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第六章 決壊
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しおりを挟む「お姉さん、どうされたんですか?」
電話の向こうのお姉さんの声は明らかにおかしい。
(……このまま一人でいたら、自分が何をするかわからないの。お願い、柚季さん、助けて)
「今、どちらにいらっしゃるんですか?」
どうしてこの電話にかけて来たのか。どうして助けを求めているのか。
(自宅よ)
「ご両親は?」
(二人ともいない)
得体の知れない恐怖に押し潰されそうになるけれど、和樹さんは今出張でいない。
「今すぐ行きますから」
そう言って、電話を切っていた。
和樹さんの実家に着きインターホンを押すと、すぐにゲートが開いた。玄関ドアに鍵はかかっていなかった。
「お姉さん、柚季です」
広い玄関ホールで声を掛ける。しんとした空間に私の声だけが響いた。
「お姉さん――」
何の物音もしない中で、微かにすすり泣く声が聞こえてくる。
「……っく」
「お姉さん……?」
二階から聞こえてきているみたいだ。
「すみません、失礼します」
靴を脱いで、ホール正面にある階段を上っていく。二階の廊下を進んでいくほどに、その泣き声が大きくなって。あるドアの前に立つと、その向こうから女の人の泣く声がした。
「お姉さん、そこにいらっしゃいますか? 柚季です」
ドアをノックしながらそう告げた。
「ドア、開けますね」
ゆっくりとドアノブを握りドアを開ける。そこは、今は使われていないと思われるどこか殺風景な部屋。その真ん中で座り込んでいるお姉さんの姿があった。
「お姉さん、一体……」
それは、これまで見て来た美しいお姉さんではない。陶器のような肌は酷くくすんで、艶やかな絹のようだった髪は激しく乱れていた。
「和樹に戻って来てもらいたいの。どうすればいい……?」
バタンとドアが閉じる。立ち尽くしたままの私のところに、のろりと立ち上がったお姉さんが歩いて来て。ナイトウェアのようなシルクのロングワンピースがひらりと揺れた。
「どうしたらいいかな。私は、和樹じゃなきゃだめなのに」
え――?
「……お姉さんの方から、和樹さんとの関係を断ち切ったんじゃないんですか? お姉さんが他の男の人と――」
和樹さんは、あんなにも苦しんでいた。
「和樹のことを今でも変わらず愛してる! 愛してるから不安になった。前みたいに、ずっと私のことだけを見て欲しかった!」
お姉さんの、和樹さんに対する気持ちがなくなったわけではなかった――。
心臓が激しく鼓動するせいで身体中が震え始める。
「和樹さんの愛情を試すために、他の人と……?」
頬が痩せてしまったせいで、大きな目がより大きく見えて。その目から大粒の涙が溢れ続けている。
「それ以外に理由なんてない。和樹以外の人を、愛したりなんかしない」
「そんな……」
自分の震える手を懸命に握り合わせる。
「和樹さん……とっても苦しんでいました。試したりなんかしなくても、和樹さんはお姉さんのこと大事に想っていたはずです!」
「あなたのせいでしょう?」
お姉さんの細い腕が飛んできて、私の肩をきつく掴んだ。その細い指から出ているとは思えない程の強い力で、肩に爪がめりこんでいく。
「あなたが、あんな提案なんてしたから」
虚ろだった目に力が宿り、憎しみに満ちた目を私に向ける。
「全部、あなたのせいじゃない! あなたと和樹が結婚したりなんかしなければ、私たちは今も変わらず、和樹は私のそばにいた。あなたが私から和樹を奪ったんじゃない!」
掴まれた肩を、激しく揺さぶられる。
「私は……」
「和樹しかいないの。私には他に何もない。和樹を返して。返してよ!」
そう泣き叫ぶと、お姉さんが私の足元に崩れ落ちた。
長い髪が床に触れるのも構わずに、お姉さんが泣き崩れている。そのそばに腰を下ろした。
「……和樹さんは、お姉さんの気持ちを知っているんですか?」
その問いに、お姉さんは頭を横に振った。
「会ってくれないし、話を聞いてくれないの」
