106 / 154
《その後》二人で見た海であなたを待つ
初めて感じるもの 7
しおりを挟む午前中に少し片づけをして、アパートを出た。海のすぐそばにあるファストフード店で昼食を済ませる。その後、春日井さんの勤める図書館へと向かった。
少し緊張しながら館内に足を踏み入れる。土曜日だ。やはり、来館者は多かった。春日井さんはいるだろうかと、ちらちらと視線を動かしながら、小説の書架に向かう。そこにたどり着くまでに見かけることはなかった。
適当に、好きな作家のエリアから小説を一冊抜き取る。そして、座れる場所を探した。ちょうど、館内一番奥の窓際に席があった。そこに腰掛けて、もう一度見回してみる。親子連れや、年配の人、一人で来ている私と同じ世代の人もいる。何人もいる人の中に、図書館の職員と思われる人がいて作業をしていたりした。あまりに見回していても怪しい。私は、机の上の小説を開き、プロローグから読み始める。好きな作家なだけあって、二ページほど読めば、もう引き込まれていた。
六十ページくらい読み進めた頃、少し肩の疲れを感じて視線を文字から上げる。その時、一人の女の人が視界に入って来た。意味もなくその人を視線で追うと、春日井さんにたどり着いた。
春日井さんだ――!
瞬間的に嬉しくなったのも束の間、カウンターに返却された本を台車に載せている春日井さんに、同じ職員と思われる女性が話し掛けているのを見て自分の表情が変わるのが分かる。多分、年齢は私と同じくらいだろう。明るめの髪を一つに束ねて、色白の肌の綺麗な人だった。何を話しているのかは分からない。ただ、その女の人と春日井さんが並んで立っている姿に、妙に心がざわざわとする。ちょっと、距離が近い気がする。何かの本を手にして、春日井さんを見上げている。その人の肩が完全に春日井さんに触れている。そんなに近付かなくても、聞こえるのに――なんて、思わず思ってしまった自分に苦笑する。
春日井さんは仕事中だ。同僚と仕事のことで話しているのを見て、面白くないなんて思うのは間違ってる。こうして、働く姿を見ることが出来る。春日井さんの、その女の人に対する表情はいたって真剣。まさに、仕事中の顔だ。そして、思う。私はあの人のことが本当に好きなんだなと。その柔らかな前髪も、優しげな目元も、肩も手のひらも。彼を作るすべてが、私のものなんだと思いたい。そんなことを思いながら見つめていると、不意に、春日井さんと目が合ってしまった。
じっと見てしまっていたことがばれてしまう。焦るように小説のページをめくる。でも、目が合った瞬間、春日井さんの表情が緩んだ。ほんの一瞬だったけれど、見逃さなかった。必死に文字を追う。今の自分の表情は、見られたくない。
それから少しして、窓から降り注ぐ太陽の光がオレンジに色付いて来た頃、私は席を立った。読んでいた小説を元の場所に戻そうと、手に取った書架に戻る。そして、この本のあった位置を探す。その時、背後に人の気配を感じた。後ろから腕が伸びて、私が手にしていた小説を掴んだ。驚いて、後ろを振り向くと春日井さんが立っていた。
「春日井さ――」
「しっ」
思わず上げてしまった声を、春日井さんが人差し指を口に当てて遮る。背中のすぐ後ろに感じる春日井さんの気配に、心拍数が上がる。公共施設で、後ろから囲われているみたいなこの体勢に、見つかるかもしれないという緊張と間近に感じる体温とで、ドキドキが加速する。小さくなってじっとしていると、春日井さんの手が、私の借りた小説を正しい場所に戻した。ちらりと左右を見ると、人はいなかった。それを確認したうえで、ここに来てくれたのだろうか。もう恥ずかしくて後ろを振り返れない。胸のあたりで手をぎゅっと握りしめていると、その私の握りこぶしに春日井さんの手のひらが重なった。
え――?
触れた手の感触にドクンと胸が跳ねあがった。その手が私の握り締めていた手のひらをゆっくりと広げる。そして、その中に何か折りたたんだ紙のようなものを私に握らせた。
(じゃあ、後で)
さらに耳元で小さく囁かれて、肩をびくっとすくめる。でも、その次の瞬間には今の今まで感じていた気配がなくなっていた。咄嗟に顔を上げると、立ち去る春日井さんの背中があった。そして、深く息を吐く。
緊張した――。
胸を撫でおろしながら、手のひらにある紙を広げた。
”そろそろ仕事終わるから、あの海で待ってて”
そこに人がいなくて良かった。その文字を読む私 の顔は、絶対ににやけている。
白い紙を握りしめて、ご褒美をもらった子供みたいに心の中で大はしゃぎしながら、海に向かう。夕焼けが綺麗な海岸は、もう既にその砂浜さえも茜色に染め始めていた。海の色も空の色も、幻想的なグラデーションを描く。その景色は、何度見ても圧倒されて、言葉を失う。海から吹く風が私の髪を揺さぶり絡ませるけど、そんなことどうでもよくなってしまう。
砂浜に腰を下ろす。ただじっと目の前の海を眺めていた。いくらでも見ていられる。目の前に広がる景色は、刻々と変化していく。立てた膝に置いた腕に顎を載せ、ただひたすらに海を見ていた。
どれくらい見ていただろうか。突然、私の肩にジャケットのようなものが掛けられた。
え――?
