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第四章 五月雨
七
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“クラウンホテル五〇六号室“
言われるままに部屋に行って、私はまた感情をぶつけるみたいに抱かれるのだろう。それが分かっていても、この身体はそこへと向かうのだ。もう何年も何年も私の世界の中心にいる人の元に。
「――絶対に来てくれると思ったよ」
ドアをノックすると、樹がすぐに現れた。
「未雨、ありがとう」
数時間前、電話越しに聞いた強い口調が嘘みたいに優しい声。
「今日は、いい知らせがある」
満足げな笑みを浮かべた樹は部屋の奥へと進んでいく。無言のままその背中に従った。
「母さん、ようやく俺と未雨のことを疑うのをやめたみたいだよ。もちろん、俺に直接そんな話をしてくるわけじゃないけど、未雨の縁談話、正式に父さんが断ったみたいだ。それはつまり、母さんももうそれでいいと判断したということになる。良かったね、そっちに訪ねて行くまでもなくそう決めてくれて」
――良かったね。
良かったのは、私だけなのだろうか。
「俺があの時、『二人の家に行って見てくればいい』って言ったのが効いたのかな。ああ、違うか。偽装結婚なんて提案をしたあいつのおかげか」
口元だけに笑みを浮かべた樹が、私の方に振り返る。私を射抜くように見る目は、全然笑ってなどいない。その目も口調も、全部が苛立ちにまみれていた。
「私の話を聞いて」
どんな気持ちでここに来たのか。少しでいいから知ってほしいと思った。
「樹に会いたいという気持ちに嘘はない。でもね、私たちにはそれぞれの生活がある。私にも事情があるってことを理解してほしい――」
「今、そんな話してないだろ? 春日井の話をしてるんだよ。それとも、未雨の言う事情って、春日井との生活のことを言ってるの? いつから未雨の生活の真ん中にあいつがいることになったんだ?」
口元の笑みさえ消える。それと同時に強く肩を掴まれた。
「さっき電話で説明したよ。家にいたんじゃない。会社の人と食事をしていたの。どうして信じてくれないの? 樹が信じてくれないと、この状況を乗り越えて行けないよ」
肩に食い込みそうなほどの力で掴まれて、そのまま壁に押し付けられた。でもそんな痛みどうでも良かった。ただ樹に分かってほしくて、強い眼差しを樹に向ける。
「春日井さんの提案にのることにしたのは、私と樹と二人で決めたことだよ! 樹だって、その道を選んだ――」
この日、自分が向井さんにしてしまったことのせいで、昂ぶった感情のままに言い放っていた。樹の大きな手のひらが私の顎を強く掴む。あまりの力の強さに頭が壁に押し付けられる。
「……そうやって未雨は、本当は心の中で俺を責めているんだ。他の男と、偽装結婚させるなんてことに反対しなかった俺を、責めてるんだろ!」
「や……っ!」
私の顔なんて握り潰されるんじゃないかと思うくらいの力に、死への恐怖さえ感じる。
「未雨が売り飛ばされるも同然の縁談話があっても、何をどうすることも出来なかった俺より、大人な春日井の方が良くなったか。一緒に暮らすようになって、あいつにそそのかされたか!」
「い……やめ……っ」
これ以上力を入れられたら――。
そう思うと怖いのに逃げ出したいと思わない私は、まだ、それが樹への愛情だと信じていた。
「だから、俺に会いにも来ないんだろう! 自分には自分の生活の事情があるなんて言うんだろ!」
もう、だめ――。
我を忘れた樹の手のひらが首筋へと移り、呼吸さえままならなくなって。このまま息絶えるのかもしれないと思った時、乱暴にベッドに投げ出された。激しく咳き込む身体が、マットレスの上で跳ね返る。すぐさま樹の長身の身体がのしかかって来た。
「――もう、俺から逃げないでくれと言ったのに。どうして未雨まで、俺から逃げようとする?」
「樹、樹……っ」
身動きが出来ない身体で、必死に樹の名前を呼んだ。あの家から追い出された日から、結局樹は私を信じてはいないのかもしれない。私が逃げたと、その思いに囚われたままなのだと思い知る。
「でも、未雨は俺からは逃げられない。心が嫌だと言っても、身体は俺を欲しがるようになってる。俺が何年もかけてそうして来たんだからな」
樹の目は私を見ているようで見ていない。何か幻のようなものを見ているみたいで、きっと何を言っても届かない。それでも何度も名前を呼んだ。私の顔を見てほしくて、私の声を聞いてほしくて、自分を取り戻してほしくて――。だけど、私の声なんかじゃ、全く意味をなさなかった。
「ほら、未雨は耳が弱いんだ。耳を舐め上げただけで、身体から力が抜ける」
「樹、お願い――」
「すぐに敏感になって、胸も背中も身体の真ん中も、あっという間にいやらしくよがる」
乱暴な手つきでブラウスのボタンを引きちぎろうとする。その樹の手を必死に掴んだ。
「どうして、俺の手を止める? 脱がされたらまずいことでもあるのか?」
「そんなんじゃ、な……いっ」
「もう、あいつと寝たのか……?」
春日井さんは私に指一本触れたことはない。いつだって、一定の距離を置いて私に接する。どんな会話もやり取りも、春日井さんを間近に感じたことなんてない。どれだけ春日井さんが注意深く私と接してくれているのか。不意に、あの優しげな笑みと柔らかで静かな声を思い出して、苦しくなった。
「酷いこと言わないで! 春日井さんはそんなことしない――」
「だったら見せろよ!」
その目は何かに憑りつかれたみたいだった。その目で確かめれば樹は分かってくれるだろうか。私は抵抗をやめ、身体を差し出した。開いたブラウスの胸元を見た樹は、少しの無言の後、呻くように言った。
「未雨は俺のものだって分かるようにしてやるよ。あいつが未雨を抱こうとしても、思いとどまるように」
ただ無心でいた。何も感じないように、すべての感情を遮断する。こうやって、込み上げる言葉も全部飲み込んでしまう。力の抜けた人形みたいな身体を樹が貪る。哀しいなんて思いたくない。惨めだとも思いたくない。辛いとも思いたくない。誰でもない。私にこうしているのは樹なのだ。
私にとって大事な人。誰よりも私を愛してくれる、この世で唯一の人。その人にされているんだから、辛くなんかない――。
揺さぶられ続ける身体で、私はそう一心に思い続けた。そうしていれば、そのうち心からそう思える。いつもそうだ。それなのに、樹が私の身体の中から出て行った後も、胸の苦しみは消えてくれなかった。樹が呼吸の整わない果てた身体で私を抱き寄せても、この哀しみは消えなかった。
「俺は未雨が好きなんだ。どうしようもないほど。俺自身、もう狂っているかもしれない」
汗ばんだ胸に私を抱きしめながら、途切れ途切れに囁く。私はただじっとその腕の中で身体を固くする。
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