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《その後》二人で見た海であなたを待つ
誰より近くに 1
しおりを挟む春日井さんに、何かあったのだろうか――。
東京に戻ってからも、そればかりを考えている。土曜日、図書館に出掛ける前と後で明らかに様子が違った。おそらく職場で何かがあった。笑っていても、どこか辛そうで。スマホのディスプレイに写る二人の写真を見つめながら、もう何度溜息を吐いたか分からない。私が間抜けな表情をしている横で、私のお願いした通りにカメラ目線の春日井さんがいる。微笑んでくれているのに、その目はとても遠くを見ているみたいだった。
あの日、海岸に行く前に、私は図書館に出向いていた。どうしても、元気のなかった春日井さんが気になって。ほんの少し様子を垣間見ることができたらと、この足が向かってしまったのだ。
「あの……」
春日井さんには見つからないようにと、エントランスの端から様子をうかがっていたら、突然背後から声を掛けられた。怪しいと思われたのかと「すみません」と即座に言ってしまっていた。そうして振り返ると、一度だけ見た覚えのある女性が立っていた。記憶を手繰り寄せれば、すぐに分かった。この図書館で、春日井さんと一緒に働いていた若い女性だった。
でも、この人と私の間に面識はない。どうして私に声を掛けるの――?
疑問と不安で身体が強張った。その人は、私の顔をじっと見るだけで何も言わない。視線が、私の頭から爪先まで、観察するように見続けている。彼女は図書館の人だ。こんなところで中をうかがうように立っている人を見て、どうかしたのかと気になって声を掛けに来たのかもしれない。そう思いなおして、すぐに頭を下げた。
「すみません、何でもないので」
そう言って、その人の前から立ち去ろうとした。
「あなたは、春日井さんの――」
それなのに、その人の声が私を止める。そして、足を止めてしまった自分に後悔しても、もう後の祭りだ。図書館の人には、私と春日井さんの関係はきっと知られない方がいい。少なくとも、春日井さんの許可もなく勝手なことは出来ない。どう言葉を返すべきかと必死に答えを探していると、相手の方から先に言葉が放たれた。
「すみません、何でもないです」
え――?
思わず振り返ると、その人は私の前から小走りで立ち去った。訳が分からなかった。私の顔を見た上で、"春日井"という名前を彼女は確かに口にした。私はあの人の名前すら知らない。気になって仕方がなくても、その意図が分からないから、春日井さんに結局はっきりとは聞けなかった。訳が分からないのに、一つの仮定だけはどうしても消えないのだ。
あの、色白で小柄な女性は、春日井さんのことを同僚以上の目で見ているのかな――。
私はまた、溜息を吐いていた。毎日会えなくても、いつもそばにいられなくても、春日井さんの心の一番近くにいるのは、私であってほしい。
私の知らない春日井さんを、あの人が知っているのだとしたら――。
そう思うと、言いようのない苦い痛みが襲う。
「――また、今、溜息を吐いただろ」
斜め前の席から、声が飛んで来る。時計を見ると、ちょうど定時を過ぎたところだった。
「すみません」
このまま仕事をしても、大した成果はあげられないだろう。そう思って、作業を切りあげる。幸い、急ぎの仕事はない。
「無事、送別会も終わったし、疲れでも出たんじゃないのか?」
「そんなことはないんですが、今日は早めに切り上げます」
開いてあるファイルを保存して、パソコンの電源を切った。ノートパソコンを閉じて帰り支度をしようとした時、なぜか田中さんが私の横に来ていた。
「あの送別会、すごくいい会だった。糸原さん、送別会の席でもよく頑張っていたもんな」
私を見下ろす田中さんの表情が、見たこともないほど柔らかなもので少し驚く。両隣の席の社員も、向かいの席の社員も、皆席を外していたところだった。
「い、いえ。幹事でもないのに、田中さん、物凄く手助けしてくださって。心強かったです」
金曜日にあった送別会で、幹事の私が何か困りそうになったり手一杯になりそうになった時、さりげなく田中さんが手を貸してくれていた。そのおかげで、特にトラブルもなく送別会を終えられたのだ。
「俺は何も。篠崎も糸原さんのこと、褒めていたし感謝もしていたよ」
「……そう、ですか」
篠崎さん――送別会の主役だ。その名前を聞いて、少し気が重くなる。送別会の後、篠崎さんに言われたことを思い出す。『今日はありがとう。楽しい会だった』と、お礼を言われ、私は安堵した。主役本人に言われることが一番嬉しいし、心底、ホッともした。でも、篠崎さんの言葉はそれでは終わらなかった。
『――糸原さんって、罪作りな人だよね』
不意に篠崎さんの身体が近付いて来たことに驚いていると、そう耳元で囁かれた。
『”私何も知りません”みたいな清純な雰囲気を醸し出しておいて、何か意味ありげなものを滲み出してる。そういう、二面性みたいなものに男は弱いから。現に君、その年でバツイチでしょう?』
この人は、一体、何が言いたいの――?
思いもしなかった篠崎さんからの言葉に身体が固まる。
『思わせぶりな態度を取って、男をそそのかさない方がいい。純情な男を、傷付けないでやってくれ』
ちょっと、待ってください――。
思わせぶりとは、何だろう。その言葉がひっかかり反論しようとした。でも、私の声が届く前に、不敵な笑みを浮かべた篠崎さんは田中さんの元へと行ってしまっていた。
私の何かが、人に不快なものを与えている――。
それも、女として何か汚らわしいもの。気にしなければいいのに、私が思う以上にショックを受けている自分がいた。
そんな時、春日井さんの優しく穏やかでまっさらな笑みが浮かんで。春日井さんのそばにいると、過去の自分なんて忘れて、初めて恋した女みたいな気持ちになれる。早く会って、抱き締められたい。そう思ったら、もう、あの人の元に走っていた。
どんな私でも、淫らで汚らわしい私でも、嫌いにならないで――。
そんな私の歪んだ感情もまるごと春日井さんは抱きしめてくれた。だから私にも春日井さんの全部を受け止めさせてほしい。どんなことだって分かちあいたい。
「――だからさ、篠崎の友人として、君にお礼がしたいって言うか、ご馳走したいと言うか。ちょっとした打ち上げも兼ねてってことで飯でも行かない?」
私に向けられた田中さんの目に気付いて、慌てる。
「 打ち上げって何の打ち上げですか?」
田中さんの話を半分くらいしか聞いていなかった。取り繕うように、そう聞き返す。
「だから! 送別会のだよ! 糸原さんの幹事お疲れさん会だ!」
大きな声で言われて思わずのけぞる。
「田中さん、何を大きな声出してるんですか」
席に戻って来た私の隣の席の女子社員が、訝しげに田中さんを見ていた。
「ああ、何でもねーよ。じゃあ、糸原さん、考えといて」
「え……っ?」
何故か少し苛立ったように田中さんが席に戻って行った。
「何あれ。田中さん、どうしたの?」
「さぁ……。じゃあ、私、お先に失礼します」
女子社員と言葉を交わしてから、私は席を立った。
今日は、私から春日井さんに電話をしよう――。
そう心の中で決める。
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