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第三章 春時雨
六
しおりを挟む翌日の土曜日。日用品の買い物へと行く途中、図書館の前を通った。そこへと足を向けるのに躊躇いが生まれ、足を止める。図書館で過ごす時間は唯一の楽しみだった。樹の声が脳裏を巡る。これから、ここに来ることは樹との約束を破ることになるだろうか。
でも――。
すぐにそれを否定したくなる。あの人はここの職員で、ただの顔見知り程度。それ以上でもそれ以下でもない。そもそもここに来たからと言って必ず顔を合わせるかどうかも分からない。こんな風に、意識して考えること自体がおかしい。そう思い直して、足を踏み出す。
エントランスを抜け、書棚を歩く。この辺りで一番大きな図書館だ。広い空間にいくつもの棚が奥まで続いている。
春の温かな陽射しが差し込むテーブルに席を取り、選んだ小説のページをめくった。図書館という空間は、本当に落ち着く。心が静かになって解放される。ここは誰かと何かをする場所じゃない。皆が一人一人本の世界に入り込む。本を読むという行為は、基本一人で行うものだ。例え誰かと来ても一人で黙々と没頭する。大袈裟かもしれないけれど、図書館は、私が生きて行く上で絶対に欠かせない場所だと思っている。
二時間ほど過ごし、差し込んで来る陽の色が変わって来たところで席を立った。テーブルの上にある本を手にして、貸出カウンターに向かう。既に数人が列を作っていた。その最後尾に加わる。自分の番になって本を差し出すと、カウンターに座っていたのは春日井さんだった。
「あ……」
つい、小さい声を上げてしまった。でも、春日井さんは大して表情を変えることもなく少しだけ会釈すると、淡々と自分の業務を遂行した。
「全部で三冊ですね?」
「はい」
「返却期限は二週間後です」
「ありがとうございます」
本当に、ただそれだけのやり取りだった。
それからも、週末に図書館に行くと、その顔を見かける時もあれば見かけない時もあった。そのおかげで、樹への後ろめたさを感じずに済んだ。
四月最後の土曜日、いつものように何冊か小説を借り、アパートへ帰るところだった。
「――なんで、飲み会来ないの」
「すみません。そういうのは、遠慮してるので」
春日井さんだ。図書館の裏口、おそらく職員専用の出入り口なのだろう。置かれていた古びたベンチに座る男性と、その側に立っていた春日井さんの会話が耳に届く。
「なんで?」
ベンチに座っている人が、少し苛立ったように春日井さんに言った。咄嗟に、そこから見えない場所へと身を隠す。
「仕事はきっちりやります」
どこか突き放したような言い方。この前、橋の上で話をした春日井さんとは別人のようだと思った。でも、確かにそこにいるのは春日井さんだ。
「そういう問題じゃないだろ」
「すみません、休憩時間終わるんでもう戻ります」
「お、おい……ったく」
冷めた声を残し、さっさと春日井さんはドアの向こうに消えてしまった。
人との間に膜を張っているような、遠ざけるような態度――。
今目にした春日井さんの姿は、再会した時に感じた以前との雰囲気の違いを表しているようだった。
(ゴールデンウイーク最後の日、そっちに行けることになった。一泊して次の日の朝帰る。一晩ゆっくり過ごせる)
樹からメッセージが送られて来たのは、それからすぐのことだった。世間では既にゴールデンウイークが始まっていた。
結局、四月に雨が降ってくれたのは、樹が突然来たあの夜だけだった。ゴールデンウイークの予定について、あれから話題にならなかったから、試合や練習で都合がつかないのだと思っていた。スマホの画面を見つめて笑みがこぼれる。
樹がアパートに来る以外の予定がない私は、無駄に長い休暇を持て余していた。ありがたいことに、祝日でも図書館は開いている。朝だったり、昼だったり、夕方だったり、ふらっと図書館に寄っていた。
樹が来る前日、午後四時頃まで図書館で過ごし、そのままスーパーへと向かった。翌日の料理の食材を手に入れるためだ。時間だけは有り余るほどにある。図書館でも料理本を開いて、樹をもてなすメニューを考えた。材料を書いたメモを手にして、生鮮食品のコーナーを回る。日頃から運動をしている樹は良く食べる。ついつい、メニューも分量も多めになってしまっていた。歩いて帰らなければならないのに、あまりに考えなしだった。
