雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

文字の大きさ
79 / 154
第六章 秋雨

しおりを挟む
6


「わぁ……。本当に、目の前に海」

初めて間近に見る海に心を奪われた。到着した七里ヶ浜駅で、私はまたしても感動のあまり立ち尽くした。

「静かでいいところだろ?」

そんな私の隣に春日井さんが立つ。

「……はい。すごく素敵な場所」

駅を出て、海岸へと下りて行った。

「今日は少し雲があるけど昼間よりは減ったから、綺麗な夕陽が見られるかな」

春日井さんが空を見上げながら呟く。砂浜を踏みしめる砂の感触、耳に心地よい波の音が私たちを包む込む。

 砂浜で腰を下ろした。目の前で、何度も波が寄せてはかえす。少し先には江の島も見えた。夏なのに、私の髪を揺らす海風は少し涼しいものだった。

「波の音って、どうしてこんなに落ち着くんだろうな」

隣に座る春日井さんが海の向こうをじっと見つめている。春日井さんの視線をたどるように私も前を見つめた。流れる雲の合間から、太陽の陽射しが海面を照らす。

「本当に。どんなことも全部、波の音がさらって行ってくれそうですね」

海の風も海の色も、刻々と変化して行く。時間が進んでいるとは思えないほど穏やかでも、その変化が時の進みを私に知らせる。

「――最近、会社の先輩とはどう?」

海の波を見つめながら、春日井さんが突然そんなことを言い出した。

「失礼なことをしてしまったのに、変わらず優しくしてくれて。今では、たまに一緒にランチに行ったりするんですよ」
「……そうか。それなら良かった」

そうしみじみと声を漏らすと、春日井さんは改めて口を開いた。

「糸原さんは、少し不器用なだけで、心の中は素直で裏も表もない人なんだと思うよ。それを知れば、誰でもきっと君を好きになる」
「春日井さん……」
「だから、大丈夫。君を分かってくれる人はいる。君はちゃんと社会の中で生きている。閉じこもっていた以前の君とは違う」

遠くを見ていたその目がゆっくりと私に向けられる。

「……ありがとうございます。少しずつ人と関わることを知って、自分からも飛び込んで行こうって思えるようになりました」
「それに、本当の君はたくさん笑える。今日僕は、君のいろんな笑顔が見られて嬉しかった」

その目を優しく細める。眩しそうに見られてドクンと胸が跳ねた。

「過去にどんなことがあったとしても、君は今こうして笑えるんだから。これまで辛いことがたくさんあっただろうけど、糸原さん中に本当の君がじっと耐えて残っていた」
「本当の、自分……?」
「そう。実は結構はっきりものを言うタイプで、素直でたくさん笑える。そんな君」

そう言って春日井さんが微笑む。

「だから、大丈夫だよ」

その目を見ていると、いつも何かが込み上げて来る。春日井さんの言葉はいつだって私の心に沁みこんで来る。

「君は、この先もたくさん笑える」

こんなにたくさん笑えたのは、春日井さんといたからです。あなただから――。

思わずこの気持を口にしてしまいそうになって、誤魔化すようにスマホを取り出した。

「せっかく初めて来たし、海の写真でも撮ろうかな」

スマホを構えると、どこからか声がした。

「写真、撮りましょうか?」

観光客か地元住民か、中年の男性が立っていた。

「良かったら、お二人の写真、撮りますよ?」
「遠慮します」

春日井さんの表情が険しいものになる。

「でも、海とあなた方二人の姿が本当にいい雰囲気なんだ。どうですか、彼女さんの方は」
「か、彼女……? 彼女ではないんですけど……」

そう咄嗟に答えてから自分に呆れる。そこは論点じゃない。春日井さんは、やっぱり写真に撮られるのは嫌だろうか。

「あっ、違ったんですか? いや、お二人お似合いだから、てっきりそうなのかなって」

気まずそうに、どこか人の良さそうな男性が頭をかいている。写真――急速に私は心惹かれていた。私と春日井さんは夫婦だけれど、それは法律上だ。指輪もなければ写真すら撮っていない。二人が一緒にいる証は何一つない。春日井さんが私との結婚にそんなものを必要としていないことは分かっている。でも、私は――。

「私たち、夫婦なんです」

気付けばこの口が勝手にそう言っていた。

「ああ、そうなんですか! どうりで良い雰囲気だったんだ。ここに来た記念にどうですか?」

二人の写真が欲しい。その欲求が膨れ上がる。

「あの……撮ってもらってもいいですか? 今日の記念を残したいんです」

おそるおそる春日井さんに尋ねる。逡巡するような目をした後、春日井さんが「分かったよ」と頷いた。

「あ、ありがとうございます! すみません、じゃあお願いしていいですか?」

春日井さんの気が変わらないうちに、手にしていたスマホを男性に手渡した。

「じゃあお二人、こっち見て!」

すっかりその気になった男性が私たちに片手を上げる。

「だめだめ、夫婦なのにそんなに離れていちゃぁ。もっと肩寄せ合って笑って!」

そうだ。あの人は、私たちが本物の夫婦だと認識してしまっている。

(こんなことになってすみません……)

いたたまれなくなって、こっそりと春日井さんに謝る。

(仕方ない。僕たちは夫婦だ。そう今は念じよう。少し、我慢して)

そう言って、春日井さんが私の肩をそっと引き寄せた。

私の頭のすぐ上に春日井さんの顔が――!

