雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

君を守るということ、君を愛するということ 1

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『あなたに何度来られても、お金が送られて来ても、何年経っても、あなたの弟を許す日は来ませんから!』

これまでと同じように、”許してくれ”と言葉にしたわけではなかった。それそなのに、僕から何かを感じ取ったのか。

感じ取らせてしまったのか――。

これまでの八年は、訪ねて行ってもインターホン越しに追い返された。
それが、今回は初めて家の中に通された。でも、それは、ご家族の気持ちが開いたからではなかった。

『見て分かりましたか? 私の中で、この九年という時間、止まったままです。あの日から止まったまま』

母親しかいなかった。広い家の中、男の子の写真が飾られていた。生まれたばかりの頃から、そして中学生の姿まで――。

『あなたの弟は、罪を犯しておきながら、卑怯にも罪を償うこともなく自分で死んで。私はどこに怒りをぶつければいいんですか。怒りをぶつけたって帰って来るわけじゃない。でも、この怒りをどこにもぶつけられないまま、私の時間は止まっている』

家の中のある一室に、遺影があった。そこには、男の子の遺品が溢れんばかりに置かれていた。九年前、使っていたであろうもの。たくさんのものがそのまま残されていた。
 その空間にいるだけで、息が出来なくなりそうになった。どこもかしこも深い悲しみと思いが充満して、目の前がぐらぐらとして今にも倒れそうになる。

『線香を、』

息苦しさを感じながら、なんとか声を発した。安易に『申し訳ありません』なんて言葉に出来なかった。深い悲しみをそんな言葉で返すことが出来なかった。これまで、一度も向き合わせてもらえなかった被害者の遺影。どうしても、手を合わせたいと思っていた。

『あげさせていただけませんか――』
『絶対に、だめよ』

母親がその眼光に憎しみと哀しみだけを詰めて、僕を睨む。

『絶対にさせないから。そんなことで許されたなんて絶対に思わせないから』

でも結局、愚かな僕は、『申し訳、ございません』なんていう、誰だって使うような謝罪の言葉しか出て来なかった。誰だって犯してしまうような罪なんかじゃないのに。

『あなただって少し想像すれば分かるでしょう? ……ああ、そうか。あなたの弟は殺されたんじゃなくて、自分で死んだんだ。だから分からないか』

憎しみの笑みを浮かべて僕を見た。

『確か、あなたにはもう家族と言える人はいないのよね? じゃあ、想像する相手もいないのか。大切な人の命を突然誰かに奪われる気持ち』

――大切な人の命を突然誰かに奪われる気持ち。

すぐに浮かんだ顔。

もし今、未雨が、誰かに殺されたとしたら――。

身を投げ出してでも未雨を守るだろう。もし、自分のいないところで殺されたとしたら、僕は正気じゃいられない。

あの優しい人を、誰よりも愛しい人の身体を、誰かの手によって傷付け命を奪われたら、僕はきっとそいつを殺してしまう――。

そう思った瞬間、目の前の光景、目の前にいる母親の姿すべてが、生身のものとして自分に迫る。そうして心にあったのはただ絶望だった。

許されたい。

未雨と一緒にいるようになって、知らず知らずのうちに自分の中に芽生えてしまっていた欲。未雨を幸せにするために、そして未雨と幸せになるためには、罪から許されたい。そんな感情が生まれていた。そんな僕を、まるで見透かされたみたいに。

『あの子が生きていれば、今頃、どんな大人になっていただろう。どんな光景があっただろう。毎日そう思う。でも、私は一生あの子が変わって行く姿は見られない。中学生までのあの子しか見ることが出来なかった! 親としてこんなに哀しいことはないのよ!』

呆然と立ち尽くす僕に、母親がたくさんの封筒を投げつけた。

『こんなものもう送って来ないで! 許してくれといつもいつも言われているみたいで、余計に苦しくなる。絶対に許す日なんて来ないんだから!』

僕の身体にぶつかった無数の封筒が、足元にばらばらと落ちる。九年前から僕が送り続けて来た封筒だ。足元から力が奪われて、僕はその場にしゃがみ込んだ。

 あの日――初めてこの母親を見た日。泣きじゃくる姿を見た日の慟哭が、九年という月日を飛び越えて鮮明に蘇って来る。
 時間なんて関係ないのだ。いつだって、いつも簡単に振り出しに戻る。永遠に。どこにも行くことを許されない。永遠に、同じ時間の中をぐるぐる回る。

