雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

君を守るということ、君を愛するということ 3

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 図書館でのその日の勤務を終えた時だった。師走になってから、急に冷え込むようになった。コートの襟を立てて首元を覆う。そして、自転車にまたがった時だった。

「――すみません。春日井太郎さんですよね」

見知らぬ男が僕に声を掛ける。見知らぬ人なのに、僕は既に予感して。これまでの経験で、察知してしまう。

「こういう者なのですが、ちょっと、お話聞かせていただけませんか……?」

差し出された名刺を見つめる。自分の予想が間違いだと言ってほしいのに。そういう予想は間違いなく当たるのだ。今、この瞬間に置かれている現実から、今すぐ逃避したい衝動に駆られる。

お願いだから、これ以上――。

勝手に震えだす手が、その名刺をどうしても受け取れない。名刺に記されているのは、大手ではない出版社。いわゆる三流週刊誌を発行している出版社の記者だった。そんな人間が自分を訪ねて来た――それが意味することを考えると、どうしようもないほどの恐怖が蘇る。

どうして今ーー。

事件が起きた日を迎えて間もないからか?

こうして事件から時間が経ってからマスコミが来るのは、この時期が多かったことを思い出す。それでもここ数年はなかった。

「ーーあの事件のことで、話、聞きたいんですよ。いいですよね?」
「すみません、失礼します」

その名刺を受け取らずに、僕は自転車に乗る。まだどう対処すべきか頭の中が整理出来ていない。ただ、混乱と恐怖、それだけで一杯だ。とにかく、今は、まともに取り合うべきしゃない。

「ちょ、ちょっとー!  また、来ますからね!」

背後から叫ぶ声を振り切りたくて、ペダルを懸命に漕ぐ。

職場を特定された。職場にまた、記者が来るーー。

こんな風に逃げたところで、何の解決策にもならないことは分かっている。もしも、職場に知られたら。

せっかくの正職員採用の話も、そもそもここで働くことも、出来なくなるーー。

激しい動悸が僕の身体中を揺さぶる。


 逃げ帰ったアパートで、日が落ちて暗い部屋に、呆然と座り込む。

一体、どうすればーー。

今までなら、誰にも迷惑をかけないようにどこかへ逃げる道を選んだ。

でも、今の僕には未雨がいるーー。

殺風景だった部屋が、少しずつ未雨の気配を漂わせるようになった。ここにいなくても、そこかしこに未雨の姿を思わせる。
激しくなる鼓動で息をするのもままならなくなる。過去の残響が僕の耳をつんざく。

どこにでも押し掛けて来る声、いつ何時するか分からないドアを叩く音ーー。

僕は震えながら必死に耳を塞ぐ。

 電話がかかって来たことを知らせる着信音が、真っ暗な部屋に響き渡り、心臓が一瞬止まる。怯えるこの身体が、なんとかそれを手にすると、ディスプレイには未雨の名前が表示されていた。
 大きく息を吐く。そして、その電話に出る。

(もしもし、今、忙しかったですか?)

いつもと変わらない未雨の声に、僕は言葉に詰まる。

(話をしても大丈夫?)
「あ、ああ、うん。大丈夫だよ」
(よかった)
いつもはたいてい僕の方から電話をしている。腕時計を見れば、とっくに二十二時を過ぎていていた。

(今日ね、向井さん――あっ、向井さん分かりますよね? 私の職場の先輩なんだけど――)
「ああ、知ってる。入社した時から、君に良くしてくれているっていう人だよね」

なんとか、普通に言葉を返す。

(そう。その人と食事に行ったんです。そうしたら、太郎さんに会ってみたいって盛り上がってしまって。本当に、困っちゃいました)

日常の他愛もない出来事を話す未雨の声が、僕の身に起きていることがどこか嘘のように思わせる。だから、僕は、何も言い出すことが出来なかった。

「僕に? また、どうして」
(私が、太郎さんの話をしちゃうからだと思います。私が、太郎さんのこと好きでたまらないってこと、会話から伝わっちゃうんだって。だから……)

秋に未雨と再会してから、未雨はいつも僕への想いをストレートに表す。躊躇いもなくそのままに。必死になって僕に伝えてようとしていることが分かる。僕が何年もの間、未雨だけをずっと想い続けていたことを知っているから、その期間の溝を埋めようとでもするかのように、未雨は惜しみなく僕に愛情を注ごうとする。でも、それが、この日はとても辛かった。

「なんだか、恥ずかしいな」
(ごめんね。そうだよね。向井さん、いつも私の話を聞いてくれて。それで、また、聞き出すのも上手いの。だから、気付けば私、向井さんには本音を話しちゃってるんだ)

これが電話で良かった。会話の内容とはまるで似つかない、酷い表情を僕はきっとしている。

「……君は、その人には一番心を許しているんだもんな」
(あ、あの……太郎さん?)
「ん?」
(なんか今日、元気ない? もしかして、疲れてた?)

