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第四章 五月雨
十二
しおりを挟む相変わらず、朝から雨が降っていた。
「今日も雨ですね。いつ頃梅雨が明けるんでしょうか……」
出勤前の食卓で、向い合って朝食を取る。
「この前、テレビで言っていたけど、梅雨明けは遅いみたいだよ」
春日井さんの朝食が、少しだけ健康的なメニューに変わっている。
「そう言えば、梅雨が明ける頃に、紫陽花のお世話が必要になるんですよね?」
「そうなんだ。花が終わった頃に剪定が必要みたいで。そうしないと来年の花の咲き具合に影響するらしい」
春日井さんの言葉で、庭の紫陽花に目を向けてみた。雨が降る庭の中で、まだまだ綺麗に咲き誇っている。
「いつ頃、花は終わるんでしょうか」
「本に書いてあったことによれば、七月の半ばくらいまでには咲き終わるみたいだよ。剪定もその頃までに終えた方がいいみたいだ」
野菜サラダを食べていた手を止めて、春日井さんが答えてくれた。
「じゃあ、その作業、私もお手伝いします」
「いや、いいよ。僕が、休みの日に適当にしておくから」
「この前、手伝うと言ったはずです。忘れたんですか?」
やっぱり春日井さんはそう言うと思った。
「ああ……、そうだっけ」
とぼけたような顔をしてもだめだ。私の意思は固い。
「私が住む家の庭でもありますから、手伝います。七月の半ば頃ですね。私と春日井さんのお休みが重なる日があるといいんだけど……」
冷蔵庫の横に貼ってあるカレンダーをじっと見る。
「それなら……」
「はい!」
春日井さんの声に飛びつく。
「再来週の日曜日はどう? その日は、僕が休めそうなんだ」
「はい。日曜日なら大丈夫です。その日にしましょう!」
いつもはどこか私を遠ざけようとしているふしのある春日井さんが、珍しく日程を提案してくれた。その機会を逃すまいと、前のめりになって声を張り上げていた。
「あ、ああ、そうしよう。でも、無理はしないで。時間があったらでいいから」
あまりに勢いよく返事をしたものだから、春日井さんが少し身体をのけぞらす。
「はい。そうします」
もう春日井さんの考えそうなことは理解している。ここは反論せずに肯定しておく方が、春日井さんを安心させることができる。
この一週間、週末の金曜日まで雨が降り続いていた。
『雨が降る度に会いに来て』
私が春日井さんと一緒に暮らし始めた頃、そんな風に樹が言っていた。でも、どうしたって平日に会いに行くことはできない。今では、樹もそれを理解してくれている。その証拠に、この一週間、樹は「会いに来て」とは言って来なかった。そうして迎えた金曜日。向井さんと一緒に食事をする約束をしていた。
「こういうお店、糸原さんも来るんだー」
埋め合わせをするべく、私が店を探し予約をした。そんなことをするのも初めてのことで、店を決めるのにも時間がかかった。
「いえ、初めてなんです。こういうところ来てみたいなと思って、向井さんに付き合ってもらうことにしました」
そこは親しみやすい、ごくごく普通の居酒屋だった。気軽に注文して、時間を気にせずお喋りできる。そんなイメージの場所だ。
「私も好きだよ、居酒屋。気兼ねなしにくつろげるもんね」
「良かったです」
二人掛けのテーブル席で向かい合い、生ビールで乾杯した。そして、他愛もない話で笑い合った。
「――だいたいさ、どうして私の良さがみんな分からないかね。こんないい女いないよね!」
店に入って一時間半を過ぎた頃、すっかりできあがっていた向井さんが、頬を染めて私に訴えている。
「そうです。私にとって向井さんは理想の女性です」
優しくて明るくて、さりげない気遣いが出来て。そんな人になれたらと、あまりに自分と違い過ぎるから心からそう思うのだ。
「それ、会社でも言って回っておいて!」
そう言うと、向井さんがこの日四杯目のジョッキをドンとテーブルに置いた。それと同時に、私のバッグの中のスマホが振動を始めた。
「――すみません。お手洗いに行ってきますね」
「おう。行っておいでー」
すみません、ともう一度言って店の奥へと向かう。『今日は向井さんと飲みに行く』と事前に樹にも伝えておいたにも関わららず、確認した画面には樹の名前が表示されていた。何か急用だろうか。そう思うと心配になって、すぐにその電話に出た。
「樹? どうしたの――」
(これから、こっちに来られない?)
その声は、確かに樹のものだ。でも、いつもと少し様子が違う気がする。
「どうかしたの? 今日は、職場の人と会うって言っておいたはずだけど」
(どうしても、ダメなの? 未雨に会いたい)
電話の向こうが、がやがやと騒がしい。どこか外にいるのだろうか。
「もしかして、酔ってる?」
その騒がしさと、なんとなく呂律が回っていない様子から、そう聞いてみた。大学野球部の飲み会か何かだろうか。
(少しね。それより、どうしても会いたいんだ。会いに来て)
「何か、あったの?」
(別にないよ。理由なんてない)
無意識のうちに手のひらを握りしめ力を込めていた。
「……ごめん。今日は行けない。明日なら――」
(なら、いい。じゃあ)
そう言われて電話は切れた。ふっと溜息を吐く。今週の樹は、私に無理を言うようなことはなかった。酔った勢いで電話をしてきてしまったのだろうか。今回は無理強いをしてこなかった。そんな樹に少し安堵もしていた。
その後、一時間ほど飲んでから、向井さんと別れた。
「今日はとっても楽しかったです。付き合ってくださって、ありがとうございました」
私もほろ酔いになっていた。久しぶりに雨の上がった夜風が頬に気持ち良かった。
「私もだよ。糸原さんが、本当はこんなに明るい子だったって知ることができて、楽しかった。また行こうね」
「はい!」
「旦那様にも、奥様をお貸しくださってありがとうございますと、お伝えください! じゃあまた会社でね」
いつまでも手を振ってくれる笑顔の向井さんを見送った。
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