伯爵令嬢ですが、電話交換手をやってます。目標はバリキャリなのに、溺愛されちゃいました

yukiwa

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第六章 辺境伯夫人は兼業です

40.お兄様が結婚なさるそうです

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「妹が幸せそうで、安心しました」

 食前酒の小さなグラスを手にして、兄ルーティスは綺麗に微笑している。
 王都のマクレーン邸食堂、兄にとっては初めて足を踏み入れた場所なのに、いかにも自然で堂々としていた。
 亜麻色の髪に薄い緑の瞳は母譲りだけど、母より理知的で澄ました印象を受ける。

「最愛の妻ですから当然です。ところで爵位継承のお祝いがまだでしたね。おくればせながら、お祝い申し上げます」

 ユーインの口調は伯爵家当主に対する丁寧なものだ。
 一応爵位はユーインの方が上だけど、相手が名門ハロウズ伯爵家となれば爵位の上下だけでは測れない力関係がある。

「お疲れのところ急にお伺いしたのは、お耳に入れておきたいことがありまして。フィールズ子爵家の令嬢と婚約しました。半年先には結婚する予定です」

 さらりと予想外のことを言ってのける兄に、アンバーは思わずグラスをとろうとした手を止めた。
 大学院を卒業した後、経済省の文官として奉職した兄は、娘を持つ家から注目されている独身貴公子だ。
 女性からの人気は、アンバーも貴族学院在学中によく知っている。
 それでもなぜだか兄は婚約者を持たなかった。
 それがここへ来て婚約、半年後には結婚というのだから驚かずにはいられない。

「フィールズ家の令嬢、ジェシカ様でしょうか? お兄様と同学年でいらした」
「ああ、そうだ。よく憶えていたね」

 ジェシカ・フィールズ子爵令嬢。
 良くも悪くも目立たない、平均的な中級貴族の令嬢だったように記憶している。
 赤みのかかった茶の髪に茶の瞳の、丸い顔をした女性。アンバーよりふたつ上だけど、年よりも幼げに見えた。

「それはめでたい。ではお祝いに良いワインを持ってこさせよう」

 ユーインが給仕にワインの銘柄を言いつけようとするのを、兄は手をあげて制した。

「お待ちを。話はここからなのです。実はこの結婚、両親、特に母が反対しています。ジェシカ嬢やフィールズ家に冷淡なのはもちろんですが、まあ他にもいろいろと困った妨害をしてくれるので、領地で別に暮らすように言い渡しました」
「お母さまはなんて?」
「想像どおりさ。大騒ぎになったよ。たぶん今日も泣いたりわめいたりしているだろうね」

 母がジェシカ嬢を気に入るとはとても思えない。
 子爵家では釣り合わないとか、不器量だとか。言いそうなことはだいたいわかる。
 兄が彼女を選んだ理由はわからないけど、口にしたからには後には退かない。兄はそういう人だ。

「アンバーならその先も想像できるんじゃないかな?」
「ええ、まあ」
「きっとここへ来る。どこかからアンバーが王都へ戻ってると聞いてるだろうからね」

 母ならそうする。
 ここへ来て言いそうなことも想像に難くない。

「マクレーン辺境伯にもご迷惑をおかけします。あらかじめお詫びを申し上げに参りました」

 監視は当然つけているが完全には防げないだろうと、申し訳なさそうに兄は頭を下げた。

「お気になさらないように。こちらへおいでになるなら、妻の母君として対応させていただきます」

 本当に気にしていないらしいユーインは、微笑んで首を振ってみせる。
 こういう時、実の母じゃない方が気は楽かもしれない。
 つい最近マクレーン領で見たトラブルを思い出して、そう思った。

 肝心な話が済んだ後は、ごく楽しい夕食の時間に変わる。
 上等のワインに兄の好きな鴨肉のローストで、兄の婚約を祝った。



 翌日午前中はユーインと共に、通信省と技術省、経済省を呼び出された順に回る。
 アンバーの仕事はマクレーン式電話サービスの概要説明だ。
 一度に済ませてくれれば良いのに、みっつの省をそれぞれ回って、そこで一から同じ説明をしなければならないのは面倒だった。
 それでも午前中にはなんとか終わり、午後からアンバーだけは自由になる。
 ユーインはこの後お金や契約の話で残る必要があるという。

