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第三章 春時雨
七
しおりを挟む翌日、早々に部屋の掃除を済ませ料理に取り掛かった。
いろんな野菜を入れて煮込んだスープに、ローストビーフ。マグロのカルパッチョにシーザーサラダ。パンは自分で焼いてみた。少し奮発して赤ワインも準備した。昼ごはんを食べるのも忘れ、ふと時計を見てみれば午後の三時を回っている。
そろそろ、来る頃かも――。
そわそわと落ち着かない。喜んでくれるだろうか。何か含みを持ったような冷たい笑みじゃなくて、屈託のない笑顔が見たい。
夕方近くになって、樹がやって来た。
「疲れたでしょう? たくさん料理作ったの。先にご飯にしていい? パン、自分で焼いたんだ。焼きたての方が美味しいから」
アパートのドアを開け、樹に笑顔を向けた。ほぼ半日をかけて作った料理だ。早く食べてもらいたいと、はしゃいでしまった。そんな私とは似つかぬ雰囲気で、樹は黙っている。
「やっぱり高速バスで疲れてる? それなら、シャワー先に浴びた方がいいかな? その間に準備しておくけど――」
樹の表情をうかがうように見上げると、突然、乱暴なキスで唇を塞がれた。優しいものでも労わるようなものでもない。肉体的繋がりに直結するようなキス。
「――んっ、ねぇ、待って」
身体をきつくがんじがらめにされながらも、なんとか樹の胸を叩く。
「何を待つの」
「だって、まだ来たばかっかりだし――」
ゆっくり話だってしたい。顔だってちゃんと――。
「それ、俺を焦らしてるつもり? そんなこと言いながら、ここはもうしっかりいやらしくなってる」
「いやっ……」
強引な指が私のスカートの中に入り込んで来る。抱き合うのが嫌なわけじゃない。ただ、私の気持ちも少しでいいから汲んでほしいだけだ。
「お願い。ちょっとでいい、待って!」
つい、きつい口調になってしまった。樹の動きが止まり、私を凝視する。
「ご、ごめん。今日、来てくれるの楽しみにしてたから、だから――」
樹の目の色が変わり始めるのが分かる。いつもは奥底に隠している樹の別の顔。多分、私だけにしか見せない顔だ。
「それ、本当に拒絶してるってこと? 俺に抱かれたくないのか……?」
「そうじゃなくてっ」
樹の手のひらが荒っぽく私の肩を掴み、部屋の壁に強く押しつけて来た。
「いつもは、ちゃんと俺の願い通りにしてくれるのに。もしかして、俺と会っていない間に何かあった?」
「どうしてそうなるの? 私はただ、樹とご飯食べてお喋りして――」
「嘘だろ!」
片方の手が私の首元を包み込む。どうしてこうなるんだろう。涙が込み上げる。豹変した樹の向こう側に、準備した料理の鍋や皿が見える。焼き上げたパンも。
「嘘じゃない。樹が来てくれるの、楽しみにしてたんだよ」
「俺に本当に会いたかった?」
「そうだよ!」
真っ直ぐに樹を見上げた。悔しくて、哀しくて、それを必死に視線に込める。
「なら、その気持ちを見せろよ」
「見せるって――」
「服を全部脱いで、未雨からキスして」
そんな酷い言葉を発していながら、樹の表情は苦しそうに歪んでいた。何か、あったのかのだろうか。
そうすることで、樹の気持ちが済むのなら――。
また何かが胸に溜まった気がした。
「……分かったから、そんな顔しないで」
どうしてだろう。涙を流しているわけでもないのに、樹が泣いているように見えた。一枚、一枚、身に着けているものを床に落として行く。空気に晒された肌は少し寒気を感じる。手を伸ばし、樹の頬を両手で挟む。そして唇をそっと重ね合わせた。それが引き金のようになって、樹が私の裸体を激しく抱きしめて。荒れ狂ったように私を抱いた。
お互いもう身体に力が入らなくなって、畳の上に身体を投げ出した。明かりもついていない狭い部屋に、二人の乱れた呼吸だけが充満する。
