68 / 154
第五章 神立
九
しおりを挟む微かに朝が動き出した音がする。春日井さんが目覚めて、洗面室に行って、キッチンに行って簡単な朝食の準備をする。決まりきったサラダ、それでも野菜を取るようになったのだから大進歩。そしてブラックコーヒーとトースト。それを前にして、新聞を片手に朝食を食べている。見なくても分かる。ここで暮らし始めて、一緒に生活をして、それが日常になっていた。
ベッドの中で、春日井さんの立てる生活音を聴く。それだけでこんなにも想いが溢れて何かが込み上げて来る。何度も寝返りを打った。そのたびに身体が軋むような痛みが、私を現実へと引き戻す。
どうしてもダイニングに向かうことが出来なかった。ぎこちない視線や態度を向けられたらーーそう思うと、春日井さんと顔を合せるのが怖い。
玄関の扉が閉まる音がして、家の中が静かになった。痛む場所を手で押さえながら、なんとかベッドから這い出る。のそのそと身体を引きずるようにダイニングへと向かった。縁側の先に見える庭には、前日とうってかわって燦々と太陽が降り注いでいた。
ダイニングテーブルの上に、ラップがかかった皿が置かれているのに気付く。そして、その皿の横に、メモ用紙みたいなものもあった。
「これ……」
その紙きれを手に取る。
”朝食、多く作り過ぎてしまいました。捨てるのは勿体ないので、食べてください。卵焼き、君みたいにうまく焼けなかったから、味は少し我慢してください”
――捨てるのは勿体ない。
私がこの家に来て、春日井さんの不健康な朝食が気になって、初めてサラダを食べてもらった日。その時に私が言った言葉と同じものだ。
春日井さんが卵焼きなんて作っているのを見たことないのに――。
ラップの下にあるいびつな形をした卵焼きに、思わず笑ってしまう。笑っているつもりなのに目の前の光景が滲みだす。
”――何か、辛い目に遭っているのなら”
その手紙の続きに、思わず口元を手で覆う。それでも、その隙間から嗚咽が漏れ出す。
”一人で抱え込まないで。君は一人じゃない。『仮』でも『偽装』でも、今は君の夫だ。
君の力になりたいと思ってる。微力だとしても、一緒に解決策を考えることなら出来る。君は必ず幸せになれる。と言うか、なってもらわないと困る。だから、勝手に一人で暗闇に戻って行ってはためだよ”
――君は必ず幸せになれる。
何を根拠に言っているの?
無責任なその言葉に心が掻き乱される。
「なってもらわないと困るって、何ですか……」
輪郭の丸い文字が私の中に入り込んで行く。涙の味と鼻水で、サラダも卵焼きの味も掻き消されてしまった。なのに、たまらなく優しい味がした。
「朝ごはん、ありがとうございました」
仕事から帰った春日井さんに、開口一番そう言った。
「あぁ、美味しくなかっただろう?」
ぎこちなく笑う春日井さんに、真っ直ぐに伝える。
「いえ。あの卵焼きが、私に勇気をくれました」
辛くても、生きて行く。どんなに難しくても、闇から這い出ることを諦めない――。
「……そう」
春日井さんがどこかホッとしたように微笑んだ。結局、私の胸を締め付けるのも温かくするのも春日井さんだ。
「私、頑張ろうって決めました。自分で自分を諦めるのをやめます」
これまで、自分を信じることが出来なかった。誰にも気に留められずに育ったから、誰かに必要とされることだけが、自分の存在を認められる唯一の証だと思っていた。樹に執着されていることを必要とされていると思うことで、自分を安心させて。不都合な現実から逃げて、考えるのをやめていた。でも、誰にも必要とされなくても、自分を立たせることのできる強さを持ちたい。そうすることで、私はきっと変われる。
「……君は、大丈夫なのか?」
その目は不安げに私を見ている。
「はい。とりあえずは、自分のことは自分できちんと解決したいと思っています」
そうしなければ、きっと私は一生自分に自信を持てないままだ。
「本当に困った時は助けを求めます。でも、まずは自分で向き合いたいんです」
「そうか……。分かった」
心配そうに私を見つめながらも、頷いてくれた。
「春日井さん」
私は、真っ直ぐにその目を見つめる。
「ん?」
「その代り、今度、春日井さんに聞いてもらいたいことがあるんです。聞いてもらえますか」
前髪の隙間からのぞく目は、やはりどこか不安げだ。
「今じゃ、だめなの?」
「すみません。きちんと整理してけじめをつけてから、お話したいんです。いいですか?」
樹とはもう会わない。きちんと終わりにしてから、春日井さんに伝えたい。春日井さんには、伝えなければならない。
「分かった」
その目が、少し切なげに見えたのは何故だろう。でも、とにかく自分を奮い立たせるのに精いっぱいで、その目が訴えるものに深く意識を向けることが出来なかった。
もう、樹にどんなに引き戻されそうになっても絶対に屈したりしない――。
そうすることが、最善だと私は思っていた。
0
あなたにおすすめの小説
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる