雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第四章 五月雨

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 樹の腕の力が弱まると、微かに寝息が聞こえて来た。
 この日は、どうしてもこれ以上ここにはいられなかった。私の身体に重くのしかかる腕をそっと離し、乱れた服を気怠い手で整えベッドから這い出た。その時、床に転がった紙袋が足元にあるのに気付く。締め付けられる胸を押さえながらしゃがみ込み、その紙袋を手に取る。中に入っていたフラワーアレンジメントは斜めになっていて、少し花が潰れてしまっていた。花びらをそっと撫で、もう一度袋にしまう。紙袋をそのまま手にして部屋を出た。今が何時なのかなんて考えなかった。

 おそらく深夜――。ホテルを出た道路には、ほとんど車は通っていなかった。そろそろ夏本番だと言っても、この街もまだ梅雨だ。深夜の夜風は開いた胸元に冷たく感じる。

 二十四時間営業のファミレスで時間を潰した後、始発の新幹線に乗り込んだ。自由席のシートに身体が深く沈みこんでいく。ふと見た自分の身体。ブラウスの一番上のボタンが取れていた。そこからのぞく鎖骨から胸元にかけて、おびただしい数のうっ血した痕があった。樹はこれまで、見えるところに付けたりしなかった。バッグの中からハンカチを取り出し、首元に巻き付ける。
 スカートの膝の上にある紙袋に触れた。人から向けられた善意を簡単に投げ捨てて、ただ抱かれるために樹の元へと駈け出して。それで結局、喘いで息を乱して身体を揺さぶられて。蘇る光景に硬く目を瞑る。

 自宅の最寄り駅に着いた頃には、街はもう動き出していた。相変わらずの分厚い雲が覆う空に、太陽は一切見当たらない。疲弊した身体のせいで、あまり何も考えられなくなっていた。自分のしたことも、樹のことも、何もかもが靄がかかったみたいに曖昧で。単純な思いつきのような願望しか浮かばなかった。

図書館に行きたい――。

ただ、そう思った。紙の匂いと落ち着いた空気に満ちた静謐な空間に、ただ身を置きたい。疲れ切った身体のはずなのに、それは切実な思いになる。

 足をひきずるようにしてたどり着いた図書館に、一歩足を踏み入れたら、前の晩から自分に起きたこと全部が夢だったかのように思えた。そこは、別世界だ。
 何でもいいから、ただその物語の世界に入り込みたい。目に付いた本を適当に取り、空いている席に腰を下ろす。開館間もない図書館は、いつもよりもずっと人は少なくて静かだった。たくさんの本が整然と並んでいる。その一つ一つを、春日井さんが丁寧に並べたのかもしれないと思うと、彼の気配を感じた。実際にそこにいるわけでもない。それなのに、安心感に包まれたみたいに、身体中の強張りが溶けてしまいそうになる。食いしばって抗って、痛みを感じないようにしているのに、そのすべてを吐き出してしまいたくなる衝動に駆られて激しく動揺する。
 本当は夢なんかではない。現実の私は、樹の乱暴な行為に、心と身体も磨り減って。

樹の行為に、本当は、愛情なんてないのではないか――。

そう思った瞬間、何もかもが根底から崩れ落ちて行きそうになった。

違う。そんなんじゃない。こんなの、恋人同士だったらよくある些細ないざこざ。私より、樹の方がずっと苦しいはずで……。

そう否定するのに、痛いほどに苦しい。押さえつけたものが決壊してしまいそうで混乱する。

何もない私を樹だけが愛してくれる。それだけで幸せなんだ――。

何度言い聞かせても、泣き叫んでしまいたくなる。急に震え出す身体が全身で悲鳴をあげる。

助けて――。

「……糸原さん」

苦しくてたまらない。頭を抱えて何度振っても苦しさは消えない。

「糸原さん!」

助けて――!

「どうした?」

小さくともはっきりとした声に呆然とする。目を見開いたまま、その声に顔を向けた。すぐそばに、酷く心配そうな顔をした春日井さんがいる。

「そんな青い顔をして、どうしたの? 大丈夫か?」
「わ、私――」

昨晩からずっと堪えていた涙が溢れ出し、筋となって流れ落ちた。それほどの圧倒的な安堵が私を包む。でも、次の瞬間、激しい恐れが私の身体を突き抜けて行った。

春日井さんに助けを求めようとしたのだろうか――?

