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第四章 五月雨
三
しおりを挟む新しい生活が始まって、一日、また一日と経つごとに緊張が少しずつ薄らいだ。
朝、ダイニングテーブルで春日井さんと顔を合せるのにも慣れて来た頃、土曜日がやって来た。いつもなら図書館に行くところだけれど、この日は樹に会いに行くと約束した日だ。樹の練習が夕方に終わるのに間に合うように、私は新幹線に乗った。
車窓の景色が、少しずつ目的の駅へと近付いて行く。重苦しい曇り空は、今にも雨が降りそうだ。スカートの上に置いていた手のひらを、なんとなく握り合わせる。
昨日の電話も、よそよそしかった――。
メッセージのやり取りだけでなく、毎日言葉を交わすようにしている。でも、本当に樹がそれを望んでいるのか分からなくなる。言葉ではない、むしろ言葉と言葉の間にある沈黙が、どこか私を拒んでいるようなそんな気がするのだ。顔を見て話が出来れば、目に見えない不安をお互いに払拭できる。そう自分に言い聞かせた。
約束のホテルのロビーに着いたのは、十九時だった。十八時に練習が終わって、樹の通う大学からここまで約一時間。そろそろ樹も来る頃だろう。フロントの正面にあるラウンジのソファに座る。
時間的にとりあえず夕飯を食べようか。でも、この辺りには父親が取引先との会食で使う店が多い。安易に外を出歩かない方がいいかもしれない。ルームサービスでも頼むべきか――なんてそんなことを考えていた時だった。
「未雨」
二週間ぶりに見る顔。実家で顔を合せて以来だ。大きなスポーツバッグを肩に掛けた樹が私の前に現れ、すぐに腰を上げた。
「行くよ」
「え……っ?」
声さえ掛けさせてくれない。私に向けられた視線は他人を見るような冷たいものだった。
チェックインの手続きを済ませた樹の後ろに続く。こうして顔を合せることが出来たのに、樹はずっと無言のままだった。仕方なくその背中を見つめながら歩く。着いた先は、ダブルベッドが真ん中にある部屋だった。ビジネスホテルの部屋は長身の樹がそこにいるだけで狭く感じる。
「練習の後だし、お腹空いたんじゃない? ルームサービスでも頼む?」
背を向けたままの樹に、この沈黙が耐えがたくて私から声を掛けた。
「きゃっ――」
これまで押し潰されそうなほどの沈黙と距離を作っていたくせに、急に私の腕を掴んだ。力任せに引き寄せられる。
「飯の話とか、相変わらず未雨は呑気だね。笑っちゃうよ」
険しい表情をした樹が私に顔を近付けて言う。
「い、つき――」
「未雨には、一生、俺の気持ちなんて分からないんだろうな」
痛い――。
そう必死に訴えても届かない。声さえ出ないのだから、届かなくても仕方がない。
「俺の気持ちなんて全然分かっていない未雨の気持ちが知りたい。名字が”春日井”になって、どんな気分? やっぱり結婚って嬉しいの?」
薄いカーディガン越しに目一杯の力で掴み上げられる。普通の人より握力がある樹が力いっぱい掴んでいるんだから痛いに決まってる。でも、身体的な痛みよりも別の痛みの方が上回って来て、哀しみばかりが込み上げた。
「そんな顔して、嬉しくないんだ? それもそうか。結婚したって、祝福してくれる家族も、友達さえ未雨にはいないもんな」
口元だけで笑みを作る。でも、その目は全然笑っていない。だから余計に怒りが鮮明になる。痛みが麻痺し始めて、私は振り絞るように口を開いた。
「……どうして樹は、今日私を呼んだの?」
こうして罵りたいためか。この結婚はやむを得ない状況だったとは言え、樹も自分で承諾したことだ。
「分からせるためだよ。忘れないようにさせるためだ!」
そう呻くように叫んだ後、樹が私を抱きしめた。
「未雨は俺のものなんだよ」
「そんなこと、分かってるよ」
ただされるがままに身を預ける。樹の胸から荒れ狂うような鼓動が伝わって来る。神経が遮断されていたように力の入らない腕をなんとか上げて、そっと樹の背中に回した。
「俺だけが、未雨を愛してる」
「それも、分かってる」
「本当の未雨を知ってるのも俺だけ」