『本当に、申し訳、ありません』

頭を床に押し付け、これまで送り付けて来た”はした金”の上で意味のない言葉を絞り出す。

 逃げるようにあの家を出て来た僕は、収まらない激しい動悸でまたもしゃがみ込んだ。

助けてくれ――。

思わず心の中で叫んでいた言葉に、失望する。一体、誰に助けなんて求められると言う。

 なんとか身体を起こし、たどり着いた弟の小さな墓の前で、項垂れる。

僕には何の力もない。おまえの犯した罪を償う力もない。
おまえは、僕のために命を投げ出したんだよな。
殺人者の兄にしてしまうから、せめて、罪を犯した自分がいなくなれば、少しは僕が楽になるだろうと――。
おまえにはそんなことをさせておいて、僕は何もできていない。
おまえがこんな罪を犯したのだって、僕のためだった。
僕を嘲笑われたから。挑発されたから。そんな言葉なんかに反応する必要なんてなかったのに。

 もともと素行の悪かった翔太は、かっとなった。暴力にまみれ常に苛立ちを抱えていた弟は、想像以上に深く差し込まれたナイフに初めて気付いた。人を殺してしまったということに。

 許されないということがどれだけ苦しいことか、本当の意味では分かっていなかった。守るものもがない人間にとって、許されないということは、ある意味でその言葉の意味をそのまま受け入れられた。それなのに、今の僕は、こんなにも耐えられない。苦しくてどうにかなりそうで。
 あの笑顔が僕を幸せにする分、あの笑顔が僕を苦しめる。誰かに許されない僕が、誰かを幸せにすることなんて出来るのか。そんな資格があるのか。
 それでも、僕は、未雨に会いたい。あの優しさに触れたい。そう思ってしまう。
 あんなにも激しく生々しい哀しみと憎しみに触れてもなお、そう思っている自分が許せなくて、引き裂かれそうなのに。何も望まないようにと生きて来た僕が、どんどん変わって行ってしまう。

未雨、君に会いたい――。

一人で耐えて来たのに、今の僕は、君にすがりたいと思ってしまう。会いたいと心が叫ぶ。

 弱くなった僕は、行くつもりじゃなかったのに未雨の家に向かっていた。

一目でも会えれば。あの笑顔を見たい――。

そうして目にした光景に、僕はただ逃げ出した。何が現実で何が夢か。僕のそばに未雨がいることが本当は夢で、今目にしている光景が現実なんじゃないか。

本当は、おまえなんかが未雨のそばにいてはいけない――。

そう言われているみたいで、動けなくなった。
 知らない男に抱き締められている未雨を見ても、何も言えない自分。まさにそれが、現実で。僕がいつも抱きしめている身体が他の男に触れられているという事実に、心かき乱されてどうにかなりそうなのに声を上げることもできない。この足は、勝手にそこから遠ざかろうとした。
 もう、見ていられなくなって逃げ出した僕を、未雨が捕まえた。こんな僕を、君はいつだって捕まえに来る。そして、僕は未雨にすがってしまう。

『許されなくても向き合い続けて、それで辛くなったら時には弱音を吐いて、それでいいじゃないですか。私は、そんな太郎さんのそばにずっといます』

未雨の言葉が僕を救い出す。その救いの手に、僕はしがみついてしまう。
 心の奥底で、もう一人の僕が僕に何かを訴えて来る。でも、その言葉を聞きたくなくて、心の耳を塞ぐ。そして、一緒に暮らしたいと言ってくれる未雨の声だけを聞く。
 僕は未雨と一緒にいると覚悟を決めたんだ。未雨を笑顔にするために、どんなに苦しくたって、僕は未雨のそばにいる。

それがたとえ、未雨を不幸にすることになるかもしれなくても、未雨のそばに――。



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