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第五章 神立
十一
しおりを挟むそれからすぐのことだ。仕事から帰宅して、玄関の扉を開けた時だった。
「ただいま――」
「どうして君は、彼女を大切にしない? 糸原さんが、ずっと孤独を抱えて生きていたこと、彼女のそばにいたのなら分かっているだろう。どうして大切にしてあげないんだ」
耳に届いた声の大きさに驚く。
誰が来てるの――?
恐る恐る家の中へと入る。
「この前、君はここに来たな? 糸原さんは泣いてたよ。どうして、泣かせるようなことをする? 彼女を大切に出来る立場にいるのに、どうして。あんな顔させるなよ。もっと、大事にしろよ。幸せにしてやれよ!」
こんなにも怒りをあらわにした春日井さんの声を聞いたことはない。春日井さんだとは信じられない。
「やっぱり、あんた、気付いていたんだ。それなら分かるだろ? 未雨と俺は愛し合っていたんだ。あんたは知らないだろうけど、未雨は、抱き合う時だけ表情も声も性格も淫らに変わる。俺の身体に溺れているから、未雨は結局俺から離れられない。」
居間で、向き合う二人の姿に呼吸を忘れる。
どうして、また、ここに樹が――。
身体が震え出す。
「俺たちは、何度も何度もヤリまくって、ヤリまくって、高校生の時からずっと、そうやって未雨の身体は俺に順応して、すぐに濡らす身体になってる」
やめて――。
耳を塞ぐのに、樹の畳みかけるような声が鼓膜に貼り付いて消えない。
「普段はあんな風に物静かな顔してるけど、本当の未雨は、どうしようもなく淫乱だ」
「そんな言い方はやめろ……」
「イヤイヤって、言いながら自分から腰を押しつけて、最後は俺に懇願する。お願い、シてって――」
お願いだから、やめて――。
「やめろ!」
春日井さんの叫びが、胸を貫く。足元から震えが伝って、身体中を硬直させる。
「君の大切な人だろう。そんなことを、他の男に言ったりするな」
春日井さんの掠れた声が、硬直した私の身体をさらに締め付ける。
「こんなこと言わなきゃなんないのも、あんたのその薄汚い欲求のせいだろ?」
「なんだと?」
「その聖人君子ぶった顔の裏で、未雨が欲しくて欲しくてたまらないんだろう。再会した未雨が、もう俺のものになっていた。それでも欲しくて、偽装結婚なんて提案して。あわよくばって、そう思っていたんだろう!」
「もう、やめて!」
唇はまだ震えたままなのに、私は、目一杯叫んでいた。
「――糸原、さん」
振り向いた春日井さんの表情は、瞬きも忘れるほどに目を開いていた。
「未雨……」
春日井さんの向こうに、佇む樹の姿がある。
「春日井さんを侮辱するようなこと言わないで!」
春日井さんがそんな言われようをする必要なんてない。この人が、どれだけ誠実でどれだけ深い悲しみと想いを持っているのか。そんな春日井さんを侮辱する樹が許せない。
「未雨……未雨、一緒に行こう。迎えに来たんだ」
樹が噛み合わない不気味な笑みを浮かべる。そこにいたのは、もう私の知っている樹じゃない。
「こんなところにいちゃダメなんだ。こんなところにいたから未雨は変わっちゃったんだよな。俺と一緒に行こう。未雨だって、本当はそう言ってほしかったんだよな」
樹が私へと近付いて来る。強張る身体は、壊れたロボットのようにカチコチと後ずさる。
「い、や……っ.。こ、ないで――」
「どうしてそんな顔するの。どうして逃げるんだ。俺から絶対に逃げないって言っただろう?」
その目はもう完全に正気を失っていた。
「どうしても分からないって言うんなら、仕方ない――っ」
その手に刃物を持っているのに気付いた時には、恐怖で一歩も身体が動かなかった。
「いや……っ!」
その刃物が自分目がけて突進して来るのが分かった時には、腕で頭を隠しただ固く目を閉じることしか出来なかった。どうしてこういう時、人の身体というのは無力なのだろう。
「……うっ」
え――。
自分の身体のどこにも痛みはないのに、この部屋の空気を切り裂くような呻き声が響く。この瞼を開くと、私の目の前でうずくまる春日井さんの姿が飛び込んで来た。
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