驚いて振り向くと、春日井さんがいた。そして、私の隣にすぐに腰を下ろす。
「春日井さん」
その姿を認めると、この頬が途端にふにゃりと緩む。
「寒くない? 風が少し強いな」
「ジャケット、春日井さんが寒くなっちゃいますよ――」
慌てて返そうとしたら、押し止められた。
「僕は大丈夫。女の人は冷えたらだめ。君の後姿、寒そうに見えた」
隣に座る春日井さんが、私を見る。
「そうですか? 海を見入っていたから気付かなかった……」
「そういう時こそ、身体は冷えていたりするんだから」
そう言うと、私の肩にジャケットをかけ直してくれた。
「……すみません、ありがとうございます」
あぁ、春日井さんの匂いだ。すごく温かく感じた。
「お仕事、お疲れ様です」
私も顔を横に向け、春日井さんの顔を見る。
「うん。でも、今日の仕事は楽しかった」
春日井さんも同じように膝を立て、私を見る。
「だって、未雨さんの顔見てたら飽きなくて。仕事しながら楽しかった」
"未雨さん"
やはり、そう呼ぶことに決めたみたいだ。
「楽しいって……」
こっちはほとんど春日井さんの姿を見ることは出来なかったのに、私が気付かないうちに見られていたのか。
「夢中になって本を読んでたね。真剣な顔になったり、しかめっ面になったり。途中、微笑んだり」
「そ、そんなに?」
そんなに顔に出ていたのだろうか。確かに、六十ぺージ読みふけっていた間、時間の感覚がまったくなかった。
「すごく――」
春日井さんの目が細められる。そして、手のひらが伸びて来て私の髪を撫でた。
「可愛かった」
だめです。その目は、ダメ――。
「か、可愛いとか、言わないでください」
「どうして?」
「可愛いとか言われる年齢ではありません」
その目を見続ける自信がなくて、顔を膝の上に突っ伏す。
「年齢なんて関係ないだろう? 可愛いものを可愛いと言って、何が悪いの」
その間も、春日井さんの手のひらが私の絡まった髪を優しく撫でる。
「君を見てると、顔も心も緩んで仕方がない。仕事中なのに、困ったよ」
その甘すぎる言葉に耐えられなくなって、勢いよく顔を上げる。
「昨日の仕返しですか!」
前の晩、春日井さんに「好きだ」と言いまくって、困らせた。その仕返しではないかと思えて来る。私の訴えに、春日井さんは一瞬きょとんとして、すぐに笑い出した。
「何それ。仕返しなんかじゃないよ。全部、僕の本心だ。どうしてそんな発想になるの」
「そんなに笑わなくても」
目の前でお腹を抱えて笑われると、いたたまれなくなる。
「本当に君は、僕を一体どうするつもりなの」
「どうって、どうしようとも思ってませ――」
笑っていたはずの春日井さんが、私を突然抱き寄せた。
「か、すがいさん……?」
唐突な春日井さんの行動に驚く。でも、その腕の力は強められるばかりだった。
「もう、僕は――」
春日井さんは、その続きの言葉を飲み込んだ。その代りに私をきつくきつく抱きしめた。
「何ですか……?」
聞き返しても、ただ私を抱きしめるばかりで何も言わない。
「春日井さん――」
「君は可愛い人だよ。笑ったり怒ったり僕をからかったり。僕にとって君は、可愛くてたまらない人だ」
私の頭を、背中を、あまりに強く抱きしめて痛いほどだ。その痛みさえ甘さに変わる。春日井さんに抱き締められると、それも、こんな風に強く抱きしめられると、胸が締め付けられるのと同時に嬉しくもなる。その強さの分だけ、私を想ってくれている気がするからだ。
夜の街を走る電車に揺られて、窓の向こうを見つめる。
『来週は、僕が君のところに行くよ』
「今日帰ります」と行ったら、少し表情を変えて、春日井さんがそう言った。
本当はもっと一緒にいたかった。もう一日泊ろうと思えば泊まれた。でも、そうできなかった。何故か少し、怖かった。何が怖いのか。自分でもよく分からない。勝手に心の奥に漂う不安。流れて行く街並みは、もう海の街ではない。少しずつ私の住むごみごみとした街へと近付いて行く。得体の知れない不安が、私の中に消えずにずっとある。でも、それ以上に、また次会えることの嬉しさを感じていたい。窓ガラスに頭を預けて目を閉じる。
0
あなたにおすすめの小説
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる