雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第五章 神立

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 音沙汰のなかった樹が、私の前に現れた。それは、土曜日の夕方、激しい雨が降る日だった。

「樹……」

図書館に行った帰りに少し買い物をして帰って来た。玄関の前に樹が立っているのを見た時、かつては全てを許した人なのに、身体全身で身震いを感じた。

「ちゃんと話をしようと思って来たんだ。別れるにしても、あのままじゃ終われない。俺たちは七年も一緒にいた。恋人である前に姉弟でもある。ちゃんと、俺の中でケリを付けさせて」

冷静な表情と声。それでも、どうしても警戒心を解くことができない。つい先ほど、夕方から降り始めた叩きつけるような雨が私の傘に容赦なく落ちて来る。玄関の軒先でその雨を避けるように立つ樹を前に、足を一歩踏み出すことができない。

「……未雨、お願いだ。最後にちゃんと話したい」

その真っ直ぐに伸びる眉が歪む。傷付いたように細められた視線に私の心が痛む。これまで一緒にいた人。私の一番近くにいた人には変わりない。そして、あの家で一緒に育った家族でもある。私の心はぐらぐらに揺れていた。

――ドン。

遠くで何かが重く響いたと思ったら、次の瞬間激しい雷の音が空全体に響き渡った。これだけの激しい雨は、雷雨となって町全体を襲う。

「ここでは雨と雷の音で話せない。玄関先で構わないから、俺に時間をください。これでちゃんと最後にする。弟に戻るから」

別れたいと、自分の気持ちを一方的に押し付けただけでは完全には終われない。いつかは樹と向き合わなければならないのだ。

「……分かった」

私は一歩を踏み出し、軒先の下で傘を閉じる。ちゃんと、樹と終わりにしよう。心を決める。

春日井さんも暮らすこの家で、樹もおかしなことはしないだろう――。

私はそう思っていた。確かに、話の内容も、外で話せるようなものでもない。

「どうぞ――」
「いや、本当にここでいいよ」

玄関の扉を開けて中に促すと、樹が扉を後ろ手でしめてそう言った。

「未雨を不安にさせたくないんだ。未雨の部屋で二人きりになるより、ここの方が未雨も安心だろう?」

ここ最近見たこともない、優しげな目だった。それがまた私を切なくさせた。春日井さんが帰宅するまでに、あと一時間くらいはあるだろう。私は頷いて、玄関先で樹と腰掛けた。

「――未雨は、もう、本当に俺のところには戻って来るつもりはないんだよね?」

VネックのネイビーのTシャツの袖の部分が、濡れて濃くなっていた。私は樹の問いに頷く。

「こんな結果になったのは、偽装結婚したから? そうだとしたら、あまりに皮肉だな。二人が一緒にいるために決めたことなのに、それが別れの原因になったなんて」

樹が俯いた。

「それ以前の問題だったんだよ。あの時、私たちは違う道を選択することもできた。樹が、お母さんも家も捨てて私と生きて行くと言っていたら。私が樹にそうして欲しいと言っていたら。でも私たちはそうしなかった。樹も言わなかったし、私も樹にそうしてほしいと言わなかった。きっと、それがすべてだった」

だから――。

「これからは、それぞれの道を歩こう。孤独を埋め合う関係は、もう終わりにしよう」
「……孤独を、埋め合う?」
「うん。私たち、それぞれに寂しいって気持ちがあった。似た二人だったから、一緒にいれば安心で居心地が良かった。そうしていれば、打ち勝つべき孤独に向き合わずに済んだから」

そう気付かせてくれたのは、間違いなく春日井さんだ。自分の気持ちと向き合うこと、自分を肯定すること。そうすることで、前を向けること――。そんなことを全部、春日井さんが私に教えてくれた。何年も私たちは狭い世界から出ようとしなかった。でも人は狭い場所に居続けられない。どちらかが飛び出そうとした瞬間から、もうお互いの見ている物が変わってしまう。

「会うことはなくても私たちには姉弟という関係が残ってる。樹のこと、弟として遠くから応援してる」
「あはは……」

樹が突然、声を上げて笑い出した。

「はっきり言えよ。そんなもっともらしいことばっか言ってないでさ」

樹の乾いた笑い声と激しい雨の音が混じり合う。

「あいつのこと、好きになったんだろう? ただ、それだけなんだろう?」

その目に仄暗さが灯る。

「ちょうどいいことに、法律上は結婚までしているし? 俺を捨ててそのままこの家で二人で暮らして行けるもんなぁ」

皮肉めいた言葉に私は何も返せない。

「あいつには、絶対に終わらない想いがあるんだっけ? 一生違う女を想っているような男でいいって言うのか? それでも俺よりいいのか! 身体は手に入るかもしれない。でも、気持ちは一生未雨のものにならないんだぞ」

