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第三章 春時雨
十七
しおりを挟む玄関を出た後、無意識のうちに大きく息を吐いていた。
「糸原さん、よく頑張った。よく言えたね」
「春日井さん……」
その声の先を見上げたら、どこか歪んだ笑みがあった。
「どうして、春日井さんがそんな顔をしているんですか?」
「どんな顔してる?」
「なんだか、凄く哀しそうです」
そう言うと、春日井さんは私から視線を逸らした。
「いや、糸原さんの立場を思うとね。実の親と愛している人の前で、あんなことを言わなければならない状況があまりに酷だと思って」
むしろ、そう感じて哀しんでくれる春日井さんに感情移入してしまう。
「もう私は大丈夫ですよ。それより、春日井さんの方こそ嫌だったでしょう? ありがとうございました」
春日井さんの家族のこと。おそらく、一番言われたくないことだっただろう。
「ううん。君のお父さんが言っていたことは本当のことだから。心の奥底では、本当に申し訳ないと思ってる。立派な家の君の、仮にも夫になる人間が僕であることに……」
呟くように言うと、春日井さんが俯いた。その声が、押し潰されたようなものに聞こえて俯いた表情を覗き込む。
「そんなこと言わないでください。私はもうあの家の人間じゃないんだから。私も親はいない。最初からいないのと同じだったんです。高校の図書室で、私がそう言ったの覚えていませんか?」
春日井さんに笑ってほしくて、軽い口調でそう言う。
「覚えてるよ。そう言った時の表情も全部」
「だから、私も春日井さんも同じなんです。それに、弟さんがいるって言っていましたよね? 弟がいるってところも同じだなって思ったんです。そうだ。弟さんには、挨拶に行かなくていいんですか?」
図書室での会話が不意に蘇る。確か、樹と同級生の弟がいたはずだ。
「春日井……さん?」
何かおかしなことを聞いただろうか。春日井さんの表情がみるみる青ざめる。視線を逸らしていただけの春日井さんが、私に背を向けた。
「……弟は、もう死んだんだ」
表情は見えない。声だけが私に届く。その声に息が止まる。
「だから、本当に、誰もいない」
哀しみだけではない身体の奥底から込み上げる苦しさも混じり合うものに聞こえて、私の胸まで締め付けられる。
「ごめんなさい。余計なこと……」
掛けるべき言葉がまったく見つからない。だから、そんな意味のないことを言ってしまった。
「いや、こちっこそごめん。言っていなかったんだから、君が謝ることはないよ」
我に返ったようにいつもの表情に戻っていた春日井さんが私に振り返る。その表情に一瞬ホッとする。でも、そうやって穏やかな顔をするその裏でどんな哀しみを抱えているのかと、素直に安心することも出来なかった。
「――じゃあ、帰ろうか」
「そうですね。東京に帰りましょう」
私にとってここは、居心地のいい場所でも懐かしい場所でもない。哀しい思い出だけが残っている場所だ。もしかしたら、春日井さんにとってもそうなのかもしれない。振り返り、もう一度改めて自分の育った家を見る。
――さようなら。
そう心の中で呟いた。
帰りの新幹線の中で、それまで無言のまま窓の向こうを見つめていた春日井さんが、新横浜駅を過ぎたあたりで口を開いた。
「住む場所のことだけど……」
私たちは結婚するのだ。これから決めることやするべきことはたくさんある。
「それも考えなきゃいけませんね。どこがいいかな。せっかくお互い近くに住んでいるんだし、あの辺でも――」
「やっぱり、別々に暮らすというのは難しいのかな……」
「え? 一緒に暮らすんじゃなかったんですか?」
結婚するのだから、当然一緒に暮らすものだと思っていた。思わず春日井さんの顔を見る。
「いや。いくら言葉で僕を信用してくれと言っても、僕が男であることには変わりない。樹君の感情を考えたら、別に暮らした方がいいと思っていた。都合良く君の両親の住まいは東京から離れているしね。でも、君の家での会話でそう簡単にはいかないんだなって知ったよ」
困り果てたように春日井さんが言った。そう言われて、自分がどれだけ春日井さんに無条件に心を許しているのかに気付かされる。
もしこの結婚の相手が春日井さんでなかったとしたら――。
おそらく、一緒に暮らすことはおろか、”偽装結婚”すらしていなかっただろう。
「――君にも、樹君にも申し訳ないとは思うけれど、とりあえずしばらくの間は一緒に暮らすことにしよう。一度訪ねて様子を見れば、君のお母さんも安心して疑いも晴れるだろう。それまでの間だけの限定で」
「申し訳ないなんて春日井さんが思うのはおかしいです。むしろ、春日井さんだって他人と暮らすことにストレスだってあるはずです。メリットもデメリットもお互い様。春日井さんがそう言ったんですよ。だから、もうこれ以上、お互いに申し訳ないという感情を持つのはやめましょう」
そう言うと、春日井さんが頷いた。
「……そうだね。もう決めたことだ。お互いのために、まっとうしよう」
最大の懸念は樹だ。でも、その樹が、実家で助け舟を出したのだ。
――そんなに信じられないなら、二人の暮らす家にでも行ってみればいいんじゃないの?
樹の中に葛藤があるのは分かっている。でも、これしか方法がないのだと理解もしているのだ。
二人のため――。
そう言い聞かせる。二人のために樹と私二人で出した結論なのだ。この時の私は、二人がこの先も一緒にいられるために選んだことだと、何の疑いもなく思っていた。
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