笑った。その表情に不意に懐かしさを感じる。

その顔は、知ってる――。

あの頃、私を癒してくれていた親しみやすい笑みだ。

「一体、なんなんですか? 私たち、そんなに親しくないですよね? ただ図書室で会って、少しお喋りしただけ。学校をやめたのにそのことを伝える必要はない程度の知り合いですよ」

私は、どうして六年ぶりに会った顔見知り程度の人に、恨み言のようなことを言っているのだろう。

「……良かった。そういう、はっきり言うところは変わっていないんだね。雰囲気が変わったなって思ったけど、性格は変わっていなかった」
「私の本当の性格なんて、あなたが知るはずもない。あなたが勝手に言っていただけで――」

――君を知っている人間が、ここに一人はいるから。

そうこの人は言ってくれた。誰も見つけてくれなかった私を見つけてくれたんだと嬉しかった。それなのに――。どうしようもなく、あの時の自分が蘇って来る。あの時感じた寂しさや虚しさも一緒になって押し寄せて来る。

「君に何も言わずにいなくなって、本当にごめん」

その目は怖いくらいに真っ直ぐだった。でも、それと同じくらい、苦しそうでもあった。

「……いえ、私の方こそすみません」

その表情の奥に何かを抱えているであろうことが、薄暗い橋の上でさえ分かる。

何かを告げる間もないほどの何かが、この人の身に起きたのかもしれない――。

少し冷静に考えれば想像できたはずなのに、私はそれが出来なかった。出来ないほどに、あの頃の私にとってショックな出来事だったのかもしれない。

「家庭の事情でね。すぐに引っ越さなければならなくなって、君に最後に会いに行く時間もなかった――」

春日井さんの目が翳り、言葉を詰まらせた。

”父親も母親もいない”

図書室で聞いた言葉を思い出す。

「私が少し子供じみてました。それぞれみんな、いろんな事情がありますよね」

私だって突然転校した。高校生の子どもじゃどうすることもできないことがある。この身に起きた事情すべてを他人に話せるものでもない。そのことなら、私が一番分かっている。

「――春日井、さん。最近引っ越して来たって言ってましたよね? あの図書館も最近ですか? これまで見かけたことなかったから」

私は話題を変えた。

「あ……ああ。三月までは別の図書館にいてね。この四月に異動して来たんだ」

ということは、これからは、あの図書館に行けばこの人がいる――ということだ。

「――それにしても、君が元気そうで良かった。本当に」

春日井さんが目を細める。その目としみじみとした言い方に、不思議に思う。

まるで親族か何かみたい――。

親族からこんな風に言われたことはないけれど。あの頃の私は、分かりやすいほどに脆い存在に見えたのかもしれない。少しは気にかけてくれていたのだろうか。

「……君の名前、聞いていい?」

ふっと思いついたように春日井さんが言った。

「糸原です。糸原未雨」

長めの前髪が揺れて、その目の形がすべて露わになる。

「みうって、どういう字を書くの?」
「未来の”未”に、降る"雨"です」

春日井さんが何かを考えるように視線を彷徨わせてから、私に視線を戻した。

「未雨……なんだか、すごく哲学的な名前だね」
「そうですか? 自分の名前の意味なんて深く考えたことなかったです」

あの両親が私の名前に深い意味を込めたとも思えない。

「未だ雨は降らない……恵みの雨が降る前の状態。『未だ』ってことは、今はないけどこの先にはあるということ。恵みの雨が降るには、たくさんの試練や失敗が必要で。でもそれは全部、恵みの雨、つまりいつか幸せを掴むための糧になっている。そうであってほしい……なんてな」

少し饒舌になった後、我に返ったように春日井さんが苦笑した。

「深読みし過ぎですよ。春日井さんの方がよっぽど哲学的」

私も笑う。そして思い出す。あの頃、この人と話すと自然に笑顔になった。自分がちゃんと笑えるということを知ったのだ。そんな私を見て、春日井さんが切ないような泣きそうなような複雑な笑みを見せた。

「春日井さんの名前は――」

訳の分からない切なさを感じてしまったからだろうか。慌てて会話を繋ごうとした時、スプリングコートのポケットにあるスマホが振動した。ポケットから取り出し画面を見ると、樹の名が表示されていた。

「電話?」
「は、はい」

現実が戻って来る。ドクンドクンと、忘れていた鼓動を感じ始める。こんな風に、樹以外の男の人と話をしたことなんてない。それなのに、ごく自然に会話をしている自分がいた。

「――すみません。私、失礼します」

素早く会釈をして、足早にそこから立ち去った。そして、すぐにスマホを耳に当てる。

「もしもし」
(出るの遅いね。今、何してたの?)
「ごめんね。駅からアパートまで歩いてたところで、スマホの振動にすぐに気付けなかったの」

咄嗟に嘘をついていた。

(会社の飲み会、行かないでくれたんだよね?)
「うん。だからこの時間に帰宅してる」

早歩きだからだろうか、呼吸が早くなる。

(ーーじゃあ、証拠の写真送って?)
「証拠……?」

素早く繰り出していた足が止まる。

(そう、証拠。そうだな……部屋に着いたらテレビをつけてその画面と部屋を写したものを送ってよ。それなら、間違いなく今、部屋に戻ったって分かるから)

ぐっと息を飲み込む。

「――分かった。部屋に着いたらすぐに送るね」

自分の部屋に着いて、テレビをつける。自分の部屋とテレビをスマホのカメラに写し出した。無になってその絵を切り取る。何かを考え始めてしまってはいけない気がするのだ。撮影した写真をそのまま送信する。その画面を見て、胸の奥に何かが落ちて溜まる。

(今、届いたよ。ありがとう)

すぐにスマホが振動した。

(愛しているのは、未雨だけだよ)

画面にある文字を見つめる。

”いつか幸せを掴み取れるための――”

私の名前をそんな風に言ってくれたけれど、一体私がどんな幸せを掴み取れるというのだろう。

(私もだよ)

反射のようにこの手が文字を紡ぐ。

”いつか――”

違う――。私は、もう、掴み取っている。



 
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