「いいですね! すごくいいですよ!」

こんなにドキドキとうるさく心臓が騒いでいたら、春日井さんにバレてしまうんじゃないかと気が気がじゃない。

「あとは笑顔だな。もっと笑わないと!」

そんな気も知らないで、男性がはやし立てる。

「奥さんも! もっと笑って」

――奥さん。

嬉しいような切ないような複雑な笑みになってしまうけれど、結局私は、春日井さんの言葉一つで笑顔になれてしまうのだ。

(今日の記念に撮るんだろう? 今日が楽しかったんなら笑顔で撮っておかないと。後で見返した時に、この時楽しかったかどうか分からなくなるよ)

男性の持つスマホの方に顔を向けたまま、春日井さんが私に囁く。今日私は、間違いなく楽しくて幸せだった。

「奥さん、いい笑顔! じゃあ行きますよ!」

スマホから撮影する電子音が聞こえた。

「おおっ、やっぱり想像通り! いい写真ですよ」

そう言って男性が私にスマホを返してくれた。

「ありがとうございました」

肩を寄せ合って写る私たちがいる。写真の中の私は本当に嬉しそうで。

春日井さんは、こんな表情をしていたんだ――。

私はスマホの方をずっと見ていたのに、春日井さんは違った。視線が私に向けられている。その少し伏せられた目はハッとするほど優しい。

「いい雰囲気でなんだかこっちが熱くなってきちゃうなぁ。いつまでもお幸せにね」

そう言って手を振り、男性は立ち去った。その写真をじっと見ていると、いつの間にか背中に感じていた温もりが離れ、春日井さんの声が耳に届いた。

「空の色も海の色も、変わって来た――」

春日井さんがふっと私から視線を逸らす。いつの間にか太陽が低くなって、海へと近付いて行く。雲までも赤く照らす夕陽が目に沁みた。

「本当に、綺麗で――」

世界全部を赤く染めるみたいで胸に迫る。ただその光景だけで、胸を締め付けて震わせる。

「なんでだろう、涙が出そうになります」

咄嗟に目を擦る。

「今日の締めくくりにこんな景色が見られてよかった。本当に今日は楽しかった……」

春日井さんが呟く声に引き寄せられるみたいに、その横顔を見つめた。一日を振り返れば、過ごして来た時間に笑顔ばかりが積み上がっている。こんなにも心から笑った日はない。そして、この日一日で、春日井さんへの気持ちが更に降り積もった。朝よりずっと春日井さんのことを好きになっている。日ごとに、一時間ごとに、数分後には、前よりもっと好きになる。こんな気持ちは初めてだ。些細なことに敏感になって、一喜一憂して、哀しくなって幸せな気持ちになって。綺麗な光景を見たら泣きたくなる。

「あんな派手なクレープも食べられたし、ハンバーガーも食べた。君の無邪気な顔も見られたし。こんなに笑ったのいつ以来からな。いや、初めてかもしれない。こんなに楽しかったのも初めてだ」

春日井さんは優しく微笑んでいるのに、何故だかもっと泣きたくなった。

「――弟が死んでから、もう笑ってはいけないような気がしてた。何かを楽しむことも、望むことも、全部自分に禁じて来た。だから今日は、僕にとってプレゼントみたいなものだよ」

その横顔が私の方へと向けられて、ぶつかった視線はあまりに切ない。

「今日は、僕のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「わがままだなんて……。私の方こそ、してみたかったことがたくさん出来ました」

気付くと、砂浜から人がいなくなっていた。空の色も、相変わらず物凄いスピードで変わり続けている。

このままでいさせてほしい――。

どんなにそう願っても、それは無理だと私に言うみたいに頬に冷たいものを感じた。

「――雨?」

春日井さんが手のひらを空に向ける。

「夕立かな。とりあえず、屋根のあるところに逃げよう」

さっきまであんなに綺麗な夕焼けを見せてくれていたのに、頭上にある空は黒い雲で埋め尽くされていた。春日井さんが私の腕を取る。



しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

私たちの離婚幸福論

桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-

設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt 夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや 出張に行くようになって……あまりいい気はしないから やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀ 気にし過ぎだと一笑に伏された。 それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない 言わんこっちゃないという結果になっていて 私は逃走したよ……。 あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン? ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 初回公開日時 2019.01.25 22:29 初回完結日時 2019.08.16 21:21 再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結 ❦イラストは有償画像になります。 2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

処理中です...