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第四章 五月雨

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 家に帰り着くと、時計は午後三時を回っていた。日曜日は、春日井さんは図書館だ。しんとした家の中で、ここには自分一人だと気付く。ホッとしたようなそうではないような、不思議な気分になる。駅からの帰り道、コンビニで買ったビールを冷蔵庫に入れてから、自分の部屋へと向かった。たまらなくビールが飲みたくなって買ったのだ。そんなにお酒が好きというわけでもないのに、この日は無性に欲しくなった。

 部屋で着替えを済ませて、冷蔵庫から入れたばかりのビールを取り出した。そして縁側のガラス戸を開けそこに腰掛けると、小さな庭をぼんやりと眺めた。久しぶりに雨の降らない日で、夕暮れ前の空が庭を照らす。

紫陽花、綺麗に咲いてるな――。

庭の片隅にある水色の花を見る。花には全然詳しくないと言っていた春日井さんが、せっせと世話をしているのだろうか。その姿を想像して、少し笑ってしまう。手にしていた中途半端な冷たさになってしまった缶のプルタブを引く。その時、缶を持っていた指に視線が行く。薬指にはめられた指輪が、樹との会話を甦らせる。缶を口にしてビールを喉へと流し込んだ。苦みが喉を通り抜けていく。夏へと向かう特有の空気が私の頬を撫でた。苦味が喉から消えて、また缶を口にする。

ビールってこんなに美味しかったかなーー。

乾いた身体にアルコールが染み込むのが心地良かった。


「……糸原さん」

ん――。誰かが私を呼んでる――?

その声が現実のものか夢の中のものなのか判別できない。

そもそも、私は、一体、どうしたんだっけ……。

うつらうつらとして、靄がかかったみたいにはっきりとしない脳を懸命に働かせる。

「こんなところで寝ていたら、風邪ひくよ」
「え……っと、私――」

ようやく瞼が開く。そして、私を見下ろしている春日井さんの視線とぶつかる。

「えっ! あれ?」

慌てて身体を起こして、その勢いのままに顔を左右に振る。明るかった空が暗くなっている。知らない間に、ビールの缶が三本ほど転がっている。知らない間にって、そんなの私が飲んだに決まっている。でも、その記憶が全然ない。そのうえ、こんなところで戸をあけっぴろげにしたまま寝ていたなんて。

「お酒飲んで、眠くなったの?」

しゃがんで私を見ている春日井さんが笑っていた。仕事から帰って来たら、私が縁側で寝ていた。その上缶ビールまで転がっている――。笑われて当然だ。

「そう、みたいですね。全然、記憶にないんです。昼間、新幹線でも少し寝たのに、また寝るなんて――」

――って、春日井さんは私が新幹線に乗ったことも、樹と夜通し起きていたことも知らない。今度は別の気恥ずかしさが襲って来る。

「それにしても、君もお酒飲むんだね。冷蔵庫に酒が入っているのを見たことがないから、ちょっと意外だ」

私の中で勝手に湧き起った気恥しさを知ってか知らずか、春日井さんが話題を逸らしてくれた。姿勢を正して座り直す。

「いつもはあんまり飲まないんですけど。でも、今日はなんだか飲みたい気分で。そう言えば、私も思ってたんです。春日井さんはお酒飲まないのかなって」

一つの冷蔵庫を共用しているから、何となく相手の食生活が見えて来る。冷蔵庫の中にお酒が入っているのを見たことがなかった。

「……ああ。僕は、酒は飲まないよ」
「まったく、ですか?」
「まったく。飲まないようにしてる」

その視線は庭へと向けられていた。今は、月の明かりが庭を照らしていた。その言い方は、飲めないんじゃなくて飲まない。そうしている、という風に聞こえる。

「春日井さんって、なんだか仙人みたい」
「仙人……?」

春日井さんが視線を私に移す。

「そうですよ。お酒も飲まないし、あんまり遊んでいるイメージもない。何かをしたいとか欲しいとか、そういう欲もなさそうで。まさに、仙人みたいじゃないですか?」

一緒に暮らしてまだ一週間だけれど、春日井さんは、仕事が終わった後、食料品の買い物以外寄り道していないんじゃないかとなんとなく分かる。世間の二十五歳はこんな感じなのだろうか。でも、私の知っている会社の同僚たちは、もっとオフの時間を満喫していると思う。

