65 / 154
第五章 神立
六
しおりを挟む音沙汰のなかった樹が、私の前に現れた。それは、土曜日の夕方、激しい雨が降る日だった。
「樹……」
図書館に行った帰りに少し買い物をして帰って来た。玄関の前に樹が立っているのを見た時、かつては全てを許した人なのに、身体全身で身震いを感じた。
「ちゃんと話をしようと思って来たんだ。別れるにしても、あのままじゃ終われない。俺たちは七年も一緒にいた。恋人である前に姉弟でもある。ちゃんと、俺の中でケリを付けさせて」
冷静な表情と声。それでも、どうしても警戒心を解くことができない。つい先ほど、夕方から降り始めた叩きつけるような雨が私の傘に容赦なく落ちて来る。玄関の軒先でその雨を避けるように立つ樹を前に、足を一歩踏み出すことができない。
「……未雨、お願いだ。最後にちゃんと話したい」
その真っ直ぐに伸びる眉が歪む。傷付いたように細められた視線に私の心が痛む。これまで一緒にいた人。私の一番近くにいた人には変わりない。そして、あの家で一緒に育った家族でもある。私の心はぐらぐらに揺れていた。
――ドン。
遠くで何かが重く響いたと思ったら、次の瞬間激しい雷の音が空全体に響き渡った。これだけの激しい雨は、雷雨となって町全体を襲う。
「ここでは雨と雷の音で話せない。玄関先で構わないから、俺に時間をください。これでちゃんと最後にする。弟に戻るから」
別れたいと、自分の気持ちを一方的に押し付けただけでは完全には終われない。いつかは樹と向き合わなければならないのだ。
「……分かった」
私は一歩を踏み出し、軒先の下で傘を閉じる。ちゃんと、樹と終わりにしよう。心を決める。
春日井さんも暮らすこの家で、樹もおかしなことはしないだろう――。
私はそう思っていた。確かに、話の内容も、外で話せるようなものでもない。
「どうぞ――」
「いや、本当にここでいいよ」
玄関の扉を開けて中に促すと、樹が扉を後ろ手でしめてそう言った。
「未雨を不安にさせたくないんだ。未雨の部屋で二人きりになるより、ここの方が未雨も安心だろう?」
ここ最近見たこともない、優しげな目だった。それがまた私を切なくさせた。春日井さんが帰宅するまでに、あと一時間くらいはあるだろう。私は頷いて、玄関先で樹と腰掛けた。
「――未雨は、もう、本当に俺のところには戻って来るつもりはないんだよね?」
VネックのネイビーのTシャツの袖の部分が、濡れて濃くなっていた。私は樹の問いに頷く。
「こんな結果になったのは、偽装結婚したから? そうだとしたら、あまりに皮肉だな。二人が一緒にいるために決めたことなのに、それが別れの原因になったなんて」
樹が俯いた。
「それ以前の問題だったんだよ。あの時、私たちは違う道を選択することもできた。樹が、お母さんも家も捨てて私と生きて行くと言っていたら。私が樹にそうして欲しいと言っていたら。でも私たちはそうしなかった。樹も言わなかったし、私も樹にそうしてほしいと言わなかった。きっと、それがすべてだった」
だから――。
「これからは、それぞれの道を歩こう。孤独を埋め合う関係は、もう終わりにしよう」
「……孤独を、埋め合う?」
「うん。私たち、それぞれに寂しいって気持ちがあった。似た二人だったから、一緒にいれば安心で居心地が良かった。そうしていれば、打ち勝つべき孤独に向き合わずに済んだから」
そう気付かせてくれたのは、間違いなく春日井さんだ。自分の気持ちと向き合うこと、自分を肯定すること。そうすることで、前を向けること――。そんなことを全部、春日井さんが私に教えてくれた。何年も私たちは狭い世界から出ようとしなかった。でも人は狭い場所に居続けられない。どちらかが飛び出そうとした瞬間から、もうお互いの見ている物が変わってしまう。
「会うことはなくても私たちには姉弟という関係が残ってる。樹のこと、弟として遠くから応援してる」
「あはは……」
樹が突然、声を上げて笑い出した。
「はっきり言えよ。そんなもっともらしいことばっか言ってないでさ」
樹の乾いた笑い声と激しい雨の音が混じり合う。
「あいつのこと、好きになったんだろう? ただ、それだけなんだろう?」
その目に仄暗さが灯る。
「ちょうどいいことに、法律上は結婚までしているし? 俺を捨ててそのままこの家で二人で暮らして行けるもんなぁ」
皮肉めいた言葉に私は何も返せない。
「あいつには、絶対に終わらない想いがあるんだっけ? 一生違う女を想っているような男でいいって言うのか? それでも俺よりいいのか! 身体は手に入るかもしれない。でも、気持ちは一生未雨のものにならないんだぞ」