「先にうちへ帰りますね。家事使用人養成校への訪問は明日午後ですから、今日はうちでゆっくりできるわ」

 あなたもできるだけ早く帰ってと、ユーインの頬にキスをして帰宅した。
 
「奥様、ハロウズ前伯爵夫人がおこしです」

 執事のゲーリックの報告に、予想より早いと少しだけ笑った。
 兄のおかげで心の準備ができていたからか、それともアンバーに余裕ができたからかはわからないけど。とにかく案外平静だった自分にアンバーは驚いている。

「アンバー、遅かったのね。田舎にこもって退屈なんでしょうけれど、あまりあちこちふらふら出歩くものではないわ。みっともないでしょう」

 応接室の扉を開けた途端。
 姿勢よく背を伸ばして優雅にカップを持った母の、尖った声が飛んできた。

(ああ、まったく変わってない。変わるはずもないか)

 げんなりはしたけど、どこかで呆れて笑っている。

「ご挨拶ですわね、お母さま。帰って来るなりみっともないとは」
「田舎者が物珍しそうに出歩いていると、すぐに噂になるのよ。わたくしが恥をかきます」
「あら、お母さまこそ田舎にお移りになると聞いておりますわ。ハロウズの田舎なら噂も届きませんでしょう? よろしゅうございましたわね」

 不思議なくらいすらすらと言葉が続いた。
 以前なら手に嫌な汗をかいて、じっと黙っていただろうに。

「ルーティスが来たのですね? それなら話が早いわ。あなたからルーティスに言ってちょうだい。実の母を放り出すなんて人としての道に外れます」

 この世のすべての常識は自分が軸だとでもいうような、厳然とした表情だ。
 これにアンバーはとても弱かったものだ。
 怖くて怖くて、ただ震えていた。

「あら、偶然ですわね。当家でも似たようなことが最近ございましたの。実の母、育ての母、我が子、たとえ相手が誰であろうと、その処遇を決めるのは当主でしょう? 貴族の家とはそういうものだと、わたくしはお母さまから教えていただきましたよ?」
 
 正確に言えば当主夫人が決めると、かつて母はアンバーに言ったものだ。
 だから自分の言うことをきけと。

「ハロウズの家のことはお兄様がお決めになることです。他家に嫁いだわたくしが口をさしはさめません」
「誰があなたをここまで大きくしたと思っているの? 一人で大きくなったとでも思っているの? なんて恩知らずな! あなたは器量は良くないけれど、心根だけは優しい子だったのに。仕事なんて持つから、擦れてしまったのね。仕事なんてさせなければよかった」

 母はぐすぐすと泣き出した。
 この人はこうやってアンバーの罪悪感を刺激するのだ。意識しているかしていないか、そこまではわからないけれど。

「お泣きになるのでしたら、お兄様の前でなさって。ここで泣いてもどうしようもありません」

 不思議なほど、アンバーの心は揺れなかった。
 情けないと泣きながら、それでもアンバーの容姿を貶めたり、心根は良かったのにとか、仕事をしているから擦れたとか、悪口を織り交ぜてくる。
 この人は一生変わらない。
 だから分かり合える日もこない。
 一切の期待を持つだけ無駄なのだと、骨の髄までアンバーは思い知る。

(お義母様はこんな愚かな方ではなかった。それでもユーインは縁を切った。お互いに受け容れ合えないとわかっていたから)

 ユーインにできたことだ。
 アンバーにだってできないはずはない。

「今、お兄様をお呼びしました。すぐにおいでになるそうです。後はハロウズでお話しください」

 冷静に言い置いて、アンバーは応接室を出た。
 ぐすぐすと泣き続ける母の声が、今は少しも気にならなかった。
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