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第五章 神立
五
しおりを挟む「ただいま……」
なんだか入りづらくて、玄関の扉を開けるのに時間がかかった。この声も小さくなる。
「おかえりー」
そんな声でも届いたのか、少し遠くから春日井さんの声がした。どこにいるんだろうと家の中を覗き込むように見ると、玄関脇に続く縁側に腰掛けていた。
「今日、月が綺麗だよね。それでつい見てた」
空なんて見る余裕がなかった。その言葉に誘われるように私も縁側へと進む。春日井さんの隣に、ぎこちなく腰掛ける。お風呂上りだろうか。ほんのりと石鹸の香りがした。そんなことまで気付いてしまって余計に緊張する。
「ほ、本当だ。満月ではないけど、大きいですね」
慌てて私も空を見上げた。
「大きくて間近に見える月って、なんとなく恐いよね。なんか、全部持ってかれそうで」
そう言って春日井さんが笑う。その横顔に、つい視線を奪われる。高校生の時と違って、笑った時目が少し翳る。優しくて包み込むような笑みなのに、どこか暗い膜が覆う。
「春日井さん……」
「ん?」
その顔が私に向けられる。
――あなたなんかじゃ分かりようもない、苦しいまでの重荷を背負ってる。
「春日井さんは、いつ、東京に出て来たんですか?」
私も知りたい。春日井さんがどこでどんな風に生きて来たのか。どんな風に大人になったのか。無言のまま私を見つめて、一度目を伏せる。そこで何かを振り払うようにして、私を再び見た。
「高校をやめて、少し経った頃かな。身寄りもないし、僕一人だし。東京ってところは、ただ生きて行くだけならどうにでもなる。東京の中でもいろんなところを転々としてたよ。生きてるだけでそれ以上望んじゃいけないって思ったんだけど、どうしても一つだけ諦められなくて。働きながら高卒資格とって、通信制の大学で司書になるための勉強をした」
そうやって穏やかに話をしてくれるけど、きっとその言葉の裏には辛いことがあったのだ。さっきの彼女の表情を思い出す。
「こうして今、図書館で働けているのは、昨日訪ねて来た子のお父さん、この家の家主のおかげなんだ。身寄りもない僕に、伝手を頼って図書館紹介してくれて。採用がそう多くないから図書館で働くのは本当に難しいんだ。ありがたい限りだよ」
「彼女とは、ずっと親しかったんですか?」
こんなことを聞いてしまうなんて、どれだけ私は見苦しいんだろう。
「ああ、子どもの頃はね。僕は、子どもの頃は施設で暮らしていたんだけど、その施設の近所にあの子――璃子って言うんだけどね、璃子が住んでいたし、ここの家主が施設の園長でその娘でもあったから、施設のイベントがあるごとに遊びに来ていた」
きっと、その頃から春日井さんは優しい男の子だったんだろう。それで彼女は春日井さんに惹かれた。私が高校生の時に心癒されたみたいに――。
「東京に出て来てからはずっと会っていなかったんだ。この家に引っ越してきた時に、園長と一緒に来てくれて。それが久しぶりの再会だった。女子大生で僕より年下なのに、しっかりしてるっていうか何と言うか。何故か僕はいつも怒られてる」
そう言ってふっと笑った。彼女の気持ちを春日井さんは知っているのだろうか。あの真っ直ぐで何の汚れもない瞳を思い出す。羨ましくて妬ましいとさえ思った。
「妹がいたら、あんな感じなのかな」
春日井さんの口から出た”妹”という言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。それは、その言葉に咄嗟に安堵したからだ。春日井さんといると、今まで知らずにいた自分を目の当たりにさせられる。
隣にいたいと思う。ただ、それだけでいい。絶対に触れてもらうことはなくても、女として見てもらえなくても、傍にいたいと強く願ってしまう。どんなに苦しくても、こうして二人でいられることが幸せで、締め付けられるほどに心が震える。
春日井さん。私も、狡い人間だったみたいです――。
隣に座る春日井さんの横顔を見つめる。この気持ちは隠し通すから傍にいさせてと、卑怯で狡い願いを持つ。軽薄な自分は隠したままにして。
他に誰も愛せないのなら、せめて傍にいるのは私でありたい――。
璃子さんの気持ちを知りながら、こんなことを思う。まだ樹と私の状況さえ春日井さんに伝えられずにいる。樹との別れも曖昧なままで、卑怯で狡いその感情すべてが罪だった。
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