雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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《その後》二人で見た海であなたを待つ

君を守るということ、君を愛するということ 5

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「図書館に来ていた人ですか……? 私、書棚のところで、二人が一緒にいるのを見たんです」

そう言って清水さんが俯く。

ああ――。

二人でいるようになって間もない頃、未雨が一度僕が働いている時に図書館に来たことがあった。その時、周囲に知られないよう他人のふりをしたけれど、彼女が本を棚に戻しに行くところを僕も追いかけた。人がいないのを確認したつもりだったけれど、清水さんに見られていたのか。

「やっぱり、あの人が春日井さんの恋人?」

僕が答えないでいると、清水さんがふっと息を吐いた。

「――やめた方がいいと思います」

答えないことを肯定ととらえたみたいだ。清水さんが、何故か酷く苦しそうに表情を歪めて言葉を放ち続ける。

「一目見て分かりました。あの人、雰囲気も品があって育ちのいい人なんだろうと思った。確かに素敵な人だった。だからこそ、やめた方がいいと思います」

僕は、どこか、彼女の言葉をただの言葉として淡々と聞いていた。心が疲弊していて、何かを感じる力が残っていない。

「今は、その人も春日井さんのこと全部受け入れて、そばにいてくれているのかもしれない。でも、何か起きた時、普通の人はその時初めて怖くなるんです。途端に好きな気持ちなんて冷めて、去って行くの。去って行かれても、こっちは何も言えない。ただ黙って別れを受け入れるしかない。こっちのせいだから!」

清水さんが、座り込んでいる僕に一歩近づく。

「その時傷付くのは春日井さんです。まさに今、マスコミが来てしまった。もし、彼女がマスコミに追われるようなことになったら、彼女は去って行く。普通の人は、そんなことに耐えられません。その時に現実を知るんです。だったら、今、楽しい思い出だけで済んでいるうちに別れた方がいい。それが、彼女のためでもある」

――彼女のためでもある。

僕は、のろりと顔を上げ清水さんを見た。

「いい家の娘さんなんですよね? このまま春日井さんが一緒にいたら、迷惑かけるかもしれない。ああいう記者にモラルなんてないですよ。弱い方、獲物にしやすい方に行くんです。彼女を守るためにも――」

「心配してくれてありがとう」

僕は、清水さんの言葉を遮り、重い身体を無理やりに立ち上がらせた。

「でも、全部、僕が考えることだから」

倒れた自転車を起こし、ハンドルを握りしめる。清水さんの言葉が全部事の真理だとしても、こんなところで彼女と話し合うようなことじゃない。

「……春日井さんっ!」

今にも倒れそうな身体で自転車に跨り、僕はペダルを漕ぐ。


 アパートの自分の部屋に入った途端に、ドアを滑り落ちるように玄関で座り込んだ。

――何か起きた時、普通の人はその時初めて怖くなるんです。途端に好きな気持ちなんて冷めて、去って行くの。

清水さんはそう言った。むしろ、未雨がそうしてくれたらどれだけいいかと思う。そうしたら、僕はきっとこんなにも苦しくない。自分が傷つくことなど何も怖くない。未雨が、さっさと僕から逃げ出すような人だったら、僕が辛いだけで終われるんだ。でもきっと未雨は、どんなに辛くたって酷い目に遭ったって、全部受け入れて僕のそばにいようとする。何をどう考えても同じ終着点に向かってしまう頭を抱える。

僕は一体どうすればいい?
君にとっての正解はなんだ?

君のために僕ができることは――。

未雨、僕はやっぱり、君だけは不幸にしたくない。そう思うのに。たった今、君が去って行くなら辛くないなんて思っておきながら、君と離れたくないともう一人の僕が喚くんだ。二つの矛盾する強い想いが、僕を引き裂く。


 考えがまとまったわけではない。でも、未雨を守るためにも、すぐにでも今起きていることを未雨に告げなければならない。

「申し訳ないんだけど、今週会うのはやめよう。というか、しばらく会わないでい

その夜、電話で未雨に極力平静さを保ちながらそう言った。

(どうして……?)

途端に不安そうになった未雨の声が、既に切り刻まれたみたいになっている心にひりひりと沁みる。

「……実は、」

言わなければならない。あの記者が、未雨を探し出さないとも言いきれない。ひりひりと痛み続ける胸を押え、僕は口を開いた。

「僕の元に、記者が来た。僕の弟が起こした事件のことで僕を記事にしようとしている」
(え……?)

