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第一章 それは終わりから始まった

10. パウラ、水竜の祭典に出る

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「姫様、お目覚めですか」

パウラの寝室には、賓客用の客間があてられている。
マホガニー材のどっしりした寝台は、絹の垂れ布で覆われた天蓋付きである。
パウラの小さな身体には大き過ぎる寝台の傍に立って、パウラ付きメイドのメイジーが控えめに声をかけた。

「おはよう、メイジー」

眠いというより、怠かった。
昨夜の晩さん会の後、考えても仕方のないことと知りながら、シモンの思惑についつい思考が向かってなかなか寝付かれなかったパウラである。

「お支度の後、お食事をお持ちいたします」

朝食は一人でと、あらかじめ頼んでおいた。
水竜の祭典前のことで、ヴァースキー公家もなにかとせわしなく、パウラのわがままもすんなり通る。
心は6+数千年の歳月を経ていても、悲しいかなパウラの身体は6才である。
昨晩の寝不足は、おおいにこたえていた。
普段なら欠かさない朝の稽古を、さぼってしまった。

(祭典が終わったら、朝のメニューだけでもやっとかないと)

師匠のナナミいわく、

「一日休めば、取り戻すのに3日かかります」

だそうだから。
ナナミが見ていないからとさぼっていたら、ヘルムダールへ戻った時きっとバレる。
あのよく光る黒い瞳でじっと見つめられて、3日前に習ったところまで稽古を戻されるのは悲しい。
とはいうものの、アウェイの公家で勝手に走りまわるわけにもゆかない。

(後でリューカスに、それとなく聞いてみましょう)

洗顔を済ませて、祭典用の正装に着替える。
白絹のトーガは、父テオドールのそれとほぼ同じだったが、袖口の銀糸のラインは3本である。
3本のラインは、ヘルムダール後継者の証で、当主になれば4本になる。
銀の革で編んだサンダルをつけて、小さな耳に明度の高いエメラルドを飾る。
薄い化粧まで施された姿を鏡に映すと、パウラの後ろでメイジーが満足げに頷いた。

「さすが姫様ですわ。
こちらの公子様方も、きっと見惚れて祭典どころではなくなるでしょうね」

細い絹糸のような銀の髪は、小さなティアラで飾られている。
輝く緑の瞳は、耳元のエメラルドよりもさらに明度が高く、品の良い茶目っ気と知性とを共に棲まわせていた。

(まぁ、悪くはないのよね)

鏡の中の自分の姿をあらためて見たパウラは、ため息と共にそう思う。
あのアブナイ美貌の母と色気美貌ダダ洩れの父の娘であるからには、そう悪い容姿ではない。
けれど、それでも前世では飼殺しだったのだ。
名ばかりの妻、一生処女おとめ
つまり容姿だけでは、誰も攻略できないということだと思う。
まぁ良い。
後11年もあるのだから、今わからなくてもそのうちわかるはず。
とりあえず今日は、あのシモンに嫌われる原因さえ作らなければ良い。

(それがけっこう、気が重いんだけど…)

軽めの朝食を前に、パウラはまた一つ、ため息をついた。





ヴァースキーの神殿は、淡い青の石でできた建物である。
大きな円柱には、上下に手の込んだ飾り彫刻が施され、緩やかな弧を描く屋根をしっかりと支えている。
正面入り口前には、10段ごとに広い踊り場の設けられた長い階段が続き、両端にはヴァースキーの神殿守備隊が祭典用の正装で整列している。
圧巻であった。

(よそでは、これが普通なのかしら)

目の前の荘厳な神殿と比べれば、ヘルムダールのものがとてもとても小さく見える。
オーディに祈る祭典も、格式こそ高いが1日で終わる質素なものだ。
ヴァースキーの祭典は、格で言えばヘルムダールのものに劣るはずなのに、この豪華さはどうだろう。

(お金持ちなのね、きっと)

豪華さを支えるための財力が、ヴァースキー公家にはあるということだと実感する。
神殿が大きければ大きいなりに、維持管理するにもお金はかかる。
大きな城や神殿など、メンテナンスに係る費用を平気で出せるものにしか許されない贅沢だ。
長い階段を上り切った正面に、ヴァースキー大公一家がパウラを待っている。
トーガにちりばめられた無数のサファイヤが、竜のうろこのようにきらきらと光っている。
パウラが近づくと、青い竜たちが一斉に頭を下げた。

「ヘルムダールのパウラ様。
ようこそ、わが神殿へ」

パウラの少し後ろに控えた父が、パウラの背中をそっと押す。

「ごきげんよう」


4公家より格上の、ヘルムダールのしかも次代の主なら、公式の場で多くの言葉は不要。
慈愛に満ちた微笑と、最小限の挨拶があれば良い。
母から教えられたとおりに、パウラは表情を作る。

(たくさん話さなくて良いのは助かるけど、6歳の子供にこの役はつらいわね)

鷹揚に微笑んだ視線の先に。

出た!

神殿正面階段の最上段に、本来の姿で立つ東の聖使シモンがいる。
流れる水のように清浄な青銀の髪、淡い緑の瞳、褐色の肌。
少年の繊細さを濃く残しながら、すらりとのびやかな肢体の彼は、パウラとよく似たトーガを身に着けている。
違うのは、裾の縫い取りの色。
黄金竜を意味する金色で、5本のラインが施されていた。
聖使が黄金竜オーディの、ヘルムダールの姫がオーディアナの、それぞれ代わりとして神殿中央の祭壇に祈り、祝福する。
祭典のメインとなる祭事である。


父テオドールに右手を預けて、パウラはシモンの待つ入口へと階段を上った。

「ヘルムダール公女パウラでございます」

シモンの前で左足を引いて腰を落とす。
春の草花のような若い緑の香りが、ふわりと鼻先をかすめる。
次の瞬間、パウラの足は地面を離れていた。

「つかまらなくても良いよ。
大丈夫、落としやしない。
君は僕の花嫁なんだから」

間近に降る声に、心臓がバクバクする。

いったい何が起こったのか。
いや、シモンがパウラを横抱きにしているのはわかった。
多分、これがお姫様抱っこというものなんだろう。
いきなり過ぎて、驚くには十分過ぎるけれどだ。
問題はその後。

(この声、誰ですの?)

優しくて甘い、まるで父テオドールが母アデラにだけかけるような。
デレデレに甘く、暖かい声。
まかり間違っても、あのシモンが6歳のパウラにかけるとは思えない。
おそるおそるそーっと顔を上げると、まかり間違った現実を見てしまう。
淡い緑の瞳が、この上もなく甘く優しくパウラを見下ろしていた。

(怖い…)

嫌な汗をかいた。

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