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第一章 図書室の美少女
03 耳鳴りと貧血
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自分の名前を名乗る時、麗美は少々気後れした。こんな美少女を前に、麗しい、美しいと書きますだなんて言えるだろうか。
──まあ、とりあえず読みだけ教えればいいよね。
「アサヒナレミちゃん、ね。可愛い響き」
「……そうですか?」
「ちなみに漢字はどうやって書くの?」
麗美は軽い目眩を覚えながらも、観念して正直に答えた。絵美子は特に気にした様子を見せなかった。ひょっとすると内心苦笑していたかもしれないが、被害妄想は一度始めるとキリがないので、もうこれ以上考えない事にした。
「じゃあ、麗美って呼ばせてもらっていいかしら」
「はい」
新鮮な感覚だった。高校以前も含め、友人に呼び捨てにされた事も、その逆もなかった。
「同じ学年なんだから、敬語なんて使わないで」
「う、うん」
「それじゃあ麗美、ずっとここで立ち話もなんだから、本を選んで向こうの席で読みましょうよ」
「そうだね」
絵美子は麗美に背を向けると、[芸術]コーナーの図鑑や雑誌を物色し始めた。麗美は『北欧神話あれこれ』を手に取ろうと、[神話・伝説・伝承]コーナーの本棚の前で再びしゃがもうとした。
「あ、麗美ちゃんいた!」
抑えてはいるがどこか落ち着かない声と足音と共に、亜衣が後ろからやって来た。中腰姿勢のままだった麗美は、振り向くと膝を伸ばした。良くない知らせだろうというのは、亜衣の神妙な面持ちで察した。
「亜衣ちゃん。どうし──」
「千鶴ちゃんが教室で倒れちゃったの!」
千鶴が異変を訴えたのは、麗美が教室を出てから五分と立たないうちだった。お笑い芸人コンビの動画を一通り視聴し終えたので、次は面白ペット動画にでもしようかと亜衣が提案すると、千鶴は顔をしかめ、両耳を手で塞ぐような仕草をした。
「最初は、ペット動画なんて観たくないって意味かなって思ったの。でも何か千鶴ちゃんらしくないっていうか。七海ちゃんが笑いながらどうしたのか聞いたら、『さっきから耳鳴りがするんですよ』って。そしたらその直後にフラッと……」
「耳鳴り……」
絵美子が呟いた。麗美は彼女の方を見やったが、亜衣が「それでね」と再び喋り出したので向き直った。
「たまたま七組の村田先生が教室の前を通り掛かったから、保健室に連れてってくれたの。七海ちゃんも先に行ってる」
麗美はもう一度絵美子を見やった。
「行ってあげて」絵美子は真顔でそう言い、それから微笑んで付け加えた。「またね」
「うん、また」
麗美は小さく頭を下げると、既に早歩きで数歩戻りかけていた亜衣に続いた。
図書室を出て、ダラダラと歩く生徒たちの間を縫って小走りで進む。途中、亜衣が麗美を覗き込むようにして、
「麗美ちゃん、さっき誰と話してたの?」
「さっきって……図書室で?」
「うん。わたしの位置からじゃ本棚の死角で見えなかったんだけど、隣に誰かいたんだ?」
「いたよ。同じ二年生の望月絵美子ちゃん。満月と、絵のように美しい子、って書くの。顔を合わせたのはさっきが初めてで、お互い自己紹介したばっかり。どこのクラスか知ってる?」
「望月絵美子ちゃん?」亜衣は小首を傾げた。「うーん、全然聞いた事ないなあ」
「特進コースかな」
「もしかしたらそうかもね」
〝わたしの位置からじゃ本棚の死角で見えなかったんだけど〟
──声は聞こえなかったのかな?
