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第五章 神立
八
しおりを挟むひりつく身体に、無理やり冷水を浴びせかける。このシャワーの水で全部洗い流せたら、どんなにいいだろう。でも、そんなことできやしない。
これまでずっと、この身体は樹のものだった。そう、”モノ”だった。激しく身体をはじくしぶきと一緒に涙も流し尽くす。
何時になったのだろう。自分の部屋で、ただじっと息をひそめるように身体を丸くして座っていた。窓にはまだ雨の跡が残っている。重い身体は鉛のようで、のろりと顔を少し上げれば、部屋の時計は深夜一時三十分を過ぎたところだった。
春日井さん、ここはあなたの家なのに、ごめんなさい――。
固く目を瞑る。
ガタガタガタと激しい音が玄関から聞こえて来た。その音は、深夜の家の中で悲鳴のように響く。
会うのが怖いはずなのに、部屋を飛び出していた。小さな窓から漏れる光だけが頼りの玄関に、一つの人影を見つける。背中を丸めて玄関先に倒れ込んでいた。
「か、春日井さん……っ」
思わず駆け寄る。その身体からは酷いアルコールの匂いがした。
――酒は飲まないようにしてる。
そう言っていたのに。不自然なほどの陽気な声がした。
「あ、ああ、糸原さん。起こしちゃった? ごめん、ごめん」
「大丈夫ですか?」
ガタンと身体をどこかにぶつけたような音がした。
「明かり――」
咄嗟に、電気をとスイッチに手を伸ばした時、遮るような声が飛んで来た。
「明かりはつけないで。大丈夫、だから。このまま、部屋に戻るよ――」
「でも、すごく酔ってるみたい。足元ふらふらなんじゃないですか?」
「平気、平気」
私を見ずに身体を起こしたそばから、足がふらついたのか春日井さんが膝をつく。咄嗟にその肩に触れようとした。でも、触れられなかった。私なんかが触れてはいけない気がした。暗がりでも分かる。春日井さんのシャツは湿っていた。
「転んじゃいますよ」
「お願いだ。明かりはつけないで」
窓から射してくる月の明かりの筋が、俯く春日井さんの横顔を浮き上がらせる。
「春日井さん……っ」
乱れた前髪、苦痛に歪んだ目――。
理由も分からないのに、その表情を見ただけでたまらなくなった。
「春日井さんに、不快な思いをさせました。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
苦しくてじっと唇を噛みしめる。
「どうして君が謝る? 僕は、君に謝られるようなことは何もされてないよ」
「春日井さん、ごめんなさい……」
「僕は何も知らないよ」
薄暗い玄関で、その声だけは際立って優しく囁かれた。
どうして――。
嫌味の一言くらい言ったっていいのに。
私に気を遣わせないため?
気まずくならないため?
それとも、本当に、何とも思っていないから?
どちらにしても、苦しい。
「今日は同僚に無理やり飲みに連れて行かれてさ。酒なんて初めて飲んだから、適度な量とか分からなくて。参ったよ――」
「ごめん、なさ……っ」
私が泣くのは間違ってるのに、溢れるものを抑えられない。こんな時まで優しい声を聞けば聞くほど止まらなくなって、思いっきり身体を逸らした。明かりをつけないままで、むしろ助かったのは私かもしれない。
「糸原、さん……泣いてるの……?」
それなのに、春日井さんは気付かないままでいてくれない。お互い表情を知らないまま、二人の間に張り詰めた空気が生まれる。
「本当に、ごめんなさい」
それしか言えない。何かを喋ろうとすればバレてしまう。未だ悪足掻きをする頭上に、いきなり明かりが点いた。点けないでくれと言ったのは春日井さんなのに、自らそのスイッチを押した。
「……どうしたの?」
無理矢理私の顔を覗き込み、一瞬言葉を失った後、唇の端から漏れ出てしまったような声を発した。
「どうして、泣いてる? 僕は何も気にしていないよ。君たちは恋人同士だ。それに、この家に来てもいいと言ったのは僕だ。そりゃあ、ちょっとは驚いたけど、でも――」
焦ったように捲し立てている。やっぱり、気付いていたのだ。私は何度も何度も頭を横に振った。
「じゃあ、どうして泣いてる?」
抵抗しても嫌だと思っても、結局私は樹に抱かれたのだ。そんな風に優しくされるような女じゃない。これ以上、汚い自分を見られたくなくて、春日井さんに背を向けた。
「……糸原さん?」
声音が突然変わった春日井さんの声が、背後から飛んで来た。
「君、何か、あったの? 何か、酷いこと――」
その声に思わず振り返る。春日井さんの悲壮感漂う顔が間近にある。その視線が、私の首筋に向けられているのに気付いた。咄嗟に首筋を手で隠す。そこには、噛み付かれた傷と、そして抱かれた跡がある。そんなもの、春日井さんに見られたくなかった。
「……それ、明らかに傷だ。君は泣いているし、身体も震えてる。もしかして、彼に何か――」
春日井さんから伸ばされた手のひらに、心臓が激しく動く。春日井さんの手のひらが震えているのか、私が震えているのか分からない。私の頬に伝う涙を拭おうと伸ばした春日井さんの指が止まる。その指は、結局私のどこにも触れずに戻って行った。
「ごめんなさい。本当に、今日はすみませんでした!」
春日井さんが私に触れるはずもない。絶対に、触れたりしない。醜い私に触れたりしない――。
私は、その場から逃げ出した。
薄暗いままの自分の部屋で突っ伏す。この闇から抜け出すことは出来るのだろうか。
そんなこと、許されるのだろうか――。
この先一生、沼のような闇から這い出ることができないのなら。どうせこんなちっぽけで汚らわしい身体だ。無くなってしまえばいい。
いっそ、このまま――。
部屋にある机の引き出しを漁り、カッターナイフを掴む。床の上に座り込み、手首を晒す。その手首にさえ、樹に強く掴まれた跡が残っている。歯を食いしばる。目を固く閉じて、そのまま刃を手首に当てればいい――。
「……っ」
出来ない――。
投げつけたカッターナイフが床の上で一度跳ね上がる。震える身体を丸める。死ぬことも出来ないのだ。きっと、樹という闇からは抜けられない。だからと言って心を捨ててその闇の中で生きて行くこともできない。それならいっそ、すべてなかったことにしたいと思うのに。
春日井さんは酷い――。
抱き締めてもらうことも、触れてもらうことさえできないのに、こんなにも春日井さんのことで一杯で。
春日井さんに会えなくなるくらいならどんなに辛い現実でも生きていたい。その想いが、私を思い止まらせてしまう。
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