でも、僕の何かを未雨は察してしまうようだ。

「いや。大丈夫だよ」
(そう? ならいいんだけど)

そう言ってから、未雨がふっと息を吐いた。

(早く、一緒に暮らしたいな。そうしたら毎日顔を見られて、いいことがあっても嫌なことがあっても、一日の最後には太郎さんと一緒に眠りにつける)
「……ん」

胸の苦しみをこらえるために、僕は小さなテーブルに額を押し付ける。

(でも、こうして夜に電話するのもあと少しだもんね。今は、それを楽しむのもいいかな。そうしていたら、すぐに一月になるね)
「そう、だな」
(――じゃあ、また)
「ん」
「太郎さん、おやすみなさい」
(おやすみ)

通話が切れた瞬間に、僕は激しい呼吸を繰り返した。胸を押えて、身体を丸める。


 次の日もその次の日も、その記者は図書館の前で僕を待ち伏せていた。このままでは、図書館の同僚に気付かれてしまう。そう思った僕は、心を決めた。

「――いい加減にしていただけませんか。迷惑なんです。もう、ここには来ないでください。お願いします」

図書館から少し離れた路地裏で、その記者に言い放ち立ち去ろうとした。

「ちゃんと分かっているんですよ?」

背後から、どこか嘲笑うような声が聞こえる。

「あなたが、同級生だった少年を殺害した事件の加害者の兄、春日井太郎さんだってこと。顔も名前もこっちははっきりと掴んでるんだから、そんな風に関係ないみたいな顔されてもねぇ」

立ち止まってしまった足を、振り返ることなくそのまま前へと繰り出す。そして自転車にまたがろうとした。

「そんな風に逃げようたって、あんたはどこにも逃げられないんだよ。これまでだってそうだったろう? 犯罪者の家族に、逃げる資格なんてないんだ。あんたたちには、どんな質問にも答える義務がある」

――犯罪者の家族に逃げる資格なんてない。どんな質問にも答える義務がある。

その言葉が、僕の足を止める。

「ましてや、この事件の場合、加害者張本人は勝手に死んじまったんだ。両親もいないんだよな? じゃあ、誰が答える? あんたしかいないんだよ」

ハンドルを強く握り締める。冷たく硬い鉄の塊さえも、握りつぶしてしまいそうなくらいに。

「――こんな風に突然現れて、職場に何度も押し掛けるようなことは、やめてくれませんか」

マスコミはどこまでも追いかけて来る。でも、特に、こういう三流週刊誌は、マスコミの中でも特にえげつないものだった。大手新聞社やテレビ局には、まだ最低限の取材ルールみたいなものがある。それだって、最低限だ。どこまでも踏み込んで来る。それでも、三流週刊誌はそれ以上だった。無法地帯で何を書いても何をしてもいい――そういう連中だ。

「それは、そちら次第かな。こっちも必死なんですよ。俺も生活かかってるし」
「でも、どうして――」

僕はついそう口にしてしまっていた。

「九年経って、どうして今頃ってこと? それはね、民放の全国放送で、近々企画があるらしいのよ。平成が終わるってことで『平成の少年犯罪』みたいなの。少年犯罪について取りあげて、どうやったらなくせるかとか? そういう番組作るみたい。その情報をうちが入手してさぁ。それに便乗して、うちも記事にしようと思って」

それで――。

腑に落ちる理由に、余計に現実が押し迫る。

「『少年犯罪とは』とか『その背景』なんていうお堅いテーマはテレビに任せて、こっちはもう少し一般大衆がとっつきやすいネタを書きたいわけ。だから、ちょっと、話し聞かせてくださいよ」

自転車にすがりつくみたいに立ち尽くす僕の背後に近付いた記者が、低い声を発する。

「――あんまりこっちを軽く見ない方がいいよ? 弱小には弱小の強みがあるからね。どんなことでもして情報掴むの。うちらには怖いもんないから」

振り返った先に、ニヤリと眼光鋭く笑う顔があった。

「――あんた、恋人いるでしょ」

え――?

愉快な話でもしているみたいな声に、僕は身体中の血液が引いて行く感覚に襲われる。

「その顔、ビンゴだよねー。めちゃくちゃ綺麗な子だよね。羨ましいなぁ」
「そんな人、僕にはいない!」

僕は、気付けばそう声を荒げていた。どうしようもないほどの恐怖と怒りでどうにかなりそうになる。足もとが崩れていくようで、視界が歪んでいく。

「そんなむきになってもね、こっちはもう全部分かってるの。観念してよ。ほら」

そうして差し出された数枚の写真に、僕は言葉を失う。

手を繋ぎ海沿いの道を歩いている写真、海岸で肩を並べて海を見ている姿――。

どれもこれも、未雨と僕が写っていた。

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