麗美が疑問を口にするか迷っているうちに、一階の保健室に到着した。
「大丈夫、ちょっと貧血起こしちゃっただけですから」
ベッドの上で上半身を起こした千鶴は、駆け付けた麗美と亜衣に笑顔でそう言った。
「良かったぁ~!」亜衣は千鶴に抱き付いた。
「すみません二人共、心配掛けてしまって。麗美さんもわざわざ図書室から」
「ううん、そんな。気にしないで」麗美は右手を顔の前で振った。
保健室には、千鶴と七海、養護教諭の内野、七組担任で体育教師の村田の他にも、長椅子に座っている、足首に包帯を巻いた三年生の男子が一人。
「もうすぐ六月で、季節の変わり目でしょう。体調を崩しやすいのよ」
包帯と鋏を片付けながら内野が言うと、村田が大きく頷き、
「自律神経がやられたのかもな。運動だ、運動。体を鍛えるのが一番!」
「村田先生は脳味噌まで筋肉ッスからね。そういう体調不良とは無縁ッスよね」」
男子生徒の軽口に、村田はガハハハと笑った。さっぱりとした性格と、筋肉質で大きな体全体から発しているようなこの豪快な笑い声が生徒たちに人気がある。麗美もどちらかというと好きな方だが、今のところ一度も授業を教わった事はない。
「んじゃ、俺は戻るぞ」
「村田先生、すみませんでした」
千鶴が頭を下げると、麗美たちも続いた。
「気にすんな気にすんな。無事で何よりだ」
村田が保健室を去ると、内野が千鶴のベッドまでやって来た。
「どうする向井さん。次の授業には出られそうかな」
「はい、もう大丈夫です。本音を言えば、サボって寝ていたいですけど」
「それは先生も同じ」
麗美たちが笑い合っていると、保健室のドアが半分程開かれ、出て行ったはずの村田が顔を出した。
「あら村田先生。どうしました?」
「先生、二人追加だ」
村田はドアを全開にすると、中には入らず脇に避けた。
「失礼します!」
背が高く横幅もかなりの女子生徒が、対照的に小柄で華奢な女子生徒を背負いながら入ってきた。どちらも一年生だ。
「内野先生。うちのクラスの中邑さんが、急に倒れました。顔色悪いですし、どうも貧血っぽいです」
背負われている女子生徒は、確かに顔面蒼白だ。
「あ、あと、耳鳴りもしたって」
「失礼します」
続けて、同じく一年生の茶髪の男子生徒が、同じくらいの背丈の男子生徒に肩を貸しながら入って来た。
「俺のクラスの山口なんですけど、廊下で喋ってたら、耳鳴りがするとか言って、それからしゃがみ込んじゃって」
麗美たち四人は顔を見合わせた。長椅子に座っている男子生徒は、口を半開きにしたまま追加の病人たちを見やっている。
「どうなってんだ……一度に三人も」村田は眉をひそめた。
「あらあら、こんな事もあるのね」内野は冷静だった。「とにかく、空いてるベッドまで運んであげて」
村田が入って来て男子生徒を引き受け、亜衣は女子生徒たちを千鶴の隣の空きベッドまで誘導する。
麗美は人知れず静かな興奮を覚えていた。
──いつもと違う。
新しい友達が出来た。それも並外れた美少女で、名前もピッタリな。
──いつもと違う。
少なくとも三人の生徒が耳鳴りを訴え、その直後に貧血を起こした。しかもどうやら、大して変わらないタイミングのようだ。
──滅多にないよ、こんな事。
「何だろうね、これ」
思わず笑みを浮かべかけた麗美は、戻って来た亜衣の不安げな声に我に返った。
「何か嫌な感じ……ちょっと怖い」
途端に自己嫌悪に陥り、麗美はそっと目を伏せた。不謹慎にも程がある。ましてや、倒れた一人は大切な友人だというのに。
「こういう偶然もあるんですね。まあきっとすぐに治りますよ、私みたいに」
──ごめん。
麗美はベッドの上の大切な友人に、声に出す事なく謝罪した。
──まあ、とりあえず読みだけ教えればいいよね。
「アサヒナレミちゃん、ね。可愛い響き」
「……そうですか?」
「ちなみに漢字はどうやって書くの?」
麗美は軽い目眩を覚えながらも、観念して正直に答えた。絵美子は特に気にした様子を見せなかった。ひょっとすると内心苦笑していたかもしれないが、被害妄想は一度始めるとキリがないので、もうこれ以上考えない事にした。
「じゃあ、麗美って呼ばせてもらっていいかしら」
「はい」
新鮮な感覚だった。高校以前も含め、友人に呼び捨てにされた事も、その逆もなかった。
「同じ学年なんだから、敬語なんて使わないで」
「う、うん」
「それじゃあ麗美、ずっとここで立ち話もなんだから、本を選んで向こうの席で読みましょうよ」
「そうだね」
絵美子は麗美に背を向けると、[芸術]コーナーの図鑑や雑誌を物色し始めた。麗美は『北欧神話あれこれ』を手に取ろうと、[神話・伝説・伝承]コーナーの本棚の前で再びしゃがもうとした。
「あ、麗美ちゃんいた!」
抑えてはいるがどこか落ち着かない声と足音と