雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

初めて感じるもの 5

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 一週間ぶりに来た春日井さんの部屋は、当たり前だけれどあの日のままだ。

「古くて汚いところで、ごめんな」
「そんなことないです。古くても、すごく綺麗にしてる」

春日井さんの背中を追うように、部屋に入った。ここに来ると、私たち二人だけの世界に来たみたいで、やっぱり嬉しい。

「同じような会話、一週間前もしましたね」
「そうだね」

私に振り返った春日井さんと微笑み合う。

「仕事して、ここまで長い時間電車に揺られて、疲れただろう? 先に、風呂に入る?」
「あ――じゃあ、そうさせてもらいます」

頷くと、春日井さんがバスタオルを持って来てくれた。

「これ、君専用にと思って買っておいた。一度洗ってあるし、問題なく使えると思う」
「え……? 私のため?」
「これも勝手に買ってしまって。君の好みとか聞けば良かったんだけど、今日、慌てて準備したから」

そう口にしながら洗面所へと向かう春日井さんを、慌てて追いかける。小さな洗面台に、一週間前に使った歯ブラシが白いプラスチックのコップに立てられて置いてあった。その隣には春日井さんの歯ブラシも並んでいる。

「今日って……私が昨日電話で来るって言ったから……?」

前の晩の電話で、春日井さんの部屋に泊まることを告げた。私が来る前にと、仕事の後に買いに行ってくれたのか。

「そうだけど……どうしたの?」

私がそのコップを手にしたまま黙っていたから、春日井さんが不安げな視線を私に向けて来る。

「もしかして、必要なかった? それとも、こういうのじゃない方が――」
「違います。嬉しいです。準備してくれて、すごく、嬉しい」

春日井さんを見上げる。そうしたら安心したように、表情を緩めてくれた。

「良かった。じゃあ、風呂どうぞ。本当に古くて使い勝手が悪いけど、ごめん」

また「ごめん」と言った春日井さんに、「私のアパートもここに負けないくらい古いですから」と答える。春日井さんに「ごめん」と言われると、どうしても胸の奥が痛んで嫌なのだ。「ごめん」という言葉は言わせたくない。

 お風呂から出て、家から持って来た部屋着を着る。洗面所を出て和室へと向かった。半乾きの髪が、もう、肩に水滴を落とし始める。

「春日井さん……」

部屋の様子をうかがうと、押入れのふすまにもたれて座り本を読む春日井さんの姿があった。

「ああ、風呂、大丈夫だった? 使い方困らなかった?」
「はい、大丈夫でした。それより、何を読んでるんですか?」

私を見上げる春日井さんの隣に、膝を立てて腰掛けた。そして、春日井さんの手にしていた本を覗き込む。

「ああ、これ。今日、借りて来たんだ」
「職場が図書館って最高ですね。あっ、これ……私も読んでみたいと思っていた本です!」

最近人気が出て来た男性作家の小説だった。その小説自体は数年前に出版されたものだ。開いてあったページを見れば、まだ読み始めたばかりだと分かる。

「この人の本、人気が出る前の、こっちの方がなんとなく好きだな。まだ冒頭の感想でしかないけど」
「確かこの小説、この作家さん唯一の恋愛ものですよね。だから、私も読んでみたいなって思ってたんです」
「糸原さん、恋愛小説、よく読むの?」

春日井さんが私に目を向けて問いかける。

「恋愛ものって、なんか苦手で、これまであんまり読んだことなくて。でも、いつも恋愛ものを書かない人が書いた恋愛小説ってどんな感じなのかなって、この小説には興味を持ったんです」

どうしてだか他人の恋愛を知るのが嫌だった。たとえそれがフィクションでも、それを知ることで自分と比較してしまいそうだったからかもしれない。本物を知るのが怖かった。

「僕も、恋愛小説には手が出なかった」

春日井さんの静かな声に、私も春日井さんの方に顔を向ける。

「じゃあ、私と同じですね――」

そうして向き合った視線が思いのほか近いことに気付く。私たち以外に他に誰もいない部屋で、肩が触れそうなほどの距離にいる。突然、そのことに意識が向く。見上げた先の、間近にある前髪に半分隠れた目を見ていたら、緊張のあまりドクドクと恐ろしいほどの速さで心臓が動き始めるのに、その鼓動の横で強い欲求が生まれる。

