雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

文字の大きさ
64 / 154
第五章 神立

しおりを挟む



「ただいま……」

なんだか入りづらくて、玄関の扉を開けるのに時間がかかった。この声も小さくなる。

「おかえりー」

そんな声でも届いたのか、少し遠くから春日井さんの声がした。どこにいるんだろうと家の中を覗き込むように見ると、玄関脇に続く縁側に腰掛けていた。

「今日、月が綺麗だよね。それでつい見てた」

空なんて見る余裕がなかった。その言葉に誘われるように私も縁側へと進む。春日井さんの隣に、ぎこちなく腰掛ける。お風呂上りだろうか。ほんのりと石鹸の香りがした。そんなことまで気付いてしまって余計に緊張する。

「ほ、本当だ。満月ではないけど、大きいですね」

慌てて私も空を見上げた。

「大きくて間近に見える月って、なんとなく恐いよね。なんか、全部持ってかれそうで」

そう言って春日井さんが笑う。その横顔に、つい視線を奪われる。高校生の時と違って、笑った時目が少し翳る。優しくて包み込むような笑みなのに、どこか暗い膜が覆う。

「春日井さん……」
「ん?」

その顔が私に向けられる。

――あなたなんかじゃ分かりようもない、苦しいまでの重荷を背負ってる。

「春日井さんは、いつ、東京に出て来たんですか?」

私も知りたい。春日井さんがどこでどんな風に生きて来たのか。どんな風に大人になったのか。無言のまま私を見つめて、一度目を伏せる。そこで何かを振り払うようにして、私を再び見た。

「高校をやめて、少し経った頃かな。身寄りもないし、僕一人だし。東京ってところは、ただ生きて行くだけならどうにでもなる。東京の中でもいろんなところを転々としてたよ。生きてるだけでそれ以上望んじゃいけないって思ったんだけど、どうしても一つだけ諦められなくて。働きながら高卒資格とって、通信制の大学で司書になるための勉強をした」

そうやって穏やかに話をしてくれるけど、きっとその言葉の裏には辛いことがあったのだ。さっきの彼女の表情を思い出す。

「こうして今、図書館で働けているのは、昨日訪ねて来た子のお父さん、この家の家主のおかげなんだ。身寄りもない僕に、伝手を頼って図書館紹介してくれて。採用がそう多くないから図書館で働くのは本当に難しいんだ。ありがたい限りだよ」
「彼女とは、ずっと親しかったんですか?」

こんなことを聞いてしまうなんて、どれだけ私は見苦しいんだろう。

「ああ、子どもの頃はね。僕は、子どもの頃は施設で暮らしていたんだけど、その施設の近所にあの子――璃子りこって言うんだけどね、璃子が住んでいたし、ここの家主が施設の園長でその娘でもあったから、施設のイベントがあるごとに遊びに来ていた」

きっと、その頃から春日井さんは優しい男の子だったんだろう。それで彼女は春日井さんに惹かれた。私が高校生の時に心癒されたみたいに――。

「東京に出て来てからはずっと会っていなかったんだ。この家に引っ越してきた時に、園長と一緒に来てくれて。それが久しぶりの再会だった。女子大生で僕より年下なのに、しっかりしてるっていうか何と言うか。何故か僕はいつも怒られてる」

そう言ってふっと笑った。彼女の気持ちを春日井さんは知っているのだろうか。あの真っ直ぐで何の汚れもない瞳を思い出す。羨ましくて妬ましいとさえ思った。

「妹がいたら、あんな感じなのかな」

春日井さんの口から出た”妹”という言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。それは、その言葉に咄嗟に安堵したからだ。春日井さんといると、今まで知らずにいた自分を目の当たりにさせられる。

 隣にいたいと思う。ただ、それだけでいい。絶対に触れてもらうことはなくても、女として見てもらえなくても、傍にいたいと強く願ってしまう。どんなに苦しくても、こうして二人でいられることが幸せで、締め付けられるほどに心が震える。

春日井さん。私も、狡い人間だったみたいです――。

隣に座る春日井さんの横顔を見つめる。この気持ちは隠し通すから傍にいさせてと、卑怯で狡い願いを持つ。軽薄な自分は隠したままにして。

他に誰も愛せないのなら、せめて傍にいるのは私でありたい――。

璃子さんの気持ちを知りながら、こんなことを思う。まだ樹と私の状況さえ春日井さんに伝えられずにいる。樹との別れも曖昧なままで、卑怯で狡いその感情すべてが罪だった。


しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

私たちの離婚幸福論

桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-

設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt 夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや 出張に行くようになって……あまりいい気はしないから やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀ 気にし過ぎだと一笑に伏された。 それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない 言わんこっちゃないという結果になっていて 私は逃走したよ……。 あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン? ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 初回公開日時 2019.01.25 22:29 初回完結日時 2019.08.16 21:21 再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結 ❦イラストは有償画像になります。 2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

処理中です...