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《その後》二人で見た海であなたを待つ
初めて感じるもの 3
しおりを挟む「なんか、今日の糸原さん、嬉しそうだな」
「え……?」
斜め向かいの席に座る同僚の田中さんの声がして顔を上げると、私をじっと見ていた。
「そう、ですか?」
「絶対、そう」
普通に仕事をしているつもりなのに、いつもと違う顔にでもなっているのだろうか。
「何かいいことでもあったの?」
「い、いえ。別に」
田中さんが余計に私をじっと見て来るから、どぎまぎとしてしまう。
「嘘だろ。だって、さっき、鼻歌、歌ってたよ」
「え……っ?」
無意識で、そんなことをしていたの――?
ぎょっとして、固まる。
「嘘」
「え?」
定時を過ぎた、人がまばらのフロアに田中さんの笑い声が響く。
「鼻歌は嘘だとしても、いつもと違って顔がにやけてた」
「にやけ……って、そんなことありません。からかわないでください」
そうだとしたら、恐ろしすぎる。そんなにも浮かれてしまっていただろうか。意味もないのに頬に手のひらを当てた。
「定時はとっくに過ぎてるのに、仕事もはかどってるみたいだし」
「それは……」
確かに、なんだかすごく調子が良くてどんどん進められるものだから、終えるタイミングを逃していた。
「糸原さんってさ――」
「今度はなんですか?」
からかわれたせいで、つい、口調が険しくなってしまう。田中さんとは同じ課で働いてもう三年になる。入社当初からの同僚の先輩社員だ。最初の頃は、常に棘があるもの言いに苦手意識があった。でも、今では、こんな風に普通に話せるようになった。それを考えれば、苦手に思っていたのも、自分に原因があったのだと分かる。
「離婚して、何年経つんだっけ」
「え……?」
突然そんな話題を振られたことに驚く。気付けば、一番奥のデスクの島に一人残っている社員がいるだけで、私たちの周囲の社員は皆帰宅していた。だから、そんなプライベートなことを聞くのだろうか。
「いや、単純にどれくらい経ったかなって」
「二年くらい、です」
「そうか、もうそんなに経つんだ」
やけにしみじみと言うものだから、不思議に思う。
「それが、何か?」
「いや、離婚してから、糸原さん変わったなと思ってさ。明るくなったというか、壁がなくなったというか。だから、離婚したことは正解だったんだな。まあ、どんな事情かは知らないけど」
離婚届を提出した後、話す機会があればその都度同僚には伝えて来た。ただ、結婚した時も旧姓の「糸原」を社内で使っていたから、必要な手続き以外の呼び名は今もそのままにしてある。私の本当の名字が「春日井」だと知っているのは、向井さんだけだ。
「まあ、糸原さんはまだ若いし。これから先、いくらでも出会いがあるよ。今時、バツイチなんてなんの珍しさもないしさ。それに、ほんの短い期間の結婚だろ。全然、問題にならないよ」
それは、一体なんの励ましだろうかと思う。
「あ、ありがとうございます」
仕方なくそう言っておく。これ以上、その話題を続けるのも気が進まなくて視線をパソコンのディスプレイに戻したけれど、ちょうどきりのいいところだったからここで切り上げることにした。データを保存して、パソコンの電源を落とす。
「――じゃあ、すみません。お先に失礼します」
「あ、ああ。お疲れ」
田中さんに一礼して、部屋を出る。
早く、春日井さんと話がしたい――。
もう、私の心の中は別のことで一杯だった。
春日井さんと再会してから、毎日電話で話をしている。いつもだいたい決まった時間、夜の十時くらいに電話をかけて来てくれる。それが楽しみで、仕事が終わってしまえば、誰が待っているわけでもないアパートに飛んで帰るのだ。
この日もちょうど十時にスマホが着信音を響かせた。ベッドに腰掛け姿勢を正す。そして、スマホを耳に当てた。
(もしもし、春日井です)
決まって春日井さんはそう言う。
「こんばんは」
そして、私はそう返す。
(今日も、お疲れ様)
電話越しに聞く春日井さんの声は、実際に会って話す時に聞く声よりも低く感じる。それが、また私をドキドキとさせる。
「春日井さんも、お疲れ様。ちゃんと、夕飯は食べましたか?」
(ああ、うん。でも、糸原さんが作ってくれたもの、もう食べ終わってしまって。かなり名残惜しいよ)
「え? 次の日に全部食べ終えたんじゃないんですか?」
思わず声を上げてしまった。
(いや、もったいなくて、昨日まで引っ張った)
「大丈夫でしたか? お腹痛くなってません?」
いくら夏ではないとは言え、そんなに長くもつものでもない。少なくとも、味は落ちてしまうだろう。
(大丈夫。僕はそんなにやわじゃないよ)
そう言って春日井さんは笑うけど、私にとっては笑い事じゃない。
「そんなに貴重なものみたいに食べなくても大丈夫です。また、いくらでも作ります。それで、なんですが――」
ぎゅっとスマホを握り直す。
「明日、金曜日ですよね」
待ちわびていた週末がやって来る。待ちわびていた理由は一つしかない。
「また、会いに行っていいですか?」
(もちろん。土曜日に来る? でも、僕は、土曜も日曜も仕事なんだ。それでも、いい?)
