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第四章 五月雨
十三
しおりを挟む自宅に着いた時には、二十三時を回っていた。
「おかえり」
「まだ起きていたんですか?」
そっとドアを開けたけれど、玄関には春日井さんの姿があった。
「これから寝るところだよ。なんだか、随分楽しそうだね」
「はい。今日、先輩に埋め合わせをすることが出来たんです」
酔いが回っているせいで表情は緩んだままだ。ただの酔っ払いかもしれない。
「糸原さんの様子から、楽しかったんだってことが伝わって来るよ。良かったな」
「はい!」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
挨拶を済ませ、自室に戻る。バッグからスマホを取り出して確認してみると、樹からの着信履歴があった。慌てて電話をかけ直しても呼び出し音が続くばかりで、もう切ろうかと思ったところだった。
(……もし、もし)
「私だけど、電話くれたよね? 今帰って来て、着信に気付いて――」
(あ……っ、ん――)
「え? なに? よく、聞こえない」
くぐもった吐息のようなものと掠れて途切れた声で、よく聞き取れない。
(もう、いいよ。今頃電話して来ても、遅いから……っ)
「どういう意味? 大丈夫? 苦しそうだよ?」
樹の呼吸がどこか荒い。
(もう、遅いから、いいよって、こと。じゃあ、切るよ)
「ちょっと――」
既に通話は切れていた。遅いというのは時間が遅いという意味だったのか。何かが腑に落ちない。
ベッドの中で何度も寝返りを打つ。さっきの樹との電話が気になってしょうがない。
本当は、どこか体調でも悪かったんじゃないか――。
私が自分の生活も尊重してほしいなんて言ってしまったから、樹は何も言えなくなった……?
そんな想像ばかりが広がって、いっこうに眠気がやって来なかった。
結局、夜が明ける頃に浅い眠りについたけれど、すぐに目が覚めた。枕元の目覚まし時計を見ると、六時を過ぎたところだった。電話だともし寝ていたら起こしてしまう。そう思い、メッセージを送信した。
(昨日は酔っていたみたいだけど、大丈夫? 少し様子が気になったので)
手にしていたスマホをベッドに置いた瞬間に、それが鳴り出した。すぐにディスプレイを確認すると、樹からの返信が来ていた。
(いつも以上に飲み過ぎて、終電逃して近くのホテルに泊まってる。まだ頭がガンガンして起き上がれない。練習を休むから、もし来られるなら来てよ。来てほしい)
悪酔いして、苦しんでいたんだ――。
(分かった。今日はお休みだし、これから行きます。着くのは昼過ぎになるかもしれないけど、ホテルの部屋はまだいられるの?)
そう送り返すと、すぐにホテル名と部屋番号が送られて来た。私の中に、来てほしいと言われたのを断ってしまったという罪悪感もあった。地元に帰ることの躊躇いを感じるまでもなくすぐに身体は動いた。
「あ……っ、おはようございます」
適当に身支度を整えて玄関に向かうと、春日井さんと出くわした。
「おはよう」
春日井さんも既に着替えを済ませていた。土曜日の今日は、仕事のはずだ。
「私、これから、樹のところに行ってきます。なんか、具合が悪いみたいで」
こんな報告、春日井さんが必要としていないのは知っている。でも、私の中の春日井さんという存在の位置づけが、少しずつ変化している。それがどんな変化だかは自分でもよく分かっていない。でも、ただ違う。それだけは分かる。
「気を付けて」
春日井さんは何も変わらない。何も聞かないし、何も言わない。その表情さえも変わらない。
「行ってきます」
駅へと走った。新幹線に乗り、樹に指定されたホテルへと向かう。
二日酔い、少しは良くなっているといいけど――。
駅に降り立つとコンビニに立ち寄った。二日酔いに良さそうなスポーツドリンクや食欲がなくても食べられそうなゼリーなんかを適当に買い物かごに入れた。少し良くなっていたら、樹と話をしよう。これまでのこと、これからのこと。心の中で思う。
指定されたホテルは、樹の通う大学の近くにあるシティホテルだった。部屋の前に来て呼び鈴を押す。もう、十三時を過ぎていた。少しの間の後、そのドアが開く。現れた樹の顔が、思っていたより辛そうなものではなくて安堵する。
「少しは良くなった? 何か少しでも食べられるといいと思って、いろいろ買って来たんだけど――」
「未雨は、本当に、相変わらず呑気だね」
「え……?」
コンビニの袋を掲げたまま、樹の顔を見つめる。
「樹君、誰……っ?」
その部屋の奥から、知らない女の人の声がした。
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