雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

文字の大きさ
132 / 154
《その後》二人で見た海であなたを待つ

君を守るということ、君を愛するということ 2

しおりを挟む



(太郎さん、風邪、ひいてないですか?)
「うん、僕は大丈夫だ。君は? 君だって雨に濡れただろう?」

電話越しで、未雨が僕を気遣う。雨に濡れた身体をそのまま抱いてしまうほどに、僕は激しく動揺していた。僕でいいのかと心の奥で思いながら、激しく彼女を求める。この矛盾を常に抱えている。彼女の身体を思い遣ることもできなかった自分に、また一つ、失望する。

(私、病院ってほとんど行ったことないんですよ? 健康体なんです。だから、あんまり心配しないでくださいね)

明るく言う声に、ぎゅっと手のひらを強く握り締める。

(人間の身体って都合よくできていますよね。すぐそばに頼れる人がいないと、病気もしなくなるみたい。一人暮らしを始めてから風邪一つひいたことない。あ……じゃあ、太郎さんと暮らし始めたら、途端に風邪ひいたりするのかなぁ)

そう言って未雨が笑う。

「そうなったら、僕が看病するよ」

未雨は、ずっと孤独を抱えていた。初めて会った高校生の時、まさに未雨は孤独の真っ只中にいた。
 一度だけ訪ねた未雨の育った家。一度目にすれば十分だった。広くて立派な家なのに、きちんと両親もいるのに、未雨はあの中で一人だった。そんな中で唯一彼女の支えであるべき樹君も、彼女を守るのでなく自分の孤独を守ることに未雨を利用していた。

でも――。

彼の中にあったのは多分それだけではなかった。純粋な愛情ではなかったのかもしれないけれど、歪んでいようとも不純でも、きっと愛があったのだろう。だから、彼はしがみつき執着ししまいには彼女を傷付けた。だとしても、僕は、彼を許せないけれど。
 未雨は、あれは恋じゃなかったと言った。でも、それも違うんじゃないかと僕は思う。

未雨の部屋で見た、樹君の結婚式の招待状。未雨の心の中は――。

(うん、よろしくお願いします)

はにかんだ声が僕を現実へと引き戻す。



 その週末は、未雨が僕のところに訪ねて来た。
 いつも以上に僕にくっついて来る。僕の部屋に来てから、ずっと僕に身体を寄せている。

「――どうしたの? 何かあった?」

子供みたいに甘えるように、僕の腕にすがりつくようにくっついている。未雨の顔を覗き込み、優しくその頬に触れる。

何かあった――って、聞くまでもなかった。

思い当たるふしならいくらでもある。おそらくあの、田中と言う男。毎日顔を合せる同僚に告白されたのだから、精神的にも疲れるだろう。そう思うと、僕は僕でまた違う痛みと心のざわつきに襲われる。

それに、樹君の結婚式の招待状――。

「まあ、でも、何もなくても、未雨がくっついて来てくれるのは大歓迎だけど」

だから、僕は敢えて微笑んで見せる。そしてその身体をこの腕で抱きしめる。柔らかくて温かな身体は、結局僕を包み込んでいるみたいだ。この優しい身体が僕に触れてくれる時だけは、僕の心は甘くとろけて癒される。それはまるで、麻薬みたいだ。

「……最近の太郎さん、私にすごく甘いから、私もどんどん欲張りになるの」

腕の中で吐息を零すように囁く。

「一緒にいられるだけで嬉しいけど、もっと欲しくなる。もっと、もっとって。会うたび抱かれたい、なんて思うの、おかしいかな。でも、太郎さんに抱かれていると幸せで。それはきっと、太郎さんが、心から私を大切にしようと思って触れてくれているからだよね……」

未雨が僕の胸に手を当て頬を寄せる。

――心から大切にしようと思って触れてくれている。

「君は欲張りなんかじゃないよ。君が欲しいと言うのはいつも僕だけだ。君は他に何か、欲しいと思うものはないのか……?」

僕は僕の身体しかあげられない。高価な宝石も、優雅な旅行も、綺麗な家も。僕は何もあげられない。

君から奪うばかりで――。

「だって、私は太郎さんしか欲しいと思わないんだもん。太郎さんが私を好きだと言って求めてくれる。本当にそれだけで幸せなんだ。だから、私はいつだって太郎さんが欲しいーー」
「……いいよ。僕でいいならいくらでもあげるよ。全部あげる」

柔らかくて甘い未雨の唇に僕のを重ねる。

 僕は、こうして君を抱く。僕が欲しいと言ってくれる君に、そんな君が僕を許してくれているみたいで。
 どこか遠くで胸が軋む音がするけれど、目の前にいる優しい人を、僕はただ愛したいと思う。君が僕を感じて見せる表情をこの目に焼き付けて、僕を抱きしめる手のひらの熱を身体に刻み込む。




