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《その後》二人で見た海であなたを待つ
君を守るということ、君を愛するということ 2
しおりを挟む(太郎さん、風邪、ひいてないですか?)
「うん、僕は大丈夫だ。君は? 君だって雨に濡れただろう?」
電話越しで、未雨が僕を気遣う。雨に濡れた身体をそのまま抱いてしまうほどに、僕は激しく動揺していた。僕でいいのかと心の奥で思いながら、激しく彼女を求める。この矛盾を常に抱えている。彼女の身体を思い遣ることもできなかった自分に、また一つ、失望する。
(私、病院ってほとんど行ったことないんですよ? 健康体なんです。だから、あんまり心配しないでくださいね)
明るく言う声に、ぎゅっと手のひらを強く握り締める。
(人間の身体って都合よくできていますよね。すぐそばに頼れる人がいないと、病気もしなくなるみたい。一人暮らしを始めてから風邪一つひいたことない。あ……じゃあ、太郎さんと暮らし始めたら、途端に風邪ひいたりするのかなぁ)
そう言って未雨が笑う。
「そうなったら、僕が看病するよ」
未雨は、ずっと孤独を抱えていた。初めて会った高校生の時、まさに未雨は孤独の真っ只中にいた。
一度だけ訪ねた未雨の育った家。一度目にすれば十分だった。広くて立派な家なのに、きちんと両親もいるのに、未雨はあの中で一人だった。そんな中で唯一彼女の支えであるべき樹君も、彼女を守るのでなく自分の孤独を守ることに未雨を利用していた。
でも――。
彼の中にあったのは多分それだけではなかった。純粋な愛情ではなかったのかもしれないけれど、歪んでいようとも不純でも、きっと愛があったのだろう。だから、彼はしがみつき執着ししまいには彼女を傷付けた。だとしても、僕は、彼を許せないけれど。
未雨は、あれは恋じゃなかったと言った。でも、それも違うんじゃないかと僕は思う。
未雨の部屋で見た、樹君の結婚式の招待状。未雨の心の中は――。
(うん、よろしくお願いします)
はにかんだ声が僕を現実へと引き戻す。
その週末は、未雨が僕のところに訪ねて来た。
いつも以上に僕にくっついて来る。僕の部屋に来てから、ずっと僕に身体を寄せている。
「――どうしたの? 何かあった?」
子供みたいに甘えるように、僕の腕にすがりつくようにくっついている。未雨の顔を覗き込み、優しくその頬に触れる。
何かあった――って、聞くまでもなかった。
思い当たるふしならいくらでもある。おそらくあの、田中と言う男。毎日顔を合せる同僚に告白されたのだから、精神的にも疲れるだろう。そう思うと、僕は僕でまた違う痛みと心のざわつきに襲われる。
それに、樹君の結婚式の招待状――。
「まあ、でも、何もなくても、未雨がくっついて来てくれるのは大歓迎だけど」
だから、僕は敢えて微笑んで見せる。そしてその身体をこの腕で抱きしめる。柔らかくて温かな身体は、結局僕を包み込んでいるみたいだ。この優しい身体が僕に触れてくれる時だけは、僕の心は甘くとろけて癒される。それはまるで、麻薬みたいだ。
「……最近の太郎さん、私にすごく甘いから、私もどんどん欲張りになるの」
腕の中で吐息を零すように囁く。
「一緒にいられるだけで嬉しいけど、もっと欲しくなる。もっと、もっとって。会うたび抱かれたい、なんて思うの、おかしいかな。でも、太郎さんに抱かれていると幸せで。それはきっと、太郎さんが、心から私を大切にしようと思って触れてくれているからだよね……」
未雨が僕の胸に手を当て頬を寄せる。
――心から大切にしようと思って触れてくれている。
「君は欲張りなんかじゃないよ。君が欲しいと言うのはいつも僕だけだ。君は他に何か、欲しいと思うものはないのか……?」
僕は僕の身体しかあげられない。高価な宝石も、優雅な旅行も、綺麗な家も。僕は何もあげられない。
君から奪うばかりで――。
「だって、私は太郎さんしか欲しいと思わないんだもん。太郎さんが私を好きだと言って求めてくれる。本当にそれだけで幸せなんだ。だから、私はいつだって太郎さんが欲しいーー」
「……いいよ。僕でいいならいくらでもあげるよ。全部あげる」
柔らかくて甘い未雨の唇に僕のを重ねる。
僕は、こうして君を抱く。僕が欲しいと言ってくれる君に、そんな君が僕を許してくれているみたいで。
