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第五章 神立
四
しおりを挟む「糸原さん、ですよね?」
翌日、仕事を終えた後だった。自宅最寄り駅の改札を抜けたところで、突然声を掛けられた。
「は、はい……。あっ」
それは、前の日に春日井さんを訪ねて来た女性だった。
「あなたに話があるんですけど、少し時間いいですか?」
どうして私を待っているのかまったく想像もつかなかった。
駅前のチェーン店のコーヒーショップに入り、向かい合って座る。とりあえず頼んだブラックコーヒーだけが頼りだ。目の前に座るその女性からは、刺すような視線がずっと注がれている。
「太郎君の前じゃ話もさせてくれないし、あなたを駅で待つことにしたんです。事務職のOLなんでしょう? だったら大した残業もなさそうだし、待っていればそのうち帰って来るかと思って」
その言いようは微妙でもあるけれど、間違ってもいないからとりあえず頷いておく。
「糸原さん、太郎君と結婚したんですよね?」
「は、はい……」
間違ってはいない。法律上はそうなっている。でも、正々堂々と言えるような結婚でもないから、発する声は今にも消え入りそうなものになってしまった。
「本当に、意味が分からない。全然分からない」
そう言い捨てて、彼女は乱暴にアイスコーヒーの入っているグラスを手に取った。
「あの……あなたは、あのお宅の家主さんの娘さんだと聞きました」
「太郎君がそうあなたに言ったの?」
「は、はい」
この人が何歳なのかは分からないけれど、その勢いに完全に気圧されていた。
「太郎君に両親がいないっていうのは、あなたは知ってますか?」
「はい」
私の返事を確認するように聞いてから、彼女が話し始めた。
「太郎君のご両親は、太郎君がかなり小さい時に亡くなって。幼い兄弟を引き取ってくれるような親戚もいなかったみたいで、太郎君兄弟は私の父が園長をしていた児童養護施設で暮らしてた。私の家も近かったし、太郎君のこと、子供の頃から知っているんです」
子供の頃からの知り合いなら、春日井さんの身に起きたことを彼女は知っているのだろうか。
「糸原さんは、太郎君にはずっと想っている人がいるってことを知っているんですよね? それを知っていて、結婚した」
それを聞くということは、この人は春日井さんが想っている人とは違うということか。彼女は、春日井さんの大切な人が誰なのか知っているのだろうか。そんなことを考えながら、ぎこちなく頷いた。目の前の彼女は大きく息を吐き、額に手のひらを当てる。
「私、父に一昨日聞いたんです。太郎君が結婚したって。それで夜行バスに飛び乗ってここに来ました。太郎君が結婚なんかするはずないってずっと思っていたから、信じられなくて……」
そう言うと、ハッとしたようにすぐさま私に視線を向けた。
「もしかして、あなたが最初に太郎君と出会ったのは、高校時代ですか……?」
彼女の目に、不安のような怯えのようなものが浮かぶ。
「そうですけど……それが何か――」
「何考えてるのよ……。本当にバカだ。大バカだ……」
私の答えを聞いた途端に俯き、吐息と共にひとり言のような言葉を吐いた。その時、彼女が人差し指を目元に寄せた。
「あの……?」
彼女の目に涙が溜まっているのに気付いて驚く。
「――私」
俯いていた彼女が突然顔を上げて、私を真っ直ぐに見た。
「太郎君のことが好きなんです」
そうはっきりと言った。何か言わないと不自然なのに、みっともないくらい動揺して、ただ彼女を見つめることしか出来なかった。
「結婚しても奥さんのことを"糸原さん"なんて呼んだり、夫になる人に想っている人がいても結婚できたりする。どんな事情があって結婚したかは知りません。でも、二人が想い合って結婚したんじゃないなら、私は諦めない」
彼女の目はとても険しいものなのにその目は潤んでいた。
「元々、太郎君に好きな人がいると知りながら結婚したんだから、私が太郎君をどう思おうと関係ないですよね? あなたは、何とも思わないですよね?」
彼女は絶対に私から視線を逸らそうとしない。怖いほどに真っ直ぐに私を見ている。
「私は……っ」
春日井さんのことが――。
思わず口走ろうとした言葉。それが私の答えだ。胸元をぎゅっと握りしめる。どうしてこんなに苦しいのか。締め付けられるのか。何重にも巻き付けられた樹という鎖から這い出ることなんて出来ないと心を閉じて来たのに、それでもこの心が動くのは好きだから。樹が知らない女の子と関係を持ったと知った時、虚しさと哀しみは襲って来ても、こんな風にもがくような苦しみはなかった。どんなに分からないふりをしたって、ダメだと思おうとしたって、どんなに最低だと思ったって、私は春日井さんのことが好きなのだ。勝手に溢れて来る。もう、自分を誤魔化せない。
私もあの人が好きだと言えたなら――。
「太郎君は、あなたなんかじゃ分かりようもない、苦しいまでの重荷を背負って生きている。これまで嫌ってほど傷付いて生きて来た。たくさんの人から弾かれて、地獄のような日々を彷徨って。それでやっと今、静かに生きていけるようになったの。だから、私は、出来る限りもう太郎君には傷付かないで生きてほしい……っ」
そこまで言い放つと、彼女が指で目を拭った。彼女は泣いていた。
「亡くなった弟さんのこと……ですか?」
私の問いかけに、彼女は固く目を瞑る。
「太郎君が話していないことを私が勝手に話すわけにはいかない」
そう絞り出すように言うと、真っ赤にした目で私を見た。
「どうせいつか離れて行く。それなら、早く太郎君から離れてください」
その言葉が発する哀しみに、上手く呼吸が出来なかった。
彼女が出て行った後も、しばらく席を動けなかった。この気持ちを認めたところで、私が向かう先なんてあるんだろうか。この気持ちの行き場なんてあるはずない。春日井さんは今も変わらず、そして、これから先もずっと、誰かを想っている。
それに――。
春日井さんは私が樹を想っていると信じている。私の樹への気持ちを汲んで、こんな壮大な嘘に協力してくれているのだ。
そんな私が、春日井さんを好きになったと知ったら――。
きっと、春日井さんは私を軽蔑する。あまりに軽薄で身勝手だ。言えるはずもない。
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