さっきまでは堪えられていた涙が止まらずに焦るばかりで、上手く言葉が出てこない。

「大丈夫だよ」

早く取り繕わなければと何かを言おうと唇ばかりを動かしている私に、春日井さんが落ち着かせるように声をかけて来る。でも、その声が余計に私の涙を溢れさせた。公共の場で、そのうえ春日井さんの前で、こんな自分を晒していることに余計に混乱する。

「向こうに行こうか」

私だけに聞こえるようにそっと言う。その時、私の目の前の視界が遮られた。それが、私の身体を隠すように春日井さんが近付いたのだということを知る。決して私には触れない。でも、テーブルの上の本を閉じ、私の荷物を手にしながら自然に私を人目から避けてくれている。

「――おいで」

少し長い前髪の分け目からのぞく目が、至近距離で細められる。混乱した私は、その目に促されるまま後に続いた。

 図書館の自動ドアを通り玄関前のホールに着く。ホールの片隅にある待合室のような場所にソファが置かれている。春日井さんが、いくつかあるソファの一番奥に私を座らせた。玄関からも図書館の自動ドアからも目に付かない。水滴がぽつぽつと窓ガラスに散らばり始める。

「……ごめ……なさい」

春日井さんが手にしていた私の荷物をソファに置くのを見て、なんとか出て来た言葉はそれだった。涙を流すばかりの私に、春日井さんが視線を合わせるように私の前にしゃがみ込んだ。

「落ち着くまでここにいるといい」
「私……」

震える肩のせいで声までも揺れてしまう。漏れ出る嗚咽に慌てて口元を手で塞ぐ。

「大丈夫。無理に喋らなくていいから」

その優しい声が私を弱くする。目の前の人に縋りたいと、そんな感情が心の隙間のあちこちから流れ出る。

「本当に、ごめんなさい。私――」
「春日井さーん。いますかー?」

その時、どこからか春日井さんを呼ぶ声がした。その声で我にかえる。

「――あ、はい」

春日井さんが立ち上がり、その声の主がこちらに来る前に声の方へと向かって行った。

「こんなところにいたんですか」
「ああ、すみません」

私の方を振り返り心配そうな目を向けた後、その人に頭を下げていた。

「取り寄せ依頼のあった資料についてなんですけど――」

春日井さんは仕事中だ。こんなところで、私は一体何をしてしまったのだろう。春日井さんが図書館の職員とやり取りをしている間に、すぐ傍に置かれた荷物を手に取ってそのまま図書館を飛び出した。

 図書館を出ると、冷たい雨粒が身体に落ちて来た。

傘は――。

ハッとして、ホテルの部屋に置いて来てしまったことを悟る。激しく打ち付ける雨があっという間に私の肩も髪も濡らして行く。勢いよく濡れて行く路面を走ると、すぐにつま先に雨が滲んだ。
 走り続けて、息が苦しくなって。家の近くの橋の欄干に手を付いた。ヒリヒリとする胸に、もう片方の手を当てる。身体を流れ落ちて行く雨に濡れる自分の無様な姿に、激しい嫌悪と羞恥がこみ上げる。

「私、一体、何してるんだろ……」

欄干に置いた手を滑らせながらしゃがみ込んだ。どうして図書館になんて行ってしまったのか。何の関係もない春日井さんに、救いを求めようとしたのだろうか。よりにもよって春日井さんのいる場所に行ってしまうなんて。

こんな存在、消えてなくなればいい――。

それは、いつかも思ったことだった 。でも、今ほど本気で思ったことはないかもしれない。額に手を当て目を閉じた。

 打ち付け続けていた雨が、突然消える。おもむろに顔を上げると、視界の先に紺色の傘が見えた。

「……どうして?」

しゃがみ込む私に傘をさしかけて、同じ視線にいる春日井さんの姿がある。

「図書館は? 今、仕事中でしょう!」

みっともない姿であろう自分のことなど忘れて、私はそう叫んでいた。

「大丈夫だよ。図書館には他にも職員はいる」
「でも、迷惑かけるじゃないですか!」
「『妻が”怪我”をしたみたいで』って言ったら、すぐに帰れって言われた」

ずぶ濡れになっている私を目の前にしても、春日井さんは悪戯っぽい目で言う。

「……それ、嘘ですよね?」

だから、私も涙を零しながら笑ってしまった。

「完全な嘘でもないと思うけど。それに、雨の中傘を持っていない人が帰って行ったら、誰だって追いかける」

”完全な嘘でもない”

私を見て傷だらけだと思ったのだろうか。結局春日井さんを心配させ、自分の問題を自分の中だけで解決できない私は、大人失格だ。

「とにかく、帰ろう。風邪をひく」

呆れているような憐れんでいるような、それでいて見守ってくれているような。そんな目をした春日井さんに、自然と頷いていた。大きな紺色の傘の下に、そっと入り込む。バッグと紙袋を胸に抱え込み、春日井さんの隣で小さくなって歩いた。
 家へと向かう途中、ちらりと一度だけ春日井さんを盗み見た。その目はただ真っ直ぐに前だけを向いていた。何も聞かない。泣き出した理由も、逃げ出した理由も。ただ傘を差し、私の隣を歩いてくれた。


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