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《その後》二人で見た海であなたを待つ

初めて感じるもの 8

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 翌週は、週始めから忙しかった。業務の関係と、日程が近付いて来た仙台に赴任する篠崎さんの送別会の準備、その両方に追われていた。私が幹事を務めるのだ。

「――糸原さん」
「はい」

総務からの帰り、廊下を歩いていると田中さんに声を掛けられた。


「篠崎の送別会の店、下見に行った?」
「今週末の金曜日、退社後に行こうと思ってるんです」

廊下を並んで歩く。長身の田中さんはいつも歩くのが早い。でも、それを感じなかった。

「今週末か……。じゃあ、俺も行くよ」
「田中さん、幹事じゃないんですから。そんなことしていただいては申し訳ありません。打ち合わせと言っても、座敷の確認くらいですから、私一人で大丈夫です!」

つい、いつもより大きな声になってしまった。それを驚いたように田中さんが見ている。

「申し訳ないことないよ。何より篠崎の送別会なんだから。俺だって、何かしたいし」
「そう、ですよね……」

確かに田中さんは篠崎さんと一番親しい。自分も何か手伝いたいと思うのは普通だろう。それを拒否する権利は私にはない。

「そういうこと。じゃあ、金曜日、退社するとき声かけて」
「はい」

私がそう返事すると、安心したように田中さんが前を向いた。

「花束とか、準備する?」
「はい。でも、男の人だし、引っ越しもあるだろうから、花束じゃない方がいいかなとも思って」
「そうだな。俺も何か考えてみるよ。篠崎にも何か欲しいものがあるか探り入れてみる」
「ありがとうございます。助かります」
「おう」

田中さんが、どこかぎこちなく微笑む。

「それで、その日だけどさ。下見がてらその店で――」
「糸原さーん」

田中さんが何かを言いかけた時、廊下の向こうから向井さんが歩いて来るのが見えた。向井さんは、時と場所に応じて私の呼び方を変える。向こうから歩いて来た向井さんと、私たちとで立ち止まった。

「今、ちょっといい?」

向井さんが私にそう言ったので、慌てて隣にいる田中さんに顔を向ける。

「ーー田中さん。じゃあ、金曜日よろしくお願いします」

私が田中さんに頭を下げると、向井さんが「話しているところ、ごめんね」と田中さんに声を掛けていた。

「べ、別に。もう話は終わったから。じゃあ」

そうどこかぶっきら棒に言うと、田中さんはさっさと立ち去ってしまった。

「――なんか、邪魔しちゃったかな?」
「え?」

向井さんがニヤリとして私を横目で見る。

「まあ、それは糸原さんのではなく、”田中さんの”だけど」

ひとり言みたいに言う向井さんを不思議に思い、その顔を見つめる。

「どういう意味ですか?」
「いや、私が来た途端、田中さんの表情が分かりやすいほどにがっかりしたから」
「なんで向井さんが来たからと言って田中さんががっかりするんですか? 変なこと言わないでください。それより、向井さんも篠崎さんの送別会来てくださるんですよね?」
「うん。行くよ。篠崎さんとは二年一緒に働いたしね。それはおいといて、今度、また夕飯行かない? それで引き留めたのよ」

向井さんがにっこりとする。

「もちろんです!」
「じっくり、”春日井さん”のこと教えてよ! 再会後、どれだけ燃え上がってるのかさぁ。だって二年も会いたくて会えなかった人でしょ? もう、心も身体も燃え上がるよね――」
「ちょ、ちょっと、やめてください!」

向井さんの口を押えて、周りを見回す。

「何よ、そんなに照れなくても。いい大人なんだしー。基本、他人の恋愛のノロケ話なんてまったく聞きたくもないんだけど、何故かあなたのは違うんだよね。どうしてだろう。なんか応援したくなるんだー」
「それはありがたいのですが、こんなところでする話ではないので」
「はいはい。じゃあ、夜、お酒でも飲みながらゆっくり」
「分かりましたからっ!」

それでもまだニヤニヤとする向井さんの背中を押した。


 金曜日がやって来た。今週になって入って来た面倒な仕事も今朝には収束していた。そのおかげで、定時から三十分ほどで退社することが出来た。

「もう、出られますか?」

斜め向かいに座る田中さんに声を掛ける。

「準備できてるよ」

すぐに立ち上がった田中さんは、既に鞄を手にしていた。

「行くか」
「はい」

慌てて私もバッグを手にした。

 田中さんの後ろに付いて、オフィスビルを出る。以前より自然に話すようにはなったとは言え、こうして二人で出かけたことはないということに気付く。やはり、少し緊張する。

「糸原さん」
「は、はいっ」

突然振り返った田中さんを見上げる。

「二人で行くならタクシーの方が安いかも。タクシー乗るか」
「はい――」

そう返事した時には、もうタクシーを止めていた。仕事でもそうだが、こういうことでも田中さんは決断が早いみたいだ。田中さんの後に続いてタクシーに乗り込んだ。行先を運転手に告げると、田中さんはふっと息を吐いてシートに背を深く預けていた。