申し訳なさそうな声が聞こえて、私はすぐに言葉を放った。
「分かってることだから、気にしないでください。でも、その代わり――」
気付けば、私は春日井さんにわがままばかり言っているような気がする。
「明日の夜、仕事が終わった後に行ってもいいですか……?」
ほんの少しでも長く春日井さんと一緒にいたい。離れている時間、一日、また一日と過ぎるごとにその気持ちが大きくなる。春日井さんの答えを、少し緊張して待つ。金曜の夜、仕事が終わった後に行く――それはつまりその日は帰れないということも意味する。
(――いいよ。いつ来てくれてもいいって、言っただろ?)
その優しく諭すみたいな言い方に、またも胸がぎゅっと締め付けられた。
「じゃあ、明日の夜行きます。今度はちゃんといろいろ準備してから行きますね!」
(あ……うん)
つい勢い余って、張り切った声を出してしまった。これでは、待ちきれない子供みたいだ。
(待ってる)
「はい」
とにかく早く、会いたい。
次の日は、始業時刻からわき目もふらずに仕事に集中した。何がなんでも定時であがりたい。頼まれていた資料も朝一番で提出した。
このまま何もなければ、定時にあがれる――。
そう思っていた時だった。
「仕事中悪いね、ちょっといいかな」
課長が席を立ち上がり、社員に声を掛ける。
「うちの課の栗島さんが来月結婚されるとのことだ」
栗島さんは、隣のグループの女性社員だった。私も、たびたび一緒に仕事をする。
「栗島さん、おめでとう」
同僚たちがおめでとうの言葉を掛ける。私も笑顔で拍手した。
「来月、披露宴の後に二次会を行うので、ぜひ、みなさんも出席してください」
そう言って、栗島さんが幸せそうな笑みを浮かべている。好きな人と結婚する――それがどれほど幸せなことか。栗島さんの笑顔は、その喜びに溢れていた。その笑顔に魅入っていると、誰かの視線を感じた。それは、田中さんだった。
ああ、私が離婚歴があるから、気を遣ってくれているのかーー。
そんな気遣いは不要だと伝えるために、その視線に笑みで応えた。
何も緊急の仕事が入って来ませんように――。
その祈りが天に通じたのか、定時を無事迎えることが出来た。
「すみません、今日は、お先に失礼します」
「ああ、今週、糸原さん頑張ってたもんね。お疲れ様」
近くの席の同僚がそう声を掛けてくれる。もう一度頭を下げれば、勝手にこの足は駆け足になる。
廊下に出てエレベーターホールへと向かった。階数表示が上がって来るのを見つめながら、どうしても気が逸る。やっと開いたエレベーターのドアから、田中さんが現れた。
「あ、糸原さん、もう帰り?」
「はい。では、お先に失礼します――」
「あ、あのさ」
エレベーターに乗り込むと、田中さんの呼び止める声がした。
「糸原さんも、栗島さんの二次会行くの?」
「あ、ああ、はい。ご招待いただけたので。それに、私もお祝いしたいですし。じゃあ、すみません失礼します」
口早に挨拶をして、頭を下げた。
そうしてビルを出た後すぐに、春日井さんにメールを送った。
(今、会社を出ました。また、近くなったら連絡します)
ヒールに構わず、私は駅に向かって全速力で走り出す。
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