その、前髪に半分隠れた目を、全部見たい――。

何故か、その時強く思った。
 この手が勝手に春日井さんの前髪に伸びる。そっと、柔らかな髪に触れる。ドクドクと激しく心臓は動いたまま。それなのに、どうしてこんなことが出来るのか。分からないけれど、私は触れたいのだ。春日井さんに触れたい、その目を見たい。現れた目は、やっぱり澄んでいて綺麗だった。どうしようもなく胸が締め付けられてたまらない。何も言わない春日井さんの眉が微かに歪む。前髪に触れる私の手を、春日井さんの大きな手のひらが掴む。交わったままの視線が揺れて、その手のひらにぎゅっと力が込められた次の瞬間、唇を塞がれた。ただ触れたまま。そのままでじっと動かない。それなのに、私の手を掴む力は強くなる。春日井さんの心を表しているみたいで切なくなる。

いいのに。そんなに何かに耐えないで――。

胸の苦しさに耐えられなくなって、私はもう片方の手で春日井さんのシャツをしがみつくように掴んだ。その時、春日井さんの身体が一瞬強張った。

「……糸原、さ――」

漏れ出た吐息と掠れた声と共に、春日井さんの腕に勢いのまま私の背中を抱き寄せられる。それと同時に再び重ねられた唇は、もうただ触れるだけのもではなかった。激しくぶつけられた唇に、ドクンと胸が跳ねる。

「――んっ」

掴まれた背中と手のひらから熱が身体中に伝わって。開いた唇に入り込んで来る熱い舌と自分のそれが絡まった時、頭が痺れた。口内で絡み合う熱にくらくらとする。いつも穏やかで凪いだ海みたいな春日井さんが見せる初めての激しさに、身体の奥底が疼く。

もっと、私を求めてほしい――。

どこか遠慮がちで何もかもを抑え込んだような春日井さんの、本当の心に触れたい。春日井さんを包むいろんな鎧を脱ぎ去って、この瞬間だけは、私だけを求めるただの一人の男の人になってほしい。必死にその胸にしがみつく。私の気持ちが伝わってほしくて、懸命に絡ませる。
 背中に当てられていた手のひらが、熱を帯びて、そのまま私の頭を抱える。より深く繋がろうと、お互いに夢中になって何度も何度も角度を変える。その時、本が畳に転げ落ちる音がした。
 その音が強制的に夢を終わらせたみたいに、春日井さんの唇が私から離れて行った。そしてきつく私を胸に抱いた。春日井さんの胸に押し付けられた私の耳には、滾るように激しく鼓動しているのが伝わる。その胸は熱くてたまらないのに、ただじっと何かを堪えるように抱きしめる。

「……ごめんな」

激しいキスの余韻で息が乱れて肩が上下する私を、春日井さんが力の限りで抱きしめる。

「ごめん――」
「ううん」

整わない息のまま、頭を横に振る。何かを言わなければと思うのに、上手く言葉が出ない。ただ、謝る必要なんてないと分かってもらいたくて、私も春日井さんの背中に腕を回して強く抱きしめ返した。次第に、お互いの乱れた呼吸と胸の鼓動が静かになって行く。

「――髪、まだ濡れてる」

春日井さんの、いつもの穏やかなものに戻った声が、耳からそのまま胸に響いた。そして、きつく私を抱きしめていた腕がゆるみ、そのままその手のひらが私の髪を撫でた。

「風邪をひいてしまうから、早く乾かした方がいい」

なだめるみたいな優しい声とともに、今の今までぴたりとくっついていた身体が離れて行った。

「僕も、風呂に行って来る」

見上げた時には、もう私に背を向けた後だった。

 一人残った部屋で、転がっていた本を手にする。

”海と君の隣で、僕は笑う”

タイトルに目にしながら、無意識のうちに唇に指を当てた。そこにもう春日井さんはいないのに、身体にも唇にも、激しいほどの熱が残っている。あのキスの先にあるものを、考えずにはいられない。初めて春日井さんとした深いキスは、私と春日井さんが恋人同士なのだと実感させて。胸をぎゅっと締め付ける。思わず私は膝を抱えて、単行本の表紙に突っ伏した。



















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