「うん」
「未雨のことが好き過ぎて苦しいんだ。毎日毎日苦しい。未雨がこの瞬間も、他の男と同じ家に暮らしているんだって、そう思うと気が狂いそうになる」
「……うん。でも、本当に何の心配もいらない。私にとって大切な人は樹しかいない。いつだって樹のこと考えてる」
「頭では理解しても、心が言うことを聞かない」
「分かってる」
私を乱暴に抱きしめていた腕が、いつの間にか弱々しく私に縋りつく。怒りをぶつけたいだけなのだ。行き場のない葛藤をぶつける相手は私しかいない。
「だから、いいよ。何でも言って。その度に大丈夫だと言うから」
「未雨、好きだよ。未雨……」
私の身体を少し離し、その大きな手のひらで私の両頬を包み込む。樹の目は、迷子になった子供みたいに心細さに揺れている。その目を覗き込んだら、すぐさま唇を重ねられた。何度も何度も「未雨」と呼ぶ。何度も何度も「好きだ」と囁いた。私の胸元に、おびただしい数の刻印を残して。肌の上に、血の雫でも落とされたみたいになった。それも全部、樹の愛情の証なのだ。それを受け止めるのも私しかいない。
「――未雨。本当は、渡したい物があって今日呼んだんだ」
「渡したいもの?」
重怠い身体をベッドに横たわらせていると、樹が小さな四角い箱を差し出して来た。毛布を胸元まで上げて、上半身を起こす。私を見つめる樹の目は、反応をうかがうような無邪気なものだった。そんな目を見ることが出来て思わず私も頬が緩む。
「どうしたの? これ、なに?」
「いいから、あけてみて」
差し出された箱を受け取り、その蓋を上げる。
「これ……」
緩んでいた頬が一気に固まる。
「見て分からない? 指輪以外に何に見えるの」
「そうだけど、どうして……?」
誕生日でもクリスマスでもない。これまでも、指輪なんてもらったことはない。何度も瞬きをして樹を見上げた。
「結婚指輪だよ。結婚したのは俺じゃない。でも、指輪は絶対に俺があげたものをしてほしいと思った。だって、誰と結婚しようと、未雨は俺のものだろう?」
私の目の奥を探るように真っ直ぐに見つめて来る。
「それを未雨が忘れないように。もし、忘れそうになったり、忘れてしまいそうなことが起きた時、この指輪を見て」
そう言いながら指輪を箱から抜き取り、ゆっくりと私の指に滑らせる。シルバーの何の装飾もないシンプルなリングだった。私の左手薬指をそれがくるむ。
「未雨、嬉しい?」
「うん」
嬉しい――。
嬉しいのだ。でも、どうしてだろう。どうしてこんなに胸がざわつくの――?
「未雨、約束して」
ベッドの縁に腰掛けた樹が、私の髪を指で掬いキスをする。
「これからは俺の頼みは全部聞いて。俺の電話は全部出てほしい。何よりも俺のことを最優先してほしい。それで少しは安心できる。それしか俺には手段がないんだよ。見えないところにいる未雨を信用する方法が」
目に見えないものを信じるということ。それって、とても尊いことなんだろう。でも、私たちはちっぽけな人間で。そんな聖人君子みたいなことはできない。目に見える分かりやすい何かを求めてしまう、そんな樹の気持ちが分からないわけじゃない。
それで、樹の不安がなくなるのなら――。
「なるべくそうするようにする。どうしても出来ない状況の時はあるかもしれないけど、でも、精一杯努力するよ」
私より何倍も樹の方が辛いのだ。遠くにいて他の男性と暮らす私を想えば、不安も大きくなる。どれだけ大丈夫だと言葉で伝えても、理屈だけでは割り切れない。そんな思いを抱えるのは樹だ。
「――絶対だよ」
掠れた声で囁くと、私の指にはめられた指輪にそっと口付けた。
練習があるからと、朝早くに樹はホテルを出た。樹がいない以上、この土地に残っている理由はない。乗車可能な一番早い新幹線に乗り込んだ。席に着いた途端に、身体から力が抜けた。それだけ身体に力が入っていたんだと気付く。ほとんど寝ていない身体は、一度気が抜けると一気に疲労を連れて来る。いつの間にか私は眠りについていた。
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