樹の叫びのような声に、私はじっと俯く。
「……ごめん」
結局、この言葉しか言えないなんて。
「ごめんてなんだよ。ふざけんな!」
樹が勢いよく立ち上がり私に大声を上げた。もう、冷静で落ち着いた樹はいなかった。全身から怒りを発していた。
「ごめん――」
「だめだよ。この前言っただろ? 俺は本気だって。未雨を手放したりしないって」
樹が私の胸倉を乱暴に掴み、無理矢理立ち上がらせる。
「樹……っ」
「許さない。許さない。許さない! あいつと二人で生きてくなんて、俺がそんなことさせるわけないだろう? 一体、何度俺を捨てれば気が済むの。未雨まで同じことしたら、俺、もう生きてけないだろ?」
「未雨までって、一体……」
じりじりと樹の手の指が私の喉に食い込んで来る。足が今にも宙に浮きそうになりながら、懸命に樹を見上げた。
「許さない。他の男のところに行くなんて、許さねーよ!」
「いやぁっ」
私を掴み上げていた手のひらをそのまま勢いよく振り上げ、私を玄関の扉に押し付けた。
「俺のところに戻ると言え。そうしたら、酷いことはしない」
「……言え、ない。言えないっ!」
玄関の木製の扉に身体を強く押さえつけられる。樹の方へと向けさせられた背中は、大きな手のひらで押さえこまれていた。ぐいぐいと押し込まれて、頬も首も軋むように痛い。それでも、もう、絶対に心と違うことは言いたくないと身体中が私に訴えて来る。
「どうしてっ!」
呻くようにそう言うと、樹が私の両手首を背中側で掴みきつく押さえつけた。それだけで、身体全体が身動き一つ取れなくなる。それでも身体全部を使って暴れて抵抗しようとした。
「樹、やめてっ――うっ……」
その時、わき腹に鈍痛のようなものを感じた。うずくまろうとしても樹の手がそうさせてもくれない。
「未雨が言うことを聞かないから悪いんだよ……?」
背中にぴたりと樹の身体が密着する。樹の生温い吐息が耳にかかる。殴られた痛みと恐怖から、声も出せない。
抵抗したら、殺されるかもしれない――。
脳裏に過った恐怖に身体が小刻みに揺れる。
「あの男の方がいいなんて言うから。言って分からないなら身体に教えないといけないよ」
耳元で囁かれる地獄から這い上がって来たような声に、唇が震える。
「絶対に、未雨は俺から逃れられないんだってことをね」
「い……」
玄関扉に私の身体を押さえつけ、もう片方の手でスカートを乱暴にたくし上げた。樹の本気の力を前にしたら、いかに自分が無力なのかを思い知る。恐怖が身体を駆け巡る。
「お、ねが……、いつ……っ」
自分では必死に声を上げようとしているのに、思っているように声にならない。後ろに首をひねるようにして必死に樹に訴えても、樹の目はもうどこを見ているのかも分からない。ただ力任せに私を扉に押さえつけ、力づくで私の脚を開かせた。
こんな場所で――。
いつ春日井さんが帰って来るのか分からない。扉の向こうの激しい雨が、私の弱々しい声なんて掻き消してしまう。
「お、ねが……や、っ」
こんな姿知られたくない。涙混じりに樹を見上げても、その目は余計に怒りを滲ませる。一度手をあげてしまった樹にとって、もう彼を押し止めるものなんてないみたいに。ほとんど暴力をふるっているのと変わらない行為を、私にぶつけて来る。耳元、首筋に這いずり回るぬるりとした舌の感触。引きちぎるみたいに胸のふくらみを掴み、もみくちゃにする。ショーツがずり下ろされたと同時にそこに樹のものが押し付けられた。そのままそれが入ってこようとして、私は息を飲んだ。
「いやっ……!」
そのまま――。そんなことされたら――っ。
無意味だと分かっていながら、逃れようと玄関の扉に貼り付く。それでも腰を強い力で固定されて、男の力でねじ込まれれば成す術なんてない。
「未雨……っ、きついから、早く濡れろよ。あんなに、あっという間に濡らしていた、くせに……っ。あっ――」
悲鳴にもならない呻きの横で、樹が荒い呼吸を繰り返した。もう、樹には私の声なんて届かない。これは自分じゃないと言い聞かせて、時が過ぎるのを待つくらいしか私には残された道はない。でも、涙が溢れて仕方ない。
お願いです。どうか、せめて、春日井さんの足を止めて――。
降りしきる雨に、ただ祈る。
なのに――。
――ドドドド。
雷の轟く音が足音を連れて来る。押し付けられた扉の向こうから、激しい雨音の中、足音が聞こえて目を見開いた。
0
あなたにおすすめの小説
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる