雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

初めて感じるもの 7

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 午前中に少し片づけをして、アパートを出た。海のすぐそばにあるファストフード店で昼食を済ませる。その後、春日井さんの勤める図書館へと向かった。

 少し緊張しながら館内に足を踏み入れる。土曜日だ。やはり、来館者は多かった。春日井さんはいるだろうかと、ちらちらと視線を動かしながら、小説の書架に向かう。そこにたどり着くまでに見かけることはなかった。
 適当に、好きな作家のエリアから小説を一冊抜き取る。そして、座れる場所を探した。ちょうど、館内一番奥の窓際に席があった。そこに腰掛けて、もう一度見回してみる。親子連れや、年配の人、一人で来ている私と同じ世代の人もいる。何人もいる人の中に、図書館の職員と思われる人がいて作業をしていたりした。あまりに見回していても怪しい。私は、机の上の小説を開き、プロローグから読み始める。好きな作家なだけあって、二ページほど読めば、もう引き込まれていた。
 六十ページくらい読み進めた頃、少し肩の疲れを感じて視線を文字から上げる。その時、一人の女の人が視界に入って来た。意味もなくその人を視線で追うと、春日井さんにたどり着いた。

春日井さんだ――!

瞬間的に嬉しくなったのも束の間、カウンターに返却された本を台車に載せている春日井さんに、同じ職員と思われる女性が話し掛けているのを見て自分の表情が変わるのが分かる。多分、年齢は私と同じくらいだろう。明るめの髪を一つに束ねて、色白の肌の綺麗な人だった。何を話しているのかは分からない。ただ、その女の人と春日井さんが並んで立っている姿に、妙に心がざわざわとする。ちょっと、距離が近い気がする。何かの本を手にして、春日井さんを見上げている。その人の肩が完全に春日井さんに触れている。そんなに近付かなくても、聞こえるのに――なんて、思わず思ってしまった自分に苦笑する。
 春日井さんは仕事中だ。同僚と仕事のことで話しているのを見て、面白くないなんて思うのは間違ってる。こうして、働く姿を見ることが出来る。春日井さんの、その女の人に対する表情はいたって真剣。まさに、仕事中の顔だ。そして、思う。私はあの人のことが本当に好きなんだなと。その柔らかな前髪も、優しげな目元も、肩も手のひらも。彼を作るすべてが、私のものなんだと思いたい。そんなことを思いながら見つめていると、不意に、春日井さんと目が合ってしまった。
 じっと見てしまっていたことがばれてしまう。焦るように小説のページをめくる。でも、目が合った瞬間、春日井さんの表情が緩んだ。ほんの一瞬だったけれど、見逃さなかった。必死に文字を追う。今の自分の表情は、見られたくない。

 それから少しして、窓から降り注ぐ太陽の光がオレンジに色付いて来た頃、私は席を立った。読んでいた小説を元の場所に戻そうと、手に取った書架に戻る。そして、この本のあった位置を探す。その時、背後に人の気配を感じた。後ろから腕が伸びて、私が手にしていた小説を掴んだ。驚いて、後ろを振り向くと春日井さんが立っていた。

「春日井さ――」
「しっ」

思わず上げてしまった声を、春日井さんが人差し指を口に当てて遮る。背中のすぐ後ろに感じる春日井さんの気配に、心拍数が上がる。公共施設で、後ろから囲われているみたいなこの体勢に、見つかるかもしれないという緊張と間近に感じる体温とで、ドキドキが加速する。小さくなってじっとしていると、春日井さんの手が、私の借りた小説を正しい場所に戻した。ちらりと左右を見ると、人はいなかった。それを確認したうえで、ここに来てくれたのだろうか。もう恥ずかしくて後ろを振り返れない。胸のあたりで手をぎゅっと握りしめていると、その私の握りこぶしに春日井さんの手のひらが重なった。

え――?

触れた手の感触にドクンと胸が跳ねあがった。その手が私の握り締めていた手のひらをゆっくりと広げる。そして、その中に何か折りたたんだ紙のようなものを私に握らせた。

(じゃあ、後で)

さらに耳元で小さく囁かれて、肩をびくっとすくめる。でも、その次の瞬間には今の今まで感じていた気配がなくなっていた。咄嗟に顔を上げると、立ち去る春日井さんの背中があった。そして、深く息を吐く。

緊張した――。

胸を撫でおろしながら、手のひらにある紙を広げた。

”そろそろ仕事終わるから、あの海で待ってて”

そこに人がいなくて良かった。その文字を読む私 の顔は、絶対ににやけている。

 白い紙を握りしめて、ご褒美をもらった子供みたいに心の中で大はしゃぎしながら、海に向かう。夕焼けが綺麗な海岸は、もう既にその砂浜さえも茜色に染め始めていた。海の色も空の色も、幻想的なグラデーションを描く。その景色は、何度見ても圧倒されて、言葉を失う。海から吹く風が私の髪を揺さぶり絡ませるけど、そんなことどうでもよくなってしまう。
 砂浜に腰を下ろす。ただじっと目の前の海を眺めていた。いくらでも見ていられる。目の前に広がる景色は、刻々と変化していく。立てた膝に置いた腕に顎を載せ、ただひたすらに海を見ていた。

 どれくらい見ていただろうか。突然、私の肩にジャケットのようなものが掛けられた。

え――?

驚いて振り向くと、春日井さんがいた。そして、私の隣にすぐに腰を下ろす。

「春日井さん」

その姿を認めると、この頬が途端にふにゃりと緩む。

「寒くない? 風が少し強いな」
「ジャケット、春日井さんが寒くなっちゃいますよ――」

慌てて返そうとしたら、押し止められた。

「僕は大丈夫。女の人は冷えたらだめ。君の後姿、寒そうに見えた」

隣に座る春日井さんが、私を見る。

「そうですか? 海を見入っていたから気付かなかった……」
「そういう時こそ、身体は冷えていたりするんだから」

そう言うと、私の肩にジャケットをかけ直してくれた。

「……すみません、ありがとうございます」

あぁ、春日井さんの匂いだ。すごく温かく感じた。

「お仕事、お疲れ様です」

私も顔を横に向け、春日井さんの顔を見る。

「うん。でも、今日の仕事は楽しかった」

春日井さんも同じように膝を立て、私を見る。

「だって、未雨さんの顔見てたら飽きなくて。仕事しながら楽しかった」

"未雨さん"

やはり、そう呼ぶことに決めたみたいだ。

「楽しいって……」

こっちはほとんど春日井さんの姿を見ることは出来なかったのに、私が気付かないうちに見られていたのか。

「夢中になって本を読んでたね。真剣な顔になったり、しかめっ面になったり。途中、微笑んだり」
「そ、そんなに?」

そんなに顔に出ていたのだろうか。確かに、六十ぺージ読みふけっていた間、時間の感覚がまったくなかった。

「すごく――」

春日井さんの目が細められる。そして、手のひらが伸びて来て私の髪を撫でた。

「可愛かった」

だめです。その目は、ダメ――。

「か、可愛いとか、言わないでください」
「どうして?」
「可愛いとか言われる年齢ではありません」

その目を見続ける自信がなくて、顔を膝の上に突っ伏す。

「年齢なんて関係ないだろう? 可愛いものを可愛いと言って、何が悪いの」

その間も、春日井さんの手のひらが私の絡まった髪を優しく撫でる。

「君を見てると、顔も心も緩んで仕方がない。仕事中なのに、困ったよ」

その甘すぎる言葉に耐えられなくなって、勢いよく顔を上げる。

「昨日の仕返しですか!」

前の晩、春日井さんに「好きだ」と言いまくって、困らせた。その仕返しではないかと思えて来る。私の訴えに、春日井さんは一瞬きょとんとして、すぐに笑い出した。

「何それ。仕返しなんかじゃないよ。全部、僕の本心だ。どうしてそんな発想になるの」
「そんなに笑わなくても」

目の前でお腹を抱えて笑われると、いたたまれなくなる。

「本当に君は、僕を一体どうするつもりなの」
「どうって、どうしようとも思ってませ――」

笑っていたはずの春日井さんが、私を突然抱き寄せた。

「か、すがいさん……?」

唐突な春日井さんの行動に驚く。でも、その腕の力は強められるばかりだった。

「もう、僕は――」

春日井さんは、その続きの言葉を飲み込んだ。その代りに私をきつくきつく抱きしめた。

「何ですか……?」

聞き返しても、ただ私を抱きしめるばかりで何も言わない。

「春日井さん――」
「君は可愛い人だよ。笑ったり怒ったり僕をからかったり。僕にとって君は、可愛くてたまらない人だ」

私の頭を、背中を、あまりに強く抱きしめて痛いほどだ。その痛みさえ甘さに変わる。春日井さんに抱き締められると、それも、こんな風に強く抱きしめられると、胸が締め付けられるのと同時に嬉しくもなる。その強さの分だけ、私を想ってくれている気がするからだ。

 夜の街を走る電車に揺られて、窓の向こうを見つめる。

『来週は、僕が君のところに行くよ』

「今日帰ります」と行ったら、少し表情を変えて、春日井さんがそう言った。

本当はもっと一緒にいたかった。もう一日泊ろうと思えば泊まれた。でも、そうできなかった。何故か少し、怖かった。何が怖いのか。自分でもよく分からない。勝手に心の奥に漂う不安。流れて行く街並みは、もう海の街ではない。少しずつ私の住むごみごみとした街へと近付いて行く。得体の知れない不安が、私の中に消えずにずっとある。でも、それ以上に、また次会えることの嬉しさを感じていたい。窓ガラスに頭を預けて目を閉じる。





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