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第三章 春時雨
十六
しおりを挟む残された時間はそうない――。樹から聞かされたこともあって、翌週の週末、春日井さんと共に実家を訪れた。
それは、樹と私の関係が両親に知られたパーティーの日以来のことだった。育った家は、六年経っても何も変わっていなかった。それなのに、ここで暮らしていたということに現実味がない。完全に他人の家だ。私の帰る場所ではないのだと、改めて実感した。
隣に立つ春日井さんに視線を向ける。その表情に、違和感を持つ。ここに近付くにつれて、春日井さんの口数は明らかに少なくなっていることに気付いていた。
「春日井さん、どうかしましたか? どこか、具合でも悪いですか……?」
「あ、ああ、いや。大丈夫。じゃあ、行こうか」
どこか顔色のないその表情が無理に笑顔を作る。春日井さんも緊張しているのかもしれない。
「今日は許可をもらいに来たんじゃない。ただの報告。それでいいよね?」
「はい。もちろんです」
春日井さんは私の抱えている事情をすべて承知している。今さら、両親に結婚の許可をもらうような関係じゃない。縁を切られた娘だ。
「ここに来ることは、糸原さんにとって楽なことじゃないだろう。無理に何かを言う必要はない。僕がすべて話をするから」
私を労わるような柔らかな視線に頷く。育った家でありながら、哀しい思い出ばかりが詰まった家。母親が出て行き、父親に遠ざけられ、新しい母親が私を疎ましく思い、そして追い出された。改めて振り返っても、誰もが皆私を邪魔だと思っていた。樹以外の誰もが――。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
六年ぶりに、その敷地に足を踏み入れた。厳しい表情をした父親と、あからさまに怪しむような視線を向けて来る継母。樹はいない。おそらく、私と樹が顔を合さないように継母がそう仕向けたのだろう。二人を前に、私たちは座る。「先日は失礼いたしました」と継母に頭を下げた後、春日井さんが姿勢を正した。
「未雨さんと結婚することになり、報告に参りました。これからは、僕が夫となり家族となって、未雨さんと共に生きて行きます」
――家族。
その言葉が、不意に胸の奥をじんと刺激する。私にとって一番遠くて焦がれていたもの。目の前にいる人たちとは作れなかったものだ。
「いきなり結婚って、一言も言っていなかったじゃないか。そんな相手がいたなら、どうして見合い相手と会ったりした?」
真っ先に声を上げたのは父親だった。その表情には戸惑いと焦りがありありと浮かんでいる。それは、娘を心配してのことではない。
「何年も音信不通だったと聞いております。親子と言えどそういう関係でわざわざ交際相手がいることを報告するでしょうか。それに。縁談の相手と会ったのも、それはお父様がお願いにいらしたからだ。本当なら、これまで何の連絡もなかった親からのそんな唐突な申し出を承諾する必要はない。それなのに受けたのは、未雨さんの優しさからです。一度だけでも会って、お父様の面目を保つため」
春日井さんがはっきりとそう言った。
「そういうことは、これで最後にしていただきたい。お父様の方から、お断りしていただきますようお願いします」
もう一度頭を下げる春日井さんに、父親が前のめりになる。
「そもそも君は、一体何の仕事をしているんだ? 家族は? どんな家の人間だ。糸原の親族になるんだ。誰でもいいというわけじゃない」
今さら、”親”みたいなことを言い出した姿に黙っていられなくなった。
「春日井さんがどんな人であろうと関係ないはずです。私は、この家とは縁を切られた他人も同然。それでも報告に来
たのは、私が結婚したということを知ってもらうためです」
家族のいない春日井さんについて、父親にあれこれ言われたくなかった。春日井さんを不用意に傷付けたりなんかしたくない。
「……結婚というのは、本当なのかしら? どうしても信じられない」
怪訝な目を向けて来る継母に同調するように、父親の不審な視線も私たち二人に向けられる。
「そんなに信じられないなら、二人の暮らす家にでも行ってみればいいんじゃないの?」
突然、リビングの扉の方からこの場にいない人間の声がした。
「樹……どうして? 練習は?」
その時、真っ先に声を発したのは継母だった。開いた扉にもたれて立ち、どこか敵意に満ちた目を継母に向けている。
「姉さんが結婚相手を連れて来るんだろう? そりゃあ、”普通の弟”ならその場にいるのが当然だろう。それより――」
もたれていた背中を離し、こちらへと向かって来る。
「自分の目で見て知れば、認めざるを得ないでしょう。ねえ、お父さん」
樹が、今度は父親に視線を移す。樹は、一体何を考えているのか。樹は樹で、この大芝居を完璧にするために力を貸してくれているのか。
「まあそうだが……。でも、本当だったとしても、それでいいというわけでは――」
「姉さんはもう大人でしょう? 親の許可なんてなくたって結婚できる。それに、これまで放っておいたんだから、姉さんがどこで何しようと関係ないのでは?」
「樹君……?」
父親の目が見開かれる。
「それとも何か、急に姉さんに関わらなくちゃいけない事情でも出来たんですか?」
「い、いや、そういうことではないが。ろくでもない娘のためだ。せめて結婚相手くらいは立派な家の息子をと思ってだな」
しどろもどろに言葉を取りなす父親に、心の底から寂しさを感じる。
「確かに、僕は何もない男です。家族すらいません。でも、未雨さんはろくでもない人なんかじゃありませんよ。僕の妻となる人を侮辱しないでいただきたい」
春日井さんがすぐさまそう言うと、継母が私を睨みつけ口を開いた。
「――じゃあ。樹の言う通りにさせてもらうわ。近々、お二人のお宅にお邪魔させていただきます。ねえ、あなた」
「え? あ、ああ、でも……」
継母にとっては、私が本当に春日井さんと結婚するかどうかが一番大事。父親にとっては、私が古谷さんと結婚することが一番大事。結婚という結論は同じでも、二人の考えは微妙に違う。それでも結局、父親はここでは多くを語れない。糸原が厳しい状況にあることを継母に知られたくないからだ。以前春日井さんが私に言った言葉を思い出す。私も、覚悟を決めるべきだ。
「私は、この家を出てから親はいないものとして生きて行くことを強いられました。頼れる親はいない。帰る場所もない。これからもそう思って生きて行きます」
これまで、一方的に突き放され宣告されて来た。それを受け入れるしか自分には選択肢がなかった。今度は、自分からもこの家族を捨てるのだ。
「私は私で、ちゃんと生きて行くので心配いりません」
ーーちゃんと生きて行く。
そう言いながら、私がしようとしていることを思う。嘘をつき偽装の結婚をしてまで、義理の弟との関係を続けるということ。でも、それが自分で出した結論だ。もう迷わない。
「それでも、十八まで育ててくれたこと、大学の学費を出したくれたこと。その恩は忘れません」
「未雨……」
父親の目が微かに揺れた。それに気付いたけれど心に留めることはしない。
「もう失礼します。行きましょう、春日井さん」
これ以上こんなところにいて、春日井さんのことをあれやこれやと言われたくないし言われる筋合いもない。早く、連れ出したい。そのことばかりを考えていた。
「――必ず、未雨さんを幸せにします」
立ち上がった春日井さんが、最後にそう告げた。その言葉は、妙に私の心に重く響いた。その瞬間の樹の表情を、敢えて見ないようにする。これが、私と樹二人で出した結論なのだ。
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