今、何時なんだろう――。
既に空腹の感覚さえ消えていた。ただ、身体が気怠いだけだ。重い身体をなんとか動かし、樹の方に顔を向ける。そこには、怖いほどに静かな目で、ただじっと天井を見上げている樹がいた。
起きてたんだ――。
一体、何を考えているんだろう。樹はいつも、何に苛立ち、何に怯えているのか。こんなにも長い間一緒にいたのに、本当のところは何も理解していないのかもしれない。私は、樹の何を分かっているんだろう。ただ勝手に、分かったつもりになっていたのかもしれない。そう思うと急に怖くなった。こんなにも身体を繋げてすべてを曝け出しているのに、その心が見えないことに虚さを感じる。
「……未雨」
静かな声が薄闇の中で零れた。樹がゆっくりと私の方へと顔を動かす。
「焼きたてパン、もう、焼き立てじゃなくなっちゃったな」
「あ……うん。もう、あんまり美味しくないかもしれないね。初めて焼いたパンだし、お店のもののようには美味しくないかも」
笑おうと思ったけれど、上手く笑えない。
「それでも食べるから」
そう言って私に触れた。樹の指は太くて骨ばっている。いつもグローブやバットを使いこなしている手で、少しごつごつとしている。それが樹の手だ。
パンは硬くなってしまったけれど、他の料理は温めれば美味しい状態で出せた。夜九時からの食事は、静けさが横たわる。
「……美味しいよ」
「ならよかった」
今度は、他の人にも見せる穏やかな顔だ。
「気合入れ過ぎてたくさん作っちゃったの。だから、いっぱい食べてね」
身体が軋むように痛い。激しい行為の余韻が身体のあちこちに残っている。
「全部食べるよ。未雨が作った料理だもんな」
弱々しく笑う樹に、またも胸が痛んだ。
「――ねえ、未雨」
俯きがちに料理を食べていた樹が、私の顔を見る。
「俺、就職先、決まったんだ」
「おめでとう。どこに決まったの?」
大学四年なのだから、就職活動も始まっていると思っていた。でも、一切相談はなかった。樹の中では決めていた。そういうことだ。
「地元の企業」
――地元。
その単語に、一瞬、心が固まる。
「……そうなんだ」
自分の中に渦巻く複雑な感情がそのまま表情に出てしまいそうになって、慌てて取り繕うように笑顔を作る。
「将来的にお父さんの会社に入るにしても、外の世界を見てからがいいって。お父さんが、俺には地元にいてほしいみたいなんだ。だから、地元で就職先を見つけた」
きっと、それは継母の強い意向でもある。
「未雨と俺の関係が親たちにバレないためにも、なるべく親の言うことには従うようにしてる」
分かっていた。
樹が、継母の意向には絶対に逆らわないということ――。
樹の大学進学の時もそうだった。両親、おそらく継母の意向に沿った選択をした。私も心のどこかでは覚悟をしていたんだと思う。だけど、こうして樹の口から聞いて落胆している。
この先も、離れて暮らす生活は変わらないんだ――。
”この先”
私たちの未来にゴールなんてあるのだろうか。このままずっと、私は同じ場所にいるのだろうか。
「この先もずっと、変わらないから」
私の心を読まれたのかと、ドキッとする。
「この先もずっと、未雨といる」
このまま、離れた場所で隠れて会うということ。
「未雨を愛しているのは俺だけだから。この先もずっと、俺だけだよ」
私を愛してくれるのは樹だけ。それも分かっている。
「未雨には俺しかいない。俺がいなくなれば、未雨には何も残らない。どこにも帰る場所もない。でも、安心して。近くにはいてあげられないけど、俺はずっと未雨といる」
「――うん」
分かっている。私から樹が奪われたら、私の人生に何も残らない。私に帰る場所はない。
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