どこか遠くで胸が軋む音がするけれど、目の前にいる優しい人を、僕はただ愛したいと思う。君が僕を感じて見せる表情をこの目に焼き付けて、僕を抱きしめる手のひらの熱を身体に刻み込む。
「……知ってますか?」
溶けあうように抱き合った後、未雨が僕の胸に頭を載せて囁いた。
「何を……?」
未雨のひんやりと気持ちいい黒髪を指で梳く。
「私の初恋が、太郎さんだってこと」
「……え?」
未雨の言葉に、指の動きを止める。
「あの時は気付けなかったけど、でも、改めて考えてみると、あれはやっぱりそうだったなって、今なら分かるの」
未雨の綺麗な声が、ひそやかな夜に響く。
「図書室で毎日、名前も知らないあなたに会うのが楽しみだった。灰色だった毎日が突然色付いた。いなくなった時、必死になってあなたを探した。死んだみたいに生きていた私が、初めて、自分から動いた。それが恋じゃないなら、何? 気付く前に太郎さんがいなくなっちゃっただけ……」
「未雨――」
「それだけ、私にとってあなたとの恋は特別なんです。初めて好きになった人で、最後の恋の相手でもあるーー」
「未雨……っ」
僕は思わずその身体を抱きしめた。
「君も、僕を好きになってくれていたのか。そっか、そうだったんだ……」
君との未来を、ただ真っ直ぐに見ることが出来たあの時。あの時の自分は、もう二度と戻っては来ない。
「それを知れただけで、僕は十分、幸せな男だな」
「もっと早く言えば良かったね」
「ううん。こうして聞けたから、それでいい」
未雨も僕を優しく抱きしめてくれる。まるで、あの時の自分が抱き締められているみたいだ。それを想像しただけで、心が震えるほどの幸せを感じる。
もしもあの時、あんな事件が起きなければ。
僕たちの未来は全然違ったものになっていたかもしれない――。
そして、失ったものの大きさを知る。
「大好き」
僕も、君が大好きだよ――。
「ずっと、私のそばにいて……」
細い指が僕の髪の中に優しく入り込む。
「うん。君のそばにいる」
それしかあげられるものがないのなら、それが未雨のたった一つの願いなら、そうさせてほしい。そして何より僕も、未雨のそばにいたいのだ。ただ、未雨のそばにいたい。
いさせてください――。
神なんてものはとうにいないと思っていた。そんな僕は、一体誰に願っているのだろう。
「年明けくらいには、一緒に住めたらいいね」
「そうだな。でも、本当に、この部屋でいいのか? 二人で暮らすにはあまりに狭くない?」
未雨は、この狭くて古いアパートでいいと言い張る。
「二人で暮らすのに、広い家なんていらないでしょう。それに、この部屋気に入ってるの。庭があるし、庭の向こうに海も見える。最高でしょう?」
朝になって未雨が部屋の窓を開けて、にっこりと笑う。
「――未雨は、どんな酷いものでも、全部いいものに変えてしまうな」
僕は呆れたように、でも本当は嬉しくたまらない気持ちで未雨を見る。
「そう? 私、本当にあんまり物欲がないんだよねー。それは昔からだよ?」
そう言って無邪気な笑みを見せる。未雨は、あの地域で一番大きな企業の社長令嬢だった。金に困る生活なんてしたことはないだろうし、育ちの良いお嬢さまだったはずだ。でも、だからなのかもしれない。物に満たされていたからなのか、特別何かを欲しがることがない。未雨は、物じゃない何かをずっと欲しいと思っていたのかもしれない。
「私だって働いてる。必要なものを買うお金も生活費もちゃんと自分で稼げるんだから。二人で協力して生活して行けば、何も困ることはない。だから――」
未雨が真面目な表情になって僕のそばに来る。
「太郎さんは、余計な心配や気遣いをしないで。二人で暮らすんだから、二人で頑張ろう」
僕より小さい手のひらが僕の手を包み込もうとする。
「……ありがとう、未雨」
今は、ただそうとだけ言う。以前たずねていた件で、先日北川さんが僕に伝えてくれた。
『正職員募集の話だけど、来年度の採用があるらしい。春日井さんなら勤務態度にもまったく問題はないし、応募してみたら? 大丈夫だと思うよ』
それもあって、僕は未雨と暮らすことを決意した。また正職員になることができれば、今よりずっと安定した生活が出来る。未雨に将来の約束をすることが出来る。
どうか、僕の、たった一つの願いだけは実現させてください――。
僕は最近、祈ってばかりだ。神なんて、これまでの僕の人生にいたためしなどないのに。
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