雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第五章 神立

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 微かに朝が動き出した音がする。春日井さんが目覚めて、洗面室に行って、キッチンに行って簡単な朝食の準備をする。決まりきったサラダ、それでも野菜を取るようになったのだから大進歩。そしてブラックコーヒーとトースト。それを前にして、新聞を片手に朝食を食べている。見なくても分かる。ここで暮らし始めて、一緒に生活をして、それが日常になっていた。
 ベッドの中で、春日井さんの立てる生活音を聴く。それだけでこんなにも想いが溢れて何かが込み上げて来る。何度も寝返りを打った。そのたびに身体が軋むような痛みが、私を現実へと引き戻す。

 どうしてもダイニングに向かうことが出来なかった。ぎこちない視線や態度を向けられたらーーそう思うと、春日井さんと顔を合せるのが怖い。

 玄関の扉が閉まる音がして、家の中が静かになった。痛む場所を手で押さえながら、なんとかベッドから這い出る。のそのそと身体を引きずるようにダイニングへと向かった。縁側の先に見える庭には、前日とうってかわって燦々と太陽が降り注いでいた。
 ダイニングテーブルの上に、ラップがかかった皿が置かれているのに気付く。そして、その皿の横に、メモ用紙みたいなものもあった。

「これ……」

その紙きれを手に取る。

”朝食、多く作り過ぎてしまいました。捨てるのは勿体ないので、食べてください。卵焼き、君みたいにうまく焼けなかったから、味は少し我慢してください”

――捨てるのは勿体ない。

私がこの家に来て、春日井さんの不健康な朝食が気になって、初めてサラダを食べてもらった日。その時に私が言った言葉と同じものだ。

春日井さんが卵焼きなんて作っているのを見たことないのに――。

ラップの下にあるいびつな形をした卵焼きに、思わず笑ってしまう。笑っているつもりなのに目の前の光景が滲みだす。

”――何か、辛い目に遭っているのなら”

その手紙の続きに、思わず口元を手で覆う。それでも、その隙間から嗚咽が漏れ出す。

”一人で抱え込まないで。君は一人じゃない。『仮』でも『偽装』でも、今は君の夫だ。
君の力になりたいと思ってる。微力だとしても、一緒に解決策を考えることなら出来る。君は必ず幸せになれる。と言うか、なってもらわないと困る。だから、勝手に一人で暗闇に戻って行ってはためだよ”

――君は必ず幸せになれる。

何を根拠に言っているの? 

無責任なその言葉に心が掻き乱される。

「なってもらわないと困るって、何ですか……」

輪郭の丸い文字が私の中に入り込んで行く。涙の味と鼻水で、サラダも卵焼きの味も掻き消されてしまった。なのに、たまらなく優しい味がした。



「朝ごはん、ありがとうございました」

仕事から帰った春日井さんに、開口一番そう言った。

「あぁ、美味しくなかっただろう?」

ぎこちなく笑う春日井さんに、真っ直ぐに伝える。

「いえ。あの卵焼きが、私に勇気をくれました」

辛くても、生きて行く。どんなに難しくても、闇から這い出ることを諦めない――。

「……そう」

春日井さんがどこかホッとしたように微笑んだ。結局、私の胸を締め付けるのも温かくするのも春日井さんだ。

「私、頑張ろうって決めました。自分で自分を諦めるのをやめます」

これまで、自分を信じることが出来なかった。誰にも気に留められずに育ったから、誰かに必要とされることだけが、自分の存在を認められる唯一の証だと思っていた。樹に執着されていることを必要とされていると思うことで、自分を安心させて。不都合な現実から逃げて、考えるのをやめていた。でも、誰にも必要とされなくても、自分を立たせることのできる強さを持ちたい。そうすることで、私はきっと変われる。

「……君は、大丈夫なのか?」

その目は不安げに私を見ている。

「はい。とりあえずは、自分のことは自分できちんと解決したいと思っています」

そうしなければ、きっと私は一生自分に自信を持てないままだ。

「本当に困った時は助けを求めます。でも、まずは自分で向き合いたいんです」
「そうか……。分かった」

心配そうに私を見つめながらも、頷いてくれた。

「春日井さん」

私は、真っ直ぐにその目を見つめる。

「ん?」
「その代り、今度、春日井さんに聞いてもらいたいことがあるんです。聞いてもらえますか」

前髪の隙間からのぞく目は、やはりどこか不安げだ。

「今じゃ、だめなの?」
「すみません。きちんと整理してけじめをつけてから、お話したいんです。いいですか?」

樹とはもう会わない。きちんと終わりにしてから、春日井さんに伝えたい。春日井さんには、伝えなければならない。

「分かった」

その目が、少し切なげに見えたのは何故だろう。でも、とにかく自分を奮い立たせるのに精いっぱいで、その目が訴えるものに深く意識を向けることが出来なかった。

もう、樹にどんなに引き戻されそうになっても絶対に屈したりしない――。

そうすることが、最善だと私は思っていた。



 
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