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《その後》二人で見た海であなたを待つ
誰より近くに 2
しおりを挟むいつもより少し早い時間だったけれど、電話を掛けたらすぐに春日井さんは出てくれた。
(そろそろ掛けようと思っていたんだよ)
その声を聞くと、やっぱり落ち着く。
「今日は、私から電話したいなって思ったんです」
(どうしたの? 何かあった?)
「ううん。早く声が聞きたいと思っただけです」
(……そう)
話をしているだけで、勝手にこの顔は緩んでしまうのだ。
「今、照れてるでしょう?」
(そんなことは……あるかな)
春日井さんに何か辛いことがあったのだとしても、私といる時は忘れていられるように。出来る限り笑わせてあげたい。
(未雨は本当に、僕をからかってばかりだ)
”未雨”
本当に呼んでくれている――。
春日井さんは優しいと思う。私が願えば、そうしようとしてくれる。
「太郎さんにだけだって言ったでしょう?」
(そうか、僕が君をそうさせてるんだ)
そう言って春日井さんが笑う。
(……あのさ)
笑っていたと思ったら、改まったような声が耳に届いた。
「なんですか?」
(十一月の最後の日曜日なんだけど、夜、少し会えないかな)
どこか緊張しているように聞こえた。十一月最後の日曜日――三週間後のことだ。
(その日、用事があって仕事休みを取ってあるんだ。だから、昼間は会えないんだけれど、その用事を終えた後、会えないかな)
「あ……すみません。次会った時にでも話そうと思っていたんですが、その日、同僚の結婚式の二次会に招待されていて。それがちょうど夜開始なので、ちょっと無理そうなんです」
二次会なせいか、開始時間は夜の七時半となっていた。終わった後に会っても、かなり遅い時間になってしまう。私は次の日も仕事だし、ここに来てもらってもほとんど時間がない。でも、春日井さんから”会いたい”と言って来てくれた。
だったら――。
言ってしまった後に違う思いが浮かび、口を開いた。
「あの、でも、やっぱり、ほんの少しの時間でいいなら――」
(いや、予定があるならいいんだ。君は次の日、仕事だもんな)
春日井さんは、ひときわ優しげな声でそう言った。その声がいつもよりも優しく聞こえて、余計に心に残った。
だからだろうか、次の週末に春日井さんに会った時、私は言ってしまった。
「一緒に、暮らしませんか……っ!」
こうして会えるのは、私が休みの週末だけで。その上、お互いの仕事が休みの日が合わないから、会えても一緒に過ごせる時間は短い。その週末に何か予定が入ってしまえば会えなくなる。互いの住む場所も離れていて、少し顔を見るなんてことも出来ない。ベッドの中ですぐ隣にいる春日井さんに、意を決して告げたのだ。
「未雨……」
驚いたような、そしてどこか困惑したような目に、春日井さんから吐かれる言葉を聞きたくないと咄嗟に思う。だから、必死になって言葉を尽した。
「春日井さんは住む場所を変えたりしなくていいです。せっかく図書館の近くに住んでいるんだもん。私がそっちに行けばいいだけのこと。それにね、私、あの海が本当に好きで。毎日見られたらどんなにいいかなって思ってたんです。一緒に暮らせるなら、住む部屋なんてどこだって構わない。春日井さんさえよかったら、今住んでいるアパートで一緒に暮らしたっていい――」
「ちょっと、待って」
息つく間もなく喋り続ける私の手を、春日井さんが握りしめる。その手が優しく落ち着いたものだから、笑顔でいたつもりの表情が歪んでしまいそうになる。
「少し、落ち着こうか」
そう言って、私の手を握りしめたまま身体を起こし、私を見下ろした。
「私は落ち着いてます」
「でも、七里ヶ浜から会社に通うの? それは、大変だよ」
「通えないことなんてないです。電車で一時間半程度。この前も、仕事の後にここに来ました」
「毎日のことだ。通勤だけで疲れてしまう」
「通勤のことなんて、重要なことじゃない。私と、あなたが一緒にいることが大切で――」
どうして、「うん」と言ってくれないんだろう。
春日井さんは、私と一緒に暮らしたくないの――?
