62 / 154
第五章 神立
三
しおりを挟む月曜日の朝、テレビの情報番組で梅雨が明けたと発表していた。
「今年の梅雨は雨が多かった」
「そうですね」
向かい合って座る春日井さんは、いつもと変わりない。それにホッとしているような切ないような、複雑な心境になる。
「これから、夏本番だな。今年の夏は暑くなるのかな」
そう呟いて、春日井さんが庭に目をやった。雨続きの毎日が嘘みたいに、明るい太陽が降り注いでいる。
「――樹君は」
春日井さんの声に、グラスを口に運ぶ手が止まる。春日井さんは庭に視線を向けたまま私に問い掛けた。
「確か、大学四年生だったよね。野球部の活動っていつまでなの? 引退とか、そういのあるのかな」
「……どうでしょう。いつかは引退するんだろうけど、就職も決まっているし練習は続けるんじゃないかと思います」
春日井さんは、私と樹の今の状況を知らない。そもそも、春日井さんから樹の話題を振って来るのは珍しいことだった。
「そう……。世間は夏休みになるっていうのに大変だね。君も寂しくなるね。梅雨が明けたら、雨が減る」
庭から視線が私の方へと移る。その笑みに、どう応えたらいいのか分からなくなる。
「どうして、雨……」
「糸原さん、いつも天気予報が始まると、手を止めて真剣に見ていただろう? 雨予報だと少し嬉しそうだったから」
そう言って、春日井さんが微笑む。
「梅雨が終わっても、雨がたくさん降るといいな」
そんな風に笑わないで――。
お門違いなことを思う。そして、また胸の奥が苦しくなる。その時だった。
「ちょっと! 太郎君いるんでしょう!」
玄関の方から騒がしい声が聞こえて来た。扉をバンバンと叩く音もする。それは、明らかに女性の声だった。
「この声は……」
そう言葉を発すると、勢いよく椅子から立ち上がり春日井さんが玄関へと消えた。この家に暮らし始めてから、春日井さんを訪ねて来る人を見たことは一度もない。私がいない時に来ることもあったのかもしれないけれど、少なくとも私は見たことがなかった。どうしても気になって、玄関の方に意識を集中させてしまう。
「こんな朝っぱらに、突然どうした――」
「突然なのはそっちだよね? 一体、何を考えてるの? とにかくお邪魔するからね」
「ちょっと、待て――」
そんなやり取りから間もなく、一人の女性が慌ただしくやって来て私の前に現れた。
「この人誰? どこの誰!」
「え……? あ、あの」
ショートヘアにくりっとした目が印象的な可愛らしい人だったけれど、とにかく酷く眉間に皺を寄せて私を睨みつけている。これが一体どういう状況なのか分かりかねて、助けを求めるように春日井さんを見た。
「おい、初対面の人に失礼だろ! とにかく、話は僕の部屋でしよう。ほら、こっちに来い」
「その前に、この人がどこの誰だか教えてよ。結婚って一体何よ! そんなの私、聞いてない」
その人の腕を掴んで、春日井さんが引っ張って行こうとしている。でも、女性は激しく抵抗して、その視線を私から移そうとしない。
「糸原さん、朝からごめんね。気にしないで」
困ったように私に手を合わせて、引きずるようにその女性をキッチンから連れ出した。
「"いとはらさん"って、何それ。誰!」
それでも彼女の声は止まなかった。それは、本当に嵐のような出来事で。私は唖然として見ていた。誰だろう。春日井さんと彼女の会話の様子から、かなり気心知れている間柄と分かる。
もしかして、春日井さんが心の中で想っているという人――?
春日井さんの部屋へと消えた二人に、心がざわざわとして仕方がない。おかげで、その日は仕事でミスを連発した。
帰宅して家の前まで来ても、なんとなく入るのにためらいがある。家の周りでうろうろしているわけにもいかない。心を決めて、扉を開けた。
「ただいま――」
「ああ、おかえり」
ちょうど玄関先にいた春日井さんが、すぐに私に顔を向けた。
「今日は朝から騒がしくてごめんね」
「い、いえ……。もう、お帰りになったんですか?」
躊躇いつつも、そう聞いた。
「ああ。あの子、ここの家主の娘でね。昔からの知り合いなんだ」
「そう、だったんですか……」
――昔からの知り合い。
その言葉の意味をどう解釈すればよいだろうか。東京では、少なくとも春日井さんは人と関わろうとしていない。まったくと言っていいほど。そんな春日井さんが心を許している人。きっと、私の知らない春日井さんをたくさん知っている人――。
「糸原さん……? どうしたの?」
「すみません。なんでもないです」
考え込んでしまっていた私を不思議そうに見つめる目と視線がぶつかり、慌てて目を逸らした。
「玄関先で引き留めて悪かったね」
そう言うと、春日井さんは自分の部屋へと入って行った。その背中を見送りながら溜息を吐く。
樹とのことを、春日井さんに言うべきか――。
指輪がなくなった左手薬指を見て、またも溜息を吐く。この状況が報告するべき段階にあるのか、溜息ばかりが浮かぶ。
一方的に別れを告げた日から、樹からは何の音沙汰もない。それをそのまま理解していいのか。どうしても私の中の不安は消えない。
こんなに簡単に終われるはずはない――。
樹にも言われた言葉だ。その言葉が私に重くのしかかる。
0
あなたにおすすめの小説
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる