雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

誰より近くに 8

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「――背中、痛くない?」
「うん。大丈夫」

穏やかになった声が、私の背中の上で震える。ベッドに運ばれ横たえられて、その隣に腰掛けた太郎さんが、私の背中に唇で触れた。玄関先で身体を繋げたその行為が、今更ながらに蘇る。

「……今日は、ごめん」

背中から顔を上げて、私を見下ろす。その目はやっぱりどこか歪んでいた。

「何がですか?」
「突然来たことも、こんなふうに君を、乱暴に抱いてしまったことも……」

身体を起こし、太郎さんに向い合う。

「大丈夫です。太郎さんは、ちゃんと優しかった。それより、私の方こそごめんなさい」

胸に毛布を当てながら、頭を下げる。

「いいんだ――」
「ううん。ちゃんと、説明させて」

私が真っ直ぐに太郎さんを見つめると、ぎこちなく頷いた。

「私がバカでした。何も気付けなくて、無防備に接してしまっていた。先輩が男の人だってことを意識していなくて、その気持ちを想像もしていなかったんです」

何年も顔を合せてきた。その中で、田中さんの中にあった変化に私はまるで気付くことが出来なかった。もっと敏感になるべきだった。誰かとの適度な距離感というものがどういうものなのか、分からずにいた。人と関わり合うことが、自然に出来るようになった自分がどこか嬉しくて。気付けば、疎くなってしまっていたのかもしれない。

「さっきの人は、会社の人……?」

太郎さんが、あくまでも穏やかに私に問い掛ける。その声の静かさに、私はただただ申し訳なさが溢れて来る。

「はい。それで、今日の二次会にも来ていて、家が近いからと傘を失くした私を送ってくれて。いつもお世話になっている会社の先輩なんです。だから、まさかって。でも、私の考えが足りなかった。だから、あんな風に不用意に触れられたりしてしまったんです。これからは気を付けます。もっと慎重になります。ごめんなさい」

太郎さんがふっと息を吐くと、手のひらが私の頭の上に載った。

「君はきっと、何も悪いことをしていないんだ。ある意味、こういうことは仕方がない。君は普通にしていても、君を好きになってしまう男がいるだろう。好きになれば、欲しいと思う。あの人もきっと、毎日君を見て、君への想いを募らせた。僕も男だから気持ちは分かるよ。頭では分かるけど、でも、実際目の当たりにすると結構きついもんだね」

太郎さんが苦笑した。

「男なんて、本当に馬鹿な生き物だな。こんな風に衝動にかられて君を抱いてしまうんだから。こんなにたくさんの痕まで付けて。くだらない所有欲に襲われる。君は誰かの所有物なんかじゃないのにな」

太郎さんの指が私の肌に触れる。そこに視線をやると、胸元から肩に掛けて、おびただしい数の痕が散らばっていた。

「でも……どれも、服に隠れるところばかりですよ?」

私がそう言うと、太郎さんが私から視線を逸らした。

「たまたまだよ」
「私は良かったのに。見えるところに付けてくれても。私は太郎さんのものだもん。私がそうなりたいんだから、あなたの所有欲だけじゃない。ねえ、太郎さん――」

そっと手を伸ばし、太郎さんの頬に触れる。

「私に会いに来てくれた理由、教えてくれませんか? 何かあったんですよね……?」

太郎さんの目が伏せられて、そして、弱り切った笑みを見せた。

「――これまではね、毎年、一人でその日を超えて来たんだ。どれだけやるせなくても、孤独でも、気が遠くなるような苦しみでも耐えて来たのに、何故かな。君の顔ばかり浮かんで、どうしても会いたくなった」

私から顔を逸らしたその横顔は、深い悲しみを奥に潜ませている。

「今日は、僕の弟が命を奪った子と僕の弟の命日だった」

その静かな言葉に、私は固まる。ただ、馬鹿みたいに固まった。

「……私、何も気付けなくて、何も知らずに――」
「僕が言わなかったんだから、そんな顔しないで」

太郎さんの頬に触れようとした私の手を取り、優しく握りしめる。

「どうして、太郎さんは私に何も言わなかったの……?」

そんな大切な日だと知らずに、私は――。

身体中が冷え切って行く。

「今日を終えたら話すって言っただろう? せっかくのお祝いの場なんだ。君には心から楽しんでほしかった」
「太郎さんのそういうところ、すごく優しいと思うけど、それでも私は言ってほしかった……っ」

二次会を楽しむことなんて、そんなことどうだっていいことで。太郎さんが一人で重い重い過去に向き合う日に、知らないでいたことの方が、私はずっと辛いのに。俯く私に、太郎さんの手が私の頬に触れる。

「ごめん」

そう囁いて、私を胸に抱いた。

「今からちゃんと話すから、聞いて」

胸から伝わる静かな声に、ただ耳を澄ませた。

「僕の弟が殺してしまったのは、僕の弟とちょうど同じくらいの歳の男子中学生だった。その日に、弟も自ら命を絶ったから、命日が同じなんだよ」

太郎さんが私の前から突然いなくなったあの高校生の時、あれは、十一月の終わりだった。

「唯一の弟の親族として僕が遺族に出来ることなんて何もなくて。それで毎年、僕は命日に遺族の元を訪れている」
「じゃあ、今日も……?」
「ああ。でも、そうすることで遺族が救われるわけじゃない。死んだ人間が帰って来るわけでもない。訪ねて行っても、線香をあげることも手を合わせることも許されない。それでもこの九年、毎年訪ね続けているのは、もうただの僕の自己満足なのかもしれない」

そう言うと、太郎さんの身体が強張ったのに気付く。

「今日、何か辛い目に――」

思わず出た私の言葉をなだめるように、太郎さんが口を開いた。

「許されたいだなんて願うことは間違ってる。僕は一生許されてはいけないんだと思って来た。それがせめてもの償いだって。だからこそこれまで僕は、耐えられたのかもしれない。だけど――」

そこで言葉を詰まらせた太郎さんに、私は咄嗟にその手を握った。そうせずにはいられなかった。

「僕は今日、初めて、許されたいと思ってしまった」
「太郎さん……」

何かを振り切るように、太郎さんが言葉を紡ぐ。

「許されたいなんて思って会いに行くことが、どれだけ身勝手なことか。遺族は一生救われることなんてないのに」

今日訪ねた先で、どんな言葉を掛けられたのだろう。どんな思いを抱えて、ここに来たのだろう――。

「ずっと、遺族の立場に立とうと思って来た。自分じゃない、一番辛いのは子どもを失った家族だと。そして、まだまだ未来があったはずのあの子だって。僕という人間が傍にいながら、弟にあんなことをさせてしまった僕が、何かを望む資格はないって。これまではずっと、そうやって一人で全部抱えて来た。そうやって来れたのに。今日の僕は、苦しくて耐えられなくなった。弟の墓に行ったら、そんな感情がどうにもならなくなって、それで、こんな風に突然君のところに来たりして。君に、すがりたくなったんだ」

感情を昂ぶらせて言葉を吐き続ける太郎さんがあまりに痛々しくて、私はその身体を抱きしめていた。

「それでいいじゃないですか! 誰か一人にくらい弱音を吐いたっていいんです。そこにある罪は一生消えないかもしれない。でも、太郎さんにだって感情はある。その全部を一人で抱え込まないで。許されなくても向き合い続けて、それで辛くなったら時には弱音を吐いて、それでいいじゃないですか。私は、そんな太郎さんのそばにずっといます!」
「未雨……」

私より大きいのにとても儚く思えて。私はきつくきつくその身体を抱きしめる。

「君がいつも、僕の全部受け止めようとするから、甘えることを知ってしまった」
「私は、その方が嬉しいですよ。こうして一緒にいるんです。女だって、辛い時は頼ってほしいと思う。だから今日、こうして来てくれて、私は嬉しい――」

それなのに。そうやってここに来た太郎さんに、あんな場面を見せてしまった――。

思わず硬く目を閉じる。もし私が気が付かなかったら、きっと太郎さんは何も言わないままで立ち去っていた。そう考えると、どうしようもなく怖くなる。もう絶対に、私が太郎さんを傷付けることだけはしたくない。

「太郎さん。やっぱり、一緒に暮らそう。私はそうしたい!」

はっきりとそう告げると、太郎さんはほんの少しだけ表情を緩めた。

「うん。そうしようって、言おうと思ってた」
「本当に?」
「ああ」

頷いてくれたことが嬉しくて。太郎さんの心の中に、私を入れてくれた気がして。深い安堵に包み込まれるみたいに、私は全身でホッとした。感じた安堵が確かなものだと信じたかった。何があっても私だけは太郎さん側にいる人間なんだと、太郎さんがそう思い始めてくれたのだと思えて、私は本当に嬉しかったのだ。



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