幼な子みたいに泣きじゃくりながら、途絶え途絶えに言葉を発する。
「きっと、今は、あまりのショックでお姉さんと向き合えないだけなんじゃないでしょうか。時間を置いて冷静になれば、和樹さんもお姉さんと向き合える」
そう言葉にしながら、ズキズキと胸に何かが突き刺さるみたいに痛い。
和樹さんなら――。
お姉さんの本当の気持ちを知れば、全てを受けとめ許すはずだ。こんなにも憔悴しきったお姉さんを見捨てられるはずがない。和樹さんが愛しているのはお姉さんなのだから。
「お願いよ。私から和樹を奪わないで。私だけを見ていてくれた和樹を返してよ。柚季さんさえいなければ、和樹はきっと戻って来てくれる」
お姉さんが何を勘違いしているのかわからないけれど、私は和樹さんにとってただの同士でしかない。そんな私が、二人を引き裂いていいはずない。あの夜は、ただの慰め合うだけの行為で、和樹さんに感情などなかった。
「私、和樹がいなかったら、生きていけないないの……」
聞こえるか聞こえないかの声で囁くと、お姉さんがおもむろに立ち上がった。
「こうやって自分を刺したら、和樹は私の元に帰って来てくれるかしら……?」
「お姉さん、何を――」
机の上に置かれていたナイフを手に取り歩き出す。そして、ベッドの上にあった白い衣装に突き刺した。
「お姉さん!」
考えるより前に身体が動いた。
「やめてください」
咄嗟にお姉さんの身体を押さえ込む。
「このドレスを切り刻むみたいに自分を切り刻もうとしたら、和樹はきっと私を抱きしめてくれるわよね?」
そこに横たえられていた白い衣装は、あの、人前式でお姉さんが着ていたドレスだった。
「そんなことしちゃダメです!」
「私、和樹が去って行ったら、死ぬわ」
私は大きな過ちを犯したのか。自分の想いのために、人を苦しめたのか。
和樹さんに、自分の気持ちなんて伝えていいはずない――。
何があっても絶対に。
お姉さんを壊れさせては行けない。このまま一人にはできない。
「お父さんとお母さんは、いつ戻られますか?」
ここは、すべての感情を横に置き、冷静になれと自分に言い聞かせる。
「……今日の、午後」
「午後には帰って来るんですね?」
それまで、お姉さんのそばにいることにした。
「とりあえず、横になりましょう」
興奮したお姉さんからナイフを取り、ベッドの上にある無惨な姿になったドレスを床に置いた。お姉さんのつり上がっていた細い肩を抱くと、思っていたより素直にベッドに横になってくれた。
「……お願い、約束して。和樹から離れるって」
私をじっと見つめて来る。決して逃してはくれない鋭い眼差しだった。分かっている。最初から、和樹さんの足枷になるつもりも、和樹さんを困らせるつもりもない。
「柚季さんは、男の人がダメなのよね? だったら、和樹と離れるくらい、どうということもないでしょう……」
そう呟きながら、お姉さんが目を閉じた。興奮して疲れたのか、そのまま静かに眠ってしまった。目を閉じるお姉さんを見て、急に身体中の力が抜ける。そして忘れていた身体の震えが再び全身を覆う。
息苦しく感じるこの部屋を見渡して気づく。モノトーンの色合いでまとめられた、カーテンとベッドカバー。ダークブラウンの家具。今は使われている気配のない部屋――ここは、和樹さんが使っていた部屋だ。
ベッドに横たわるお姉さんに視線を移す。
お姉さんは大学を卒業してから働いていないと聞いている。習い事とこの家の世界だけで生きている。和樹さんが全てなのだ。
この部屋がお姉さんの全て――。
心を無にして、切り刻まれたドレスとナイフを片付けた。
「――お姉さんが体調を崩したとお聞きして、今までお姉さんに付いていました。少し、精神的に疲れているようなので、見ていて差し上げてください。では、私は失礼します」
そう一方的に告げて、ご両親が帰宅した後すぐに家を出た。敷地を出た瞬間に、溢れるように涙が流れて来る。
この恋のために涙を流すのは、今日で最後にしよう――。
思い切り顔を上げ、空を見上げた。
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