雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第六章 秋雨

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 最初はぽつぽつと落ちて来るだけだった雨が、あっという間に激しくなり始める。春日井さんが、Tシャツの上に来ていた白いシャツを脱ぐと、私の頭に被せた。

「あんまり意味はないかもしれないけど、少しはしのげるだろう」
「でも、それだと春日井さんが――」

慌ててそのシャツを返そうとした。

「君が雨に濡れた姿なんて、他の人に見せたくない」

強い口調に言葉を失う。そんな私に我に返ったように、春日井さんはいつもの優しい声に戻って言った。

「僕は大丈夫だから。とにかく急ごう」

春日井さんが私を雨から守るみたいに前を走る。目の前の背中がみるみる濡れていく。そればかりが気になった。路面に叩きつける雨が、昼の熱を掻き消していく。

「あそこにバス停があるから、とりあえずそこに」

砂浜から国道に出ると、駅方向に向かう道路に屋根付きの待合室があるバス停が見えた。足もとを濡らすしぶきに構わず、懸命に走る。待合室に駆け込むと、そこには誰も人はいなかった。箱のような待合室の壁に雨粒が筋になって流れ落ちている。

「春日井さん、すごく濡れてます。本当にすみません!」

向き合って立つ春日井さんの髪も、肩も、完全に濡れてしまっている。

「これくらいなら大丈夫だよ。僕は男だし」

濡れた前髪をかき上げ、腕についた雫を振り払っている。

「春日井さんのシャツもこんなに濡らしてしまって。洗濯して返しますので」
「いいよ、そんなの」

春日井さんの髪からずっと雫が地面へと落ち続けているのを見ていたら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「早く拭かないと、風邪ひきます」

急いでバッグの中からハンドタオルを取り出す。そして春日井さんの髪に手を伸ばした。

「もっと大きいタオルを持っていたら良かったんだけど、拭かないよりはましだと思うから」

私より少しだけ背の高い春日井さんと向き合い、自分のハンドタオルをそのまま濡れた髪に当てる。

「それなら君もだよ。君の髪も少し濡れてるから、自分を拭いて」

春日井さんが私の頭を覆うシャツに手を掛けた。

「でも、春日井さんの方が……」

不意に、他に誰もいない狭い場所で至近距離の春日井さんと向かい合って立っているということに気付く。手を春日井さんの髪へと伸ばしたままで、自分の頭にあるシャツ越しの春日井さんの手のひらの感触に意識が向かう。見上げた先にある春日井さんの視線とぶつかる。濃くて湿った雨の匂い。突如訪れた沈黙が、張り詰めた空気を連れて来る。何かを言わなければと頭では思っても、何の言葉も出て来ない。激しい鼓動が雨の音と混じり合う。胸を叩く鼓動は痛いくらいなのに、ぶつかった視線を逸らしたくない。その痛みに切ない甘さが潜んで、心の奥から剥き出しの感情が這い出て来る。

触れたい。触れられたい――。

私の目は恥ずかしいほどに熱を帯びてしまっているだろう。お互いに何も言わない。春日井さんの指がゆっくりと動く。頭の輪郭を滑るように落ちて、私の頬にほんのわずか触れる。その時、春日井さんの指が震えていることを知った。私を見る切なげにしかめられた視線に心臓が暴れ狂う。どれだけ緊張しても求める気持ちの方が遥かに大きくて、ただじっと見上げる。激しい雨が私たちを隠してくれる。

だから、今はただ――。

祈るように、ただじっと、春日井さんの指先が私を捕らえてくれるのを待った。恐る恐る触れるその指に身体中が痺れて。私の身体のほんの一部分を触れられているだけなのに、どうしてこんなにも心が震えるんだろう。好きだという気持ちが溢れて、それが外へ外へと押し出される。

「か、すがいさ……」

自分でも知らぬ間に出ていた掠れた声。その瞬間に、張り詰めた空気の糸がぷつんと切れた。

「ご、ごめん……っ」

確かに私の頬にあったその指は、切ないほどにあっという間に離れて行った。

「ごめん」

二度も放たれたその言葉が、私を現実へと戻す。それと同時に、耳ざわりなほどに雨の音が大きくなった。

「僕は本当に大丈夫だから、君も風邪ひかないように早く拭いて」

春日井さんが私に背を向ける。私の手に残ったハンドタオルは、惨めなほどに宙ぶらりんになった。

『ごめん』は、何に対する『ごめん』ですか――?

その濡れた背中に問い掛ける。

雰囲気に流されそうになったから――?
決して想いの叶うことのない人の身代わりにしようとしたから――?

そのどれでも良かった。でも、春日井さんはそんなことを望んでいないのだ。春日井さんはそんなことができない人。そして、もう一つの考えが浮かぶ。

つい最近まで他の人に抱かれていた私に、嫌悪を感じたから―――。

私と春日井さんの間にあるあの事実は、きっと一生消えないのだろう。一度聞いたことを聞かなかったことには出来ない。息苦しさを感じて少し湿ったブラウスの胸元を握りしめる。

「夕立だろうから、もう少し待てば晴れる」

待合室の出入り口付近に立ち、春日井さんが空を見上げる。その背中はあまりに遠い。

それでも――。

その心が私を向くことはなくても、ただそばにいられれば、私はそれでいい。
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