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第五章 神立
十三
しおりを挟むそれから二日が経った頃だった。
(未雨を殺して、俺も死のうと思ったのに。あいつにそれも邪魔された。どうせ、あいつは死んでないんだろう。もう、いいよ。未雨、別れてあげる。さよなら)
そのメッセージが届いた数日後には、継母からの留守電が入っていた。
(少し疲れてはいるみたいだけど、樹がちゃんと帰って来てくれた。先日は突然訪ねたりしてごめんなさい。春日井さんにも謝っておいて)
その声を聞いた時、無意識のうちに大きく息を吐いていた。
これで、終わったんだ。全部、終わった――。
「ただいま」
スマホを握り締めていると、玄関の方から春日井さんの声がした。
「おかえりなさい。今日は、傷口どうでしたか? 痛みませんでした?」
「ああ、大丈夫。だから、もうそんな顔しないで」
優しい眼差しが降って来る。
「毎日毎日、そんな風に申し訳なさそうにされたら、余計にいたたまれないんだけど」
「でも――」
「"でも"も禁止。いいね?」
「――はい」
仕方なくそう言うけれど、やはりそれでは自分の気が済まない。
「でも、せめて、何か私に出来ることを――」
「また、"でも"だ」
「ごめんなさい」
謝る私に、春日井さんが笑う。ここのところ、春日井さんと過ごした時間が長いからだろうか。以前よりずっと春日井さんを近くに感じる。それに幸せを感じてしまう自分がいる。あんなに悲惨な事が起きたのに、こうして笑う自分がいる。それは全部、ひたすらに明るく何もなかったかのように振る舞う春日井さんのお陰だ。
「春日井さん」
「ん?」
笑いの余韻の残る表情で私を見る。
「この前、春日井さんに話したいことがあると言ったんですけど、覚えていますか?」
「ああ、覚えてるよ」
その表情から、笑みが消える。
「その話、今日、してもいいですか……?」
春日井さんが頷いた。
夜になっても気温が下がらなくなって来た。居間では古いエアコンが煩い音を立てながら稼働している。居間のソファに向いあって座る私たちの間に、エアコンの不規則な雑音と蝉の泣き声が横たわっていた。
「今回のことは、本当に申し訳ありませんでした。樹は、警察に突き出されても文句は言えません。それなのに、結局すべてを春日井さんに収めてもらうことになって。本当に、ご迷惑をおかけしました」
もう謝罪はいらないと言われても、改めてお詫びをしたいと思っていた。深く頭を下げる。
「だから、もういいよ。僕が勝手にしたことだ。君にそんな風に負い目を感じてほしくてしたことじゃない」
春日井さんの焦ったような声が耳に届く。
「ありがとうございました」
頭を上げ、春日井さんにそう告げる。お詫びではなくお礼の言葉に変えると、春日井さんが苦笑した。
「お礼もいらないよ」
そんな春日井さんを見つめながら、そっと息を吐く。伝えなければと思っていたこと――それを口にするために、少し緊張した呼吸を整える。
「――それで、話というのは、春日井さんにご報告したいことがあって」
「報告……?」
訝し気な声が私の緊張を余計に増長させる。すべての根本を覆すようなことを言おうとしている。複雑に絡まった躊躇いを振り払い、春日井さんを真っ直ぐに見た。
「はい。私、樹との関係を終わりにしました。戸籍上の姉弟という関係以外、もう何もありません。春日井さんには、偽装の結婚までしてもらってこれだけ巻き込んでしまったのに、こういう結果になったこと、本当に申し訳ないです」
「それは、今回のことが原因?」
私が再び頭を下げようとした時、悲壮感に満ちた声が私の動きを止める。
「それは違います! もうずっと考えていたことです。私が至らないせいで、こんなにもこじらせてしまった。春日井さんに怪我までさせて。きちんと別れられなかった私に責任があります。本当にごめんなさい」
少しの間の後、春日井さんがぽつりと言った。
「この結婚は、僕にもメリットがあってしたことだ。でも、君にも利益があると思ったから提案した。それなのに、こんな結婚をしてしまったがために、二人の関係を壊したんだとしたら……」
目を伏せた春日井さんが、深く息を吐く。
「それも違います。きっかけではあったかもしれませんが、原因じゃない。そもそも最初から私たちの関係には無理がありました。遅かれ早かれ終わりを迎えたか、そうでなければ、私が完全に壊れていた」
春日井さんと一緒に暮らすようになって、私は知った。一点しか見ることの出来なかった自分が、違う角度から物を見ることができるようになった。そうやって気付くことが出来たのだ。
