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第三章 春時雨
八
しおりを挟む連休も終わり、木々の葉の緑が色濃くなって来た頃だった。
「……お父さん」
土曜の夕方、買い物から帰るとアパートの前に一人佇む姿を見た。家を出てから一度も直接会っていない。六年以上が経つ。
どうして――?
疑問の次に一つの想像が浮かび身体が固まる。
もしかして、樹とのことを気付かれた……?
もう、とっくに遠い人になっていた父親を前に、激しい動揺で動けない。恐怖が身体を駆け巡る。
「突然悪いな。新しい住所は知っていたが、電話番号は分からなくて」
でも、父親から発せられた声は、想像していたものとはまったく違うものだった。
「未雨に、どうしてもお願いしたいことがあってな。それでここに来た」
どうやら、樹とのことではないようだ。そのことにとりあえずホッとする。でも、その声も表情も、私の記憶の中にある父親とは違っていた。どこか気まずそうな、遠慮がちな言葉。それに――。六年もの年月が経っているとはいえ、あまりに急に老け込んでいた。顔に皺が増えたのか、白髪を隠そうともしていない髪型のせいか。そのすべてが、父親の雰囲気を変えていた。
お願いって――。
これまで、会いに来るどころか、手紙一つ寄こさなかった。縁を切られたと同然の状態で、世間話をするような関係でもない。
「それで、お願いってなんですか?」
私の部屋に案内すると父親はぐるりと部屋を見回した。一通り見回した後に、私に向き直った。
「見合いをしてほしい。以前、会わせたことがあるだろう? Kコーポレーションの古谷さん。その息子さんだ。どうしても未雨をと乞われてね」
「そんなこと急に言われても――」
「お願いだ。糸原を助けるためなんだ」
突然訪ねて来た血の繋がった父親が口にしたのは、私を気遣う言葉でも様子を尋ねる言葉でもなく私を利用するための言葉だった。
「ここ一、二年なんだ。急激にうちの経営状況が悪化した。でも、たくさんの社員もいる、おまえのおじいさんたちが代々残して来た会社でもある。どうしても潰すわけにはいかない。そのためには、古谷さんの協力は絶対に必要なんだ」
地元最大の企業を引っ張っていたあの頃の威厳はない。余裕のない焦った父親の姿があった。私の思いを聞くこともなくただ一方的に追い出し、縁を切ったのは父親だ。
「私はもう糸原とは関係ないはずでしょう? 突然会いに来たと思ったら、見合いしろって。私にだって私の生活がある――」
「私たち家族のためでもある。樹のためでも」
荒げてしまった声を、父親の苦しみにまみれた声が制止した。
「樹って……」
「もう何年も前に終わったことだ。でも、おまえにとっても樹が大事な弟であることには変わりないんじゃないか?」
そんなことを、どうしてお父さんが言えるの――?
うすら寒さが背中を伝う。それでも、”樹のためでもある”という言葉が心に引っかかった。
「樹君はとても優秀だ。うちの会社にも入ってくれるつもりでいる。出来るだけのことはしてやりたい。経験と修行の意味も兼ねて外の企業で働いた後にうちの会社に入ってもらう予定だ。その前に、海外の大学院にも行かせてやりたい。MBAを取れば経営者として箔もつく。うちのような地方の企業ならなおさらだ。そのためには、何よりもまず経営を立て直さなければならない」
お父さんはずるい。悔しさで唇が震える。感情がなくなって終わった関係じゃない。樹と私は無理矢理に引き離された。だから、私が今でも少なからず樹を想っていると考えているのか。だから、そんな風に樹のことを持ち出すのか。最低だと罵った感情までも利用するのか――。
「――このままだと、遥子さんと樹にも大変な苦労をかけることになるんだ。多大な負債を樹にも負わせることになる」
樹に多大な負債――。
樹の姿が思い浮かぶ。まだ学生でこれからだというのに、そんな苦労をさせなければならないのか。でも。だからと言って他の人と結婚するなんて考えられない。そんなこと、樹だってきっと望まない――。どうすればいいのか分からなくなる。
「結論を今すぐ出せとは言わない。でも、古谷さんの申し出を無下に断ることもできないんだ。とりあえず、会うだけでいい。まずは光紀君と会ってくれ」
「お父さん……っ!」
あの父親が、私の目の前で土下座までしている。畳に額をじりじりと押し付けて。
私は結局、父親の頼みを突っぱねることが出来なかった。
『ただ、会うだけです。一度だけです』
そう答えたら、分かりやすいほどの安堵の表情を浮かべた。最後に一つだけ、父親に聞いた。
『経営が厳しい状況だって、お母さんや樹は知っているんですか?』
『……いや。詳細は伝えていない。いらぬ心配はかけたくないからな』
継母は何も知らずに、贅沢な生活をしている。以前からそうだった。実の娘よりも継母のことを第一に考えていたではないか。父親の行動は当然のものだ。どうしてもあの人を手放したくないと、父親なりに必死なのだ。
『知られないうちに、なんとか立て直したいと思っている』
その父親の言葉に白々しい気持ちになる。それでも、無視することが出来なかった。どんな葛藤があったとしても、親子には変わらないからか。それだけじゃない。一番は、樹のためだ。
樹にこのことを話すべきかと迷った。でも、父親が樹に事情を話していない以上、私からそんな状況を伝えることが憚られた。
それに、他の男性と会うなんてことを伝えたら――。
想像しただけでも身が竦む。あの豹変した目がフラッシュバックして、勝手に身体が震えた。
一度だけ会って、はっきりと断ってくればいい。そう自分に言い聞かせて、指定された都内のホテルのラウンジへと向かった。
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