「今日はすみません、付き合ってもらって」

車が走り出して、隣に座る田中さんにそう言った。

「別に特に予定もないし、いいよ」

ネクタイを緩めながら私をちらりと見た。

「ありがとうございます」

その後、田中さんはずっと窓の外を見ていたまま黙っていた。

 店に着くと、ほとんどと言っていいほど田中さんが店側と交渉をしてくれた。

「――何から何まで、ありがとうございます」

打ち合わせを終えた後、田中さんに頭を下げた。

「糸原さんが、だいたいの打ち合わせを店側と済ませてあったからスムーズに行ったんだろ」

店側が提案していた座敷より、参加人数から考えてもう少し広い部屋へと、田中さんが交渉してくれた。貸し切りの時間も田中さんの粘りにより三十分延長してもらうことも出来た。

「いえ! 私一人じゃ、こんなにいろいろ有利に交渉出来なかったと思います。本当にありがとうございました」
「――そんなにありがとうって言うなら、お礼して」
「え?」

田中さんを見ると、どこか視線を泳がせている。

「下見にせっかく来たんだから、味見もしていこうぜ」
「味見って――」
「だから、ここで飲んで行こうってこと!」

何故か大声を上げた田中さんに、びっくりする。

「えっと……」
「別に、下見の一環だよ。それにどうせ夕飯これからだろ? どの酒がイケるとかどの料理が美味しいとか、知っていた方が幹事としてはいいんじゃないかってこと。女一人で居酒屋で飲むわけにはいかないだろうが。だから俺が付き合ってやるから」
「でもーー」
「な、なんだよ」

私がつい笑ってしまうと、怪訝な目を私に向けて来た。

「それではお礼にならないような気がして」
「細かいことは気にするな。さ、行くぞ」

田中さんはさっさと私に背を向けて、店員さんに二人分の席を頼んでいた。

「――で、最近どう。仕事は」
「え?」

週末の金曜日とあって、店内は混みあっていた。かろうじてあいていたカウンター席に隣り合って座っていた。生ビールで軽くジョッキを合わせたあと、田中さんがそんなことを言い出した。

「だから、仕事はどうなんだって」
「あの、でも、いつも同じ仕事をしているじゃないですか」
「あ、まあ、そうか」

そう言ったかと思えば、突然ジョッキの生ビールを飲み干した。それは、まだ二口目だというのに。

「その、なんだ。糸原さんとは、糸原さんの入社以来の付き合いなのに、こうして二人だけで話すのは初めてかもな」
「そうですね。最初の頃の私は、決していい後輩ではなかったと思います」

ふふっと笑って、私もジョッキに口を付けた。

「まあ……。正直に言うと、かなり気に食わなかった。新入社員のくせに人と関わろうとはしない、飲み会には来ない、人の目は見ない。それでいて、いつもどこか怯えていて。こっちが何か悪いことをしているような気にさせられて」

樹に、人と関わることを極度に制限されていた。また私も、それをそのままに行動していた。自分であって自分じゃないようで。でも、樹だけのせいにも出来ない。結局、樹の言う通りにしようと決めたのは自分なのだから。

「本当に、皆さんにはご迷惑をかけていたと反省しています」
「でも、糸原さんはここ二年くらい変わった。多分、本当の糸原さんはこっちなんだろうな」

頬杖をついている田中さんが私を見た。

「変わったからと言って、それまでしてきたことがなかったことになるわけではありません。なのに、皆さんが受け入れてくれて。本当に感謝しています」

そう言うと、何故か田中さんが私から視線を逸らし、店員さんに生ビールをもう一つ注文していた。その注文したビールが届くと、またも一息に飲み干してしまった。

「糸原さんさ――」

そうして口を開いた田中さんの声のトーンが少し変わる。

「その……結婚生活、結構、辛かったの?」

その目を見れば、興味本位で聞いているようなものではないと分かる。だからこそ、言葉に詰まった。

「いや、結婚した君の年齢もあるし、期間のこともある。それに、離婚してから明るくなったし。その結婚はいろんな事情があったものなのかとか、そもそも辛い結婚生活だったのかな、なんて思ってさ」

こういう場合、なんと答えるのが良いのだろうか。ただの同僚に何もかもを話す気にはなれない。

「いや、別に、答えなくていいんだ。ただ、たった一度のその短い結婚で、結婚は懲り懲りとか思ってほしくないなって」
「……え?」
「相手が変われば、結婚だって違うものになる。案外いいものかもしれない――なんて、俺、何言ってんだろうな。別に、経験者でもないのに、おかしいな」

今度は笑って、またジョッキを口にした。

「あ、もう空じゃねーか。すみませーん、生一つ!」

それを誤魔化すように店員さんに叫んでいた。そんな田中さんを見て、笑みを零してしまう。

「――ありがとうございます。大丈夫です、結婚は懲り懲りなんて思っていませんから」

私は、この先の春日井さんとの未来に結婚があってほしいと思っている。春日井さんと家族になりたいのだ。

「そ、そうか。なんだ、それなら良かったよ。良かった、良かった」

何度も「良かった」と繰り返す田中さんを不思議に思いつつ、「はい」と私も答えた。


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