ビニール袋、合計四つ。二つずつ両手で持つ。飲料や根菜類の野菜や果物、どれもこれも重量感がある。あまりの重さに、十メートルも歩けば、立ち止まってしまった。このスーパーからアパートまで徒歩十分程度。その距離が途方もないものに感じる。
久しぶりに樹と一緒にご飯を食べられるーー。
そのことに少し浮かれていた。過剰と思われる束縛に苦しさを感じる時もあるけれど、樹は基本的には優しい。会える日は多くないから、二人で過ごせる時間は貴重だった。
目の前にある食料の山に溜息を吐く。力を振り絞ってなんとか数メートル歩いては休んで。そんなことを繰り返していた。
「重そうだね。持つの、手伝うよ」
ビニール袋をアスファルトに置いて息を吐いていた私に、突然どこからか声が降ってわいた。頭を左右に振ると、少し先に春日井さんの姿があった。肩に黒い鞄をかけ、水色のシャツにチノパンという姿で私に近付いて来る。
「い、いえ。いいです。大丈夫です」
慌てて大きく手を振った。そして、道路に置いていたビニール袋を勢いよく持ち上げた。
「あっ!」
その時、無理に詰め込んでいたジャガイモやら玉ねぎが、無残にも人が行き交う歩道に転がり出す。しゃがみ込み急いでそれを拾い集める。ジャガイモやら玉ねぎの間に、男の人の手が入り込む。春日井さんも一緒に拾ってくれているのだと気付いた。
「大丈夫ですから――」
余計に焦る。春日井さんは、そんな私にお構いなしに次々にビニール袋にジャガイモやら玉ねぎを詰め込んで行く。
「これで、大丈夫かな」
「すみません。本当にもう大丈夫なので」
立ち上がった春日井さんと同時に私も立ち上がる。その時、すっと二つ袋を春日井さんが手にした。
「一人で持つにはさすがに重いだろう。半分持つよ」
「いえ、結構です――」
頑なに突っぱねようとする私に、春日井さんが言い放った。
「困っている人を見たら助ける。ただそれだけのことだから」
その言葉で急に恥ずかしくなる。いつもの癖で、つい慎重になり過ぎていた。この前は偶然橋の上で話をした。でも、それが二度目になってしまったら。樹以外の男の人と距離を縮めてしまうことになるのではないかと、少しの接触も嫌う樹のことを考え過ぎていた。樹のせいにして、人の善意も分からない人間になっていたのかもしれない。
「すみません。じゃあ、お願いします」
「うん」
少し表情を緩めて頷くと、春日井さんは歩き出した。その隣を歩きながら、私が持っている袋二つが軽いことに気付く。瞬時に重い方二つを選び取ってくれたのだと知った。
商店街を抜けて、通りへと出た。線路脇の道へと進む。線路を電車が通過して行った後、春日井さんが口を開いた。
「確か、そこの橋、超えた方向だったよね?」
「はい。でも、春日井さんは大丈夫ですか? 家が反対方向なら、遠回りになるんじゃ……」
「僕も橋を超えた方なんだ。だから、大丈夫だよ」
家も近かったのか。近所で見かけたことはなかった。四月に引っ越して来たばかりだと言っていたから、会わなかったのだろ。
「――家まで持って行ってあげてもいいんだけど、ここまでの方がいいよね」
橋を渡りきったところで春日井さんが立ち止まった。
「ここで大丈夫です。ここまで持って来てもらえただけで凄く助かりました」
勢いよく頭を下げる。
「あっ、でも、警戒してるとか不安だからとか、そういうんじゃないですから」
慌てる私を見て、春日井さんがふっと笑った。
「怪しい奴だと思われていなくて良かった」
「ごめんなさい。警戒心丸出しで失礼でしたよね」
「いや、いいと思うよ。女の子なんだから男になんて警戒し過ぎるくらいでちょうどいい」
その笑みに、私もつられる。
「じゃあ、あと少し頑張って持って行って。僕は先に行くよ」
私にビニール袋を二つ手渡した。
「今度は野菜を転がさないように気を付けて」
「はい」
春日井さんの背中を見送りながら思う。こうして先に立ち去ったのも、私が少しでも不安にならないようになのだろう。
そんな人が怪しいわけがないですよ――。
心の中で春日井さんに呟いた。
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