未雨が息を飲んだのに気付く。それでも、僕は上手く回らない口を無理やりに開く。

「君と僕のことも知っていた。君が糸原の娘だということも」

未雨は言葉を失っていた。その心を想像して怖くなる。でも、恐れも不安も押し止め、話を続けた。

「君のところに、誰か怪しい人間は来ていない?」
(う、うん。大丈夫です。私のところには何も)

未雨が、緊張感に満ちた声で答える。

「……そうか。多分まだ、君の 今の住所までは調べていないと思う。だから、僕がそっちに行くのもやめておきたいんだ。どこで見られているかわらかない。君の家を特定されても困る。それに、君がこっちに来るのもやめよう。君をあの記者にこれ以上見られたくない」
(で、でも……っ)
「記事の件は、僕の方でなんとか対処する。なるべく君には迷惑をかけないようにしたいと思ってる」

何か手立てがあるわけでもない。でも、僕はそう未雨に言っていた。

未雨に不安をかけまいとすることが、何の解決になるわけでもないと分かっているのに――。

「でも、もし、君にも何かあったらすぐに僕に連絡をくれ」

一週間の猶予。あの記者はそう言った。少なくとも一週間は何も手出しをしないとそう解釈したい。
 未雨は、僕が抱えている事情をすべて知っている。でも、未雨にとって、こんな風にそのことが持つ意味を現実のものとして突きつけられるのは初めてのことだ。

今、その心はどんな気持ちでいるだろう――。

そう考えると、押し止めても押し止めても不安が膨らんでいく。

「未雨、こんな話をしなくちゃならなくてごめん。君に不安な思いをさせて、本当に申し訳ないと思っている。僕のせいで、本当にごめん――」

言葉で謝ることに何の意味があるのか分からないのに、僕には謝ることしか出来なくて。未雨から何か言葉を聞くのが怖いのか。僕は、必死になってその言葉を繰り返していた。

(太郎さん)

そんな僕に、未雨がさっきとは違う声音で僕を呼んだ。

(太郎さんは、大丈夫ですか?)
「……え?」

未雨の強い口調に驚く。

(太郎さん、苦しいんじゃないですか? 私は太郎さんの方が心配です)
「未雨……。僕は、大丈夫だ。僕はこういうこと、これまでもあったし」

それに、いつも一人で向き合って来た。一人で受け止めて来た。やるせなくても苦しくても、それを吐き出す人なんていなかった。そうしようとも思わなかった。

それなのに――。

懸命に平静を装っていたものが崩れそうになる。

「僕は、君が傷付かなければそれでいい。君に何もなければそれで――」
(太郎さん。私は大丈夫です。私のことは心配しないで)
「でも、君の実家にも迷惑がかかるかもしれないんだ。樹君の結婚の話も口にしていた。君のお父さんの会社を立て直すのに大事な相手らしい。樹君は、君の家を助ける決断をしたんだろう。それなのに、もし、僕のせいで壊すことになったら――」
(太郎さん! 私は、二年前にあの家とは縁を切ったんです。私は糸原の人間じゃない。何の関係もないんです!)

未雨を不安にさせないようにと、自分を保っていたのに、不安と恐れが零れ落ちて行きそうになる。自分の選択が間違っているのではないかと怖いのだ。

(今は離れている方がいいと太郎さんが思うなら、その通りにします。でも、約束して。絶対に、私に黙ってどこかに行ってしまったりしないって。離れるのが私のためだとか、そんなこと絶対に思わないで。私は絶対にあなたといる)

やっぱり君はそう言うんだね――。

僕はその言葉に甘えようとしている。未雨が僕を探し当てた日から、本当はずっと心の奥底で自問自答していた。本当にこれでいいのかと。本当に、僕が未雨と一緒にいていいのかと。それでも僕は、この道を選択した。未雨の手を掴んでしまった。

本当は、それが正しい判断ではないと心の奥では確信しているのに――。

でも、僕はその手を離せない。

「――約束するよ。もう、君の前から消えたりしない」

まるで、悪魔と契約したみたいだ。たとえ未雨を不幸にするとしても、僕は未雨のそばにい続ける。僕はまた、自分自身の中にある何かから目を逸らした。










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