「私は、小さい頃から実の両親からも気にかけてもらえない子で、見てほしいと望んでも両親の目はどこか違うところを見ていた。だから、樹に望まれた時、こんな私でも欲しいと言ってくれる人がいたんだと、ただただ嬉しかった。大袈裟かもしれませんが、生きている価値があったんだと思えたんです」
それほど、誰かに必要とされることに飢えていた。樹に”未雨には俺しかいない。俺には未雨しかいない”と、そう言われるたびにそれが麻薬みたいになって思考を停止していた。
「いつからか、どこか無理している自分がいた。私なりに、樹の想いに応えようと頑張っているつもりだった。大切にしたいって思っていたのも本当です。でも、それが恋人としてなのかどうか。自分の本当の気持ちに向き合って来なかった」
この七年間を思い返す。
「樹と一緒にいた七年をどう振り返ればいいのか分からなくなるんです。そこに、恋という感情が本当にあったのか。ただそう信じなければならなかったんじゃないか――」
これが恋だったのかどうか、答えを出せずにいた。でも、答えを出せないということは、出すのが怖かったから。本当はそうじゃないと、心の奥底で分かっていたからだ。導き出された答えに心が硬直する。その言葉を認めてしまったら、この決して短くはない年月を、自分の人生の中でどう整理したらよいのか分からなくなる。孤独を埋め合う関係だったのだとしても、樹を想う感情も確かにあったと思っていたかった。だから、あんなに抱かれることが出来たのだと。
一体私は、何をしてきたのか。樹とのあの始まりの日から、そもそも間違いが始まっていたのだとしたら――。
そう思うと、言葉にできない失望と絶望が身体中を駆け巡り、真っ暗闇へと引きずり込まれそうになる。
「それでもそれは――」
春日井さんの声が、私を引き留めた。
「君にとっての愛だったんだよ」
その目が切なげに細められる。
「その時の君が精一杯守ろうとした、君にとっての恋だったんじゃないか? それがどんな理由から来るものだろうと、君が樹君のためにしてあげたこと、樹君のことを考えていたこと、それが嘘になるわけじゃないだろう」
優しくて穏やかな眼差しが私を包み込んで、静かに言った。私の全てを知っているわけでもない春日井さんがそう言ってくれたのは、私の生きて来た七年という時間を無意味だったと思わせないため。私がその時間を悔いないためにだ。だからこそ、春日井さんのくれた言葉が馬鹿な私に教えてくれる。次第に間違って行ったんじゃない。あの、激しい雨が降りしきる秋の日、自宅のリビングで大きな間違いを犯した。初めから間違っていたのだ。
そんな私の真意を、樹も感づいていたのだとしたら――。
樹にたくさん傷付けられたけれど、私も樹を傷付けて来たのかもしれない。
「それでももう、私は樹と一緒に生きて行くことは出来ない。自分の気持ちにはっきりと気付いてしまったから。樹とは別の道を歩きます」
私は春日井さんに告げた。
私の視線から、春日井さんがそっと目を逸らす。逸らされた視線はどこかに向けられたままで、言葉はなかった。横たわる沈黙に耐えられなくなって、私は裏返った声を出した。
「そういうわけで、この結婚の私の目的はなくなったんですが、春日井さんの目的はまだありますよね。ですから、これまで通りでいてください」
樹と別れたからと言って、私の気持ちを春日井さんに伝えることは出来ない。春日井さんを困らせるだけだ。私がずっと樹と一緒にいたこともどんな関係だったかも春日井さんはすべて知っている。
それに、あんな姿まで知られて――。
樹が言っていた通り、こんな私を恋愛対象として見るはずがない。私にそういう目で見られることすら嫌悪を感じるだろう。そもそも春日井さんには、強く想っている人がいる。どう考えても、この気持ちはこの先もずっと心の奥に隠していく以外の選択肢はない。
「もちろん、春日井さんに誰か良い方が出来た時には言ってください。その時はすぐに結婚を解消します。ですから、それまでは――」
その日が来ることを思うだけで胸がひりひりとする。でも、私が望めることはそれまで一緒にいることくらいだ。春日井さんに私を見てほしいなんて望んだりしない。
「君の中に、樹君への気持ちはまったく残っていない。それで間違いはない?」
私の言っていることを聞いていなかったのか、春日井さんはまるで違うことを私に聞いて来た。
「はい。何も残っていません。そのことに嘘はないです」
「本当に……?」
何故か、春日井さんは私に念押しするように問い掛ける。
「はい、本当です。完全に私の中で終わったことです」
この気持ちが伝わるように、私は真っ直ぐに春日井さんを見つめた。
「……分かった」
その短い言葉がやけに重く響いて。うるさかったはずのエアコンが大人しくなっていた。
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