雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

初めて感じるもの 4

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 会社の最寄り駅から七里ヶ浜駅まで、電車を乗り継いで一時間三十七分。この九十七分が、もどかしてくもどかしくてたまらなかった。春日井さんに会ってから一週間も経っていないのに、どうしてだろう。もう何か月も待たされた気分になっている。
 少しずつ海の街へと近付いて行く電車に、胸が甘さと忙しなさで落ち着かない。乗り継ぎ最後の電車、江ノ電に乗り込み右側のシートに座る。窓に頭をこつんと預けた。街の中を抜けていくと、海岸線に出る。その瞬間が、たまらなく好きだ。暗い夜の海でも寂しくない。

 江ノ電が七里ヶ浜駅に到着する。開いたドアと共に潮の匂いが入り込ん出来た。ホームに足を踏み出し、何人かの乗客を掻き分け、ただ一人のところへ改札へと走る。小さな改札を抜けるとすぐ、その姿があった。人の邪魔にならないように、そっと立つ春日井さんの姿。その姿を見ただけで、なんだかよく分からないけれど泣きそうになった。

「春日井さん」
「仕事、お疲れ様」

静かで優しい声。私を見る、柔らかな瞳。

「春日井さんもお疲れさま。駅まで迎えに来てくれて、ありがとうございます」

私がお礼を言うと、春日井さんが「うん」と言って微笑んでくれた。

「これから、ご飯、食べに行かない? 君と行ってみたい店があって」

いつも通勤の時に持つバッグの他に握りしめていた大きめのトートバッグを春日井さんが手にする。

「あ、あの、大丈夫です!」
「いいから。それより、夕飯行こうか」

私のバッグを持つと、春日井さんはもう既に歩き出していた。 

「すみません、ありがとうございます」

私もその背中を追う。


 夜の海沿いの国道は、ひっきりなしに車が走っている。テールランプがきらきらと綺麗だった。

「これから行く店、海の目の前にあるんだ」
「じゃあ、食事しながら海が見られるんですね?」

行き交う車の横を、私たちは並んで歩く。待ち焦がれていた。一刻も早く会いたいと思っていた人が隣にいる。

「君と行きたいって、この一週間、その店の前を通るたびに思ってた」

薄暗い歩道でも分かる春日井さんの笑顔に、少しは私のことを思い出してくれていたんだと知って嬉しくなる。


 春日井さんに連れて来られた店は、海を真正面にのぞみ大きな窓ガラスがあるカジュアルなレストランだった。間接照明が、雰囲気を温かくしている。窓ガラス側に、ちょうど二人掛けのテーブルが一つ空いていた。

「雰囲気が素敵ですね」
「そうだね。それでいて、落ち着く感じで良かった」

テーブルに向かい合って座ると、春日井さんも店内をまじまじと見回していた。

「春日井さん、来たことがなかったんですか?」
「うん。一人じゃ、来たいとは思わないよ」
「そっか……じゃあ、また二人で来ましょう」

私が笑顔で言うと、春日井さんも頷いてくれた。春日井さんが、自分は何かをしたいとか欲しいとか、思ってはいけないと言っていた。でも、日常のほんの少し、ささやかな時間を持ってもらいたい。こんな風に、食事をして海を眺めて。それくらい許して欲しいと、どこの誰だか分からない人に思ってしまう。

 このレストランは、手ごろな値段で、美味しいパスタを出してくれる店だった。サラダを二人でシェアして、それぞれに違う種類のパスタを頼んだ。

「美味しい!」

シーフードパスタは、少しの酸味が隠し味として効いていて美味しかった。

「僕のも美味しいよ」

春日井さんのパスタは、茄子のミートソースだ。

「春日井さん、今日はすぐにメニュー決まりましたね」
「え……?」

冗談交じりにそう言うと、春日井さんがきょとんとした目を私に向けた。

「だって。一緒に暮らしていた頃、二人でデートの行ったことがあるでしょう? あの時、春日井さんはクレープを全然選べなくて。可笑しかったな」

思い出して笑ってしまう。延々悩んだ挙句に選んだものが、かなり可愛らしいクレープだったのを思い出す。

「ああ……あの時も、君は今みたいに僕を見て笑ってたな」

春日井さんも懐かしそうに笑う。

「でも、あの時選べなかったのは、あのクレープが一生のうちで最後のクレープだと思ったからだよ。でもこのパスタは、二人で食べる最後のパスタじゃないだろう?」
「……最後なんかじゃないから、どれを選んでもいいですね。だって、あっちが良かった―って思っても、また食べに来ればいいんだし」
「そうだよ」

これからは、何度だって春日井さんと一緒に食べられる。しんみりしそうになって、私はわざと明るく声を上げた。

「今度、私もパスタ作りますよ――あっ」

春日井さんの頬、唇のすぐ横に点のようになってソースが付いているのに気付く。

「ミートソースが頬に付いちゃってます」
「ホント? いい年して、恥ずかしい」

春日井さんが自分で拭おうとしても微妙にずれる。

「そこじゃなくて……」

紙ナプキンを手にして、春日井さんの唇の横に手を伸ばした。

「――はい、取れました」

紙ナプキンで拭きとる時に、少し私の指が春日井さんの唇に触れてしまった。慌てて手を離し、自分の方へと戻す。

「あ、ありがとう」

そう言って口元を手のひらで覆い、私から目を逸らす春日井さんの頬が心なしか赤くなっているような気がする。私までも、とんでもなく気恥ずかしくなって来た。

「い、いえ。すみません、勝手に」

少し、慣れ慣れしかったかもしれない――してしまった後に冷静になることほどいたたまれないことはない。

 「……本当に僕は、どうしようもないな」

ひとり言なのかなんなのか、呟くような声が聞こえる。

「え?」
「君を前にすると、もう全然だめ。十年くらい簡単に年齢が戻って行く感じ」

そう言って苦笑する春日井さんを、不思議に思って見つめる。

「年甲斐もなくいちいちドキドキする。どうしようか」
「実は、私もそうなんです。二十六にもなって、些細なことにいちいちドキドキしてます。だから、大丈夫」

何故だか二人向き合って、そんな告白をし合っている。

「君も……? 全然そうは見えないよ」

驚いたように私を見る目に、盛大に反論した。

「春日井さんが気付いていないだけです。心の中では大変なことになってるんです」

本当にそう。これが、まるで初めての恋で、初めての交際みたいに。ただ触れるだけ、ただ目が合うだけで、バカみたいに激しく胸が鼓動する。

 食事をし終えて、また来た道を歩いた。夜の海風が少し肌寒く感じる。私が小さく肩を震わせると、春日井さんが私の手を引いた。

「寒くなって来た。少し、急ごうか」

そっと握られただけなのに、あっという間に私の手は温かくなる。風が時おり強く吹く。そのたびに春日井さんの前髪が舞い上がって額を露わにする。その横顔を見る度に、ドクンと胸が跳ねる。

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