「仙人か……。本当に、そうなれたらいいのにな」

そう呟くように言った春日井さんは何もかもを達観した人みたいに見えて、つい余計な言葉が出てしまった。

「それです! その感じが、年齢の割に若く見えない理由ですよ」
「老けて見える?」
「あ……いや、その、すみません。調子に乗り過ぎました」

こんな失礼なこと言ってしまうなんて。アルコールが思考を緩めているに違いない。

「ううん、いいよ。全然、気にしてないから。"年齢の割に若く見えなくても"全然構わないよ」
「それ、やっぱり、気にしてるんじゃないですか!」

春日井さんは「ごめんごめん、本当に気にしていないよ」と笑った。だから、結局私も笑ってしまった。

「――でも、この老け顔も役に立つなら悪くないな。糸原さんを笑わせられたから」
「え……?」

不思議に思って春日井さんを見上げる。

「疲れた顔して寝てたよ。早く休んだ方がいい」

すっと立ち上がると、春日井さんはそこから立ち去った。再び一人になって、急に外の音が耳に届く。遠くで走る電車の音、微かな車の音。そして気付く。春日井さんは、私が昨晩帰って来なかったことに一切触れて来なかった。春日井さんも私に伝える必要はないと言っていたのだから、それは当然と言えば当然なのかもしれない。

――ピピピピピ。

突然鳴り響いた着信音に、ドキリとする。急いでジーンズのポケットから引っ張り出しすぐに耳に当てた。

(すぐに出てくれたね)

樹の声で、身体を覆っていたはずの酔いは一瞬にして醒める。

「うん」
(俺の言ったこと、理解してくれていて嬉しいよ)
「うん」
(これからも、そんな未雨でいて)
「……うん。それより、今日の練習大丈夫だった?」

樹だって、ほとんど寝ないで練習に行ったのだ。大した睡眠をとることなく厳しい練習をしなければならなかったのだから辛かったに違いない。

(ああ、俺は平気。俺を誰だと思ってる? 体育会野球部で日々鍛えているんだから)
「そうだよね。でも、怪我したりしないで済んで良かった」
(未雨も大丈夫でしょ? どうせ、帰りの新幹線で寝たんだろ?)
「う、うん。大丈夫」

練習までこなして来た樹に、間違っても「疲れた」なんて言えない。

(これからは、もっともっと未雨に会う回数を増やしたい。なるべくたくさん会いたい)
「そうだね。今年の梅雨は雨が多いといいのにね」

雨が降れば樹の練習はなくなる(ということになっている)。樹が、私に会いに来てくれる。

(今度から、雨が降るたびに未雨がこっちに来てよ。少しでも会う時間を長くするために)
「でも、私はあんまりそっちには行かない方がいいと思う」
(どうして?)
「どうしてって、お父さんやお母さんに万が一見られたら困るでしょ。いくら私が結婚したからと言って、それはこれからも変わりない。それに私も仕事がある」

両親に知られるわけにはいかないからと、樹が私のところに来ていたのだ。そんなこと樹だって百も承知のはずなのに、どうして今更そんなことを言い出すのか。

(……なんだか、俺に会いに来たくないって言っているように聞こえる)
「どうしてそうなるの? 私だって、樹に会いたい気持ちは一緒だよ」
(なら、会いに来いよ)
「だから――」
(雨が降ろうが降らなかろうがいつだって会いに来いよ。仕事なんて休めばいい。それが俺を最優先するってことだろ)
「ちょっと待って」

樹が次第に感情的になっていっているのが分かる。このまま会話を続けても、いい結果にはならない。

「仕事を休めだなんて、一体どうしたの?」

これまで、私を縛るようなことはあっても仕事を休めと言ったことはなかった。

(どうして分からない? 少しの時間だって、その家にいさせたくないんだ!)

樹の荒げた声に、また言葉が出なくなる。

(……とにかく。約束は守れよ。それが、未雨の俺に対する誠意なんじゃないのか?)

樹に対する私の誠意。それを示さなければ、樹を苦しめることになる。

「……うん。努力はするよ。だから、樹も理解して――」
(ごめん。母さんが呼んでるから行かないと。じゃあ、また)

一方的に切られた電話に、また一つ心に何かが溜まる。



 
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