「……知ってますか?」

溶けあうように抱き合った後、未雨が僕の胸に頭を載せて囁いた。

「何を……?」

未雨のひんやりと気持ちいい黒髪を指で梳く。

「私の初恋が、太郎さんだってこと」
「……え?」

未雨の言葉に、指の動きを止める。

「あの時は気付けなかったけど、でも、改めて考えてみると、あれはやっぱりそうだったなって、今なら分かるの」

未雨の綺麗な声が、ひそやかな夜に響く。

「図書室で毎日、名前も知らないあなたに会うのが楽しみだった。灰色だった毎日が突然色付いた。いなくなった時、必死になってあなたを探した。死んだみたいに生きていた私が、初めて、自分から動いた。それが恋じゃないなら、何? 気付く前に太郎さんがいなくなっちゃっただけ……」
「未雨――」
「それだけ、私にとってあなたとの恋は特別なんです。初めて好きになった人で、最後の恋の相手でもあるーー」
「未雨……っ」

僕は思わずその身体を抱きしめた。

「君も、僕を好きになってくれていたのか。そっか、そうだったんだ……」

君との未来を、ただ真っ直ぐに見ることが出来たあの時。あの時の自分は、もう二度と戻っては来ない。

「それを知れただけで、僕は十分、幸せな男だな」
「もっと早く言えば良かったね」
「ううん。こうして聞けたから、それでいい」

未雨も僕を優しく抱きしめてくれる。まるで、あの時の自分が抱き締められているみたいだ。それを想像しただけで、心が震えるほどの幸せを感じる。
 もしもあの時、あんな事件が起きなければ。

僕たちの未来は全然違ったものになっていたかもしれない――。

そして、失ったものの大きさを知る。

「大好き」

僕も、君が大好きだよ――。

「ずっと、私のそばにいて……」

細い指が僕の髪の中に優しく入り込む。

「うん。君のそばにいる」

それしかあげられるものがないのなら、それが未雨のたった一つの願いなら、そうさせてほしい。そして何より僕も、未雨のそばにいたいのだ。ただ、未雨のそばにいたい。

いさせてください――。

神なんてものはとうにいないと思っていた。そんな僕は、一体誰に願っているのだろう。



「年明けくらいには、一緒に住めたらいいね」
「そうだな。でも、本当に、この部屋でいいのか? 二人で暮らすにはあまりに狭くない?」

未雨は、この狭くて古いアパートでいいと言い張る。

「二人で暮らすのに、広い家なんていらないでしょう。それに、この部屋気に入ってるの。庭があるし、庭の向こうに海も見える。最高でしょう?」

朝になって未雨が部屋の窓を開けて、にっこりと笑う。

「――未雨は、どんな酷いものでも、全部いいものに変えてしまうな」

僕は呆れたように、でも本当は嬉しくたまらない気持ちで未雨を見る。

「そう? 私、本当にあんまり物欲がないんだよねー。それは昔からだよ?」

そう言って無邪気な笑みを見せる。未雨は、あの地域で一番大きな企業の社長令嬢だった。金に困る生活なんてしたことはないだろうし、育ちの良いお嬢さまだったはずだ。でも、だからなのかもしれない。物に満たされていたからなのか、特別何かを欲しがることがない。未雨は、物じゃない何かをずっと欲しいと思っていたのかもしれない。

「私だって働いてる。必要なものを買うお金も生活費もちゃんと自分で稼げるんだから。二人で協力して生活して行けば、何も困ることはない。だから――」

未雨が真面目な表情になって僕のそばに来る。

「太郎さんは、余計な心配や気遣いをしないで。二人で暮らすんだから、二人で頑張ろう」

僕より小さい手のひらが僕の手を包み込もうとする。

「……ありがとう、未雨」

今は、ただそうとだけ言う。以前たずねていた件で、先日北川さんが僕に伝えてくれた。

『正職員募集の話だけど、来年度の採用があるらしい。春日井さんなら勤務態度にもまったく問題はないし、応募してみたら? 大丈夫だと思うよ』

それもあって、僕は未雨と暮らすことを決意した。また正職員になることができれば、今よりずっと安定した生活が出来る。未雨に将来の約束をすることが出来る。

どうか、僕の、たった一つの願いだけは実現させてください――。

僕は最近、祈ってばかりだ。神なんて、これまでの僕の人生にいたためしなどないのに。

しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

私たちの離婚幸福論

桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-

設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt 夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや 出張に行くようになって……あまりいい気はしないから やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀ 気にし過ぎだと一笑に伏された。 それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない 言わんこっちゃないという結果になっていて 私は逃走したよ……。 あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン? ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 初回公開日時 2019.01.25 22:29 初回完結日時 2019.08.16 21:21 再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結 ❦イラストは有償画像になります。 2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

処理中です...