樹の叫びのような声に、私はじっと俯く。

「……ごめん」

結局、この言葉しか言えないなんて。

「ごめんてなんだよ。ふざけんな!」

樹が勢いよく立ち上がり私に大声を上げた。もう、冷静で落ち着いた樹はいなかった。全身から怒りを発していた。

「ごめん――」
「だめだよ。この前言っただろ? 俺は本気だって。未雨を手放したりしないって」

樹が私の胸倉を乱暴に掴み、無理矢理立ち上がらせる。

「樹……っ」
「許さない。許さない。許さない! あいつと二人で生きてくなんて、俺がそんなことさせるわけないだろう? 一体、何度俺を捨てれば気が済むの。未雨まで同じことしたら、俺、もう生きてけないだろ?」
「未雨までって、一体……」

じりじりと樹の手の指が私の喉に食い込んで来る。足が今にも宙に浮きそうになりながら、懸命に樹を見上げた。

「許さない。他の男のところに行くなんて、許さねーよ!」
「いやぁっ」

私を掴み上げていた手のひらをそのまま勢いよく振り上げ、私を玄関の扉に押し付けた。

「俺のところに戻ると言え。そうしたら、酷いことはしない」
「……言え、ない。言えないっ!」

玄関の木製の扉に身体を強く押さえつけられる。樹の方へと向けさせられた背中は、大きな手のひらで押さえこまれていた。ぐいぐいと押し込まれて、頬も首も軋むように痛い。それでも、もう、絶対に心と違うことは言いたくないと身体中が私に訴えて来る。

「どうしてっ!」

呻くようにそう言うと、樹が私の両手首を背中側で掴みきつく押さえつけた。それだけで、身体全体が身動き一つ取れなくなる。それでも身体全部を使って暴れて抵抗しようとした。

「樹、やめてっ――うっ……」

その時、わき腹に鈍痛のようなものを感じた。うずくまろうとしても樹の手がそうさせてもくれない。

「未雨が言うことを聞かないから悪いんだよ……?」

背中にぴたりと樹の身体が密着する。樹の生温い吐息が耳にかかる。殴られた痛みと恐怖から、声も出せない。

抵抗したら、殺されるかもしれない――。

脳裏に過った恐怖に身体が小刻みに揺れる。

「あの男の方がいいなんて言うから。言って分からないなら身体に教えないといけないよ」

耳元で囁かれる地獄から這い上がって来たような声に、唇が震える。

「絶対に、未雨は俺から逃れられないんだってことをね」
「い……」

玄関扉に私の身体を押さえつけ、もう片方の手でスカートを乱暴にたくし上げた。樹の本気の力を前にしたら、いかに自分が無力なのかを思い知る。恐怖が身体を駆け巡る。

「お、ねが……、いつ……っ」

自分では必死に声を上げようとしているのに、思っているように声にならない。後ろに首をひねるようにして必死に樹に訴えても、樹の目はもうどこを見ているのかも分からない。ただ力任せに私を扉に押さえつけ、力づくで私の脚を開かせた。

こんな場所で――。

いつ春日井さんが帰って来るのか分からない。扉の向こうの激しい雨が、私の弱々しい声なんて掻き消してしまう。

「お、ねが……や、っ」

こんな姿知られたくない。涙混じりに樹を見上げても、その目は余計に怒りを滲ませる。一度手をあげてしまった樹にとって、もう彼を押し止めるものなんてないみたいに。ほとんど暴力をふるっているのと変わらない行為を、私にぶつけて来る。耳元、首筋に這いずり回るぬるりとした舌の感触。引きちぎるみたいに胸のふくらみを掴み、もみくちゃにする。ショーツがずり下ろされたと同時にそこに樹のものが押し付けられた。そのままそれが入ってこようとして、私は息を飲んだ。

「いやっ……!」

そのまま――。そんなことされたら――っ。

無意味だと分かっていながら、逃れようと玄関の扉に貼り付く。それでも腰を強い力で固定されて、男の力でねじ込まれれば成す術なんてない。

「未雨……っ、きついから、早く濡れろよ。あんなに、あっという間に濡らしていた、くせに……っ。あっ――」

悲鳴にもならない呻きの横で、樹が荒い呼吸を繰り返した。もう、樹には私の声なんて届かない。これは自分じゃないと言い聞かせて、時が過ぎるのを待つくらいしか私には残された道はない。でも、涙が溢れて仕方ない。

お願いです。どうか、せめて、春日井さんの足を止めて――。

降りしきる雨に、ただ祈る。

なのに――。

――ドドドド。

雷の轟く音が足音を連れて来る。押し付けられた扉の向こうから、激しい雨音の中、足音が聞こえて目を見開いた。

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