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第五章 崩れて行くバランス
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しおりを挟む「旦那様。最近、オフィスに篭りっきりみたいね。本社勤務の子に聞いたの。仕事熱心なのはいいけど、奥様としては毎日寂しいんじゃない? まだ結婚して一年も経たない新婚さんなのにね」
「今は大事なプロジェクトがあるみたいで。毎日、夫も頑張ってるんで、私も頑張らないと」
香山さんの言葉になんとか笑顔で返す。
和樹さんは今まで以上に帰宅が遅くなった。深夜にふと目が覚めてもまだ帰っていないこともある。朝は朝で、私よりずっと早く出勤するようになった。
あの日曜の夜から、一度も顔を合わせていない。オフィスにいると言っても、そんな時間までいられるものだろうか。もしかしたら、あの人前式からお姉さんとの過ごし方を変えたのかもしれない。
より深い繋がりを求めて、週末だけなんて会い方ではなく、どこかに部屋を借りてそこで二人で――。
キーボードに置いていた指が止まる。
ほんと、ダメだ……。
最近、そんなことばかり考えては暗闇に引き摺り込まれそうになる。
和樹さんと結婚すると美久に報告した時、言われた言葉を思い出す。
『あんたは何も分かってない。自分を偽って、自分じゃない誰かを想う人の傍にいるってことがどういうことか』
本当だ。私は何もわかっていなかった。恋というものが、決して綺麗なものなんかではないということ。身体も心も抉る生々しい感情だということも。
“この前は、俺の話を聞いてくれてありがとうございました“
仕事を終えて駅に向かおうとしていると、スマホが振動した。それは三村さんからのメッセージだった。立ち止まり文字を打つ。
“こちらこそ、酔っ払っちゃって恥ずかしいところ見せちゃいましたね“
すぐにメッセージを受信する。返信の早さに少し驚いた。
“桜がそろそろ散ってしまいそうです。もし、よかったら、一緒に夜桜を見ませんか?“
下を向いていた顔をあげる。歩道に並んでいた桜の木は、たくさんの花びらを吐き出していた。もう花を咲かせるのは終わりだよと、教えてくれているみたいだ。
“今日は金曜日だし、少し遠くの桜を見に行きませんか“
私が返信をする前に、次のメッセージが届いた。この誘いは、おそらく三村さんと二人で、ということだ。
少し遠く――それは、既婚者である私のことを考えてくれているのだろうか。これではまるで、不倫している妻みたいだ。私は、不倫をしている訳でもなければ、不倫しても咎められる立場にもない。なんだか笑えて来るのに、涙が溢れそうになる。
――逃げてもいいんだよ。
遠くで囁く声がした。
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