「急にどうしたの? そんなことを言い出したのには、何か訳があるんじゃない?」
春日井さんが私の髪を撫でながら、顔を覗き込んで来る。
訳なんて、そんなもの――。
「私は、ただ一緒にいたいだけです!」
春日井さんの手を振り払い、私はベッドから飛び出した。
「未雨……っ!」
それ以上否定の言葉を聞きたくなくて、その理由を知りたくなくて、春日井さんから顔を背ける。
逃げる場所なんてないから、狭いキッチンで春日井さんに背を向けて立つ。明かりのついていない部屋は薄暗くて、静かで。余計に私の行き場をなくす。
「未雨……」
「ただ、会いたくて。もう離れているのが嫌なんです。春日井さんは、違うの……?」
私は、ただ春日井さんのそばにいたいのだ。すぐ背後に気配を感じる。でも、振り返ることができない。
こんな気持ちになっているのは、私だけなのか。こんなにもそばにいたいと思っているのは、私だけ――?
「未雨、聞いて――」
「嫌です。聞きたくない……っ」
春日井さんの手が私の肩に触れた瞬間に逃げようとした私を、後ろから抱きしめる。それでも、春日井さんの言葉は聞くのが怖くて。その腕の中で何度も身体を捩り、逃れようとした。
「未雨!」
春日井さんの腕の力の方が強くて逃げられない。だから私は、声を張り上げていた。
「春日井さんにもしも何か起きても、一緒に暮らしていれば私のところに帰って来てくれる。あなたが、真っ暗な夜に辛い夢を見て目を覚ましても、私が隣にいて手を握ってあげたい。もう何があっても一緒だって、春日井さんに、そう思ってもらいたいの……っ!」
「未雨……」
辛い時にはいつも私がそばにいたい。私も春日井さんにいてほしい。二人でいたいだけだ。こんなところで泣いたりしたくないのに、悔しくて込み上げる。それを知られたくなくて、私はその場に座り込んだ。私を囲っていた腕がそのまま私を抱きしめる。背中に感じる春日井さんの体温に、また結局泣きたくなる。後ろから私の首筋に顔を埋めるみたいに、ぎゅっと抱きしめられる。
「一緒にいたいんです。ただ、それだけ――」
そう涙にまみれた声が漏れた時、春日井さんの手が私の顎に触れ上に向かされたと思ったら唇を塞がれていた。突き動かされたみたいな唇の激しい動きに、私はまた涙がこぼれた。
その唇が激しく私の唇をこじ開けて。深く深く入り込んで私をじっとさせる。顎にあった大きな手のひらはいつの間にか私の髪に入り込んで、頭を支える。長く続くキスに、不安になって、そっと目を開く。そこには、苦しげに眉を寄せて目を閉じている顔があった。そんなに苦しそうな顔をしながらキスをしていたのだ。触れる手のひらも、激しい唇でさえも、私を思い遣る優しさを感じるのに、どうしていつも春日井さんはそんなにも苦しそうなのだろう。
私が見つめてしまっているのに気付いたのか、春日井さんが乱れた吐息を零しながら唇を離した。そして、私の両頬を手のひらで支えながら額を合わせる。
「ごめん。もう泣かせないって言ったのに、また泣かせた」
私は頭を横に振る。大きくて少しざらついた手のひらが私の顔を慈しむみたいに包み込む。
「――本当に、僕はどうしようもないな」
「どんな春日井さんだっていいです。だって、春日井さん言いました。『もう僕のものだから』って。そうなんですよ。私は春日井さんのものです。だから、どんな春日井さんだって一緒にいるんです」
「君は、優しいな……」
そう囁いた言葉が、何故か私の胸に落ちて残る。
――君は、優しい。
その言葉に、どんな思いが込められていたのか。もっと、私は深く考えるべきだった。
「優しすぎるよ。だから、君は苦労ばかりする。誰かに傷付けられてばかりになる――」
そう絞り出すように吐かれた言葉は、再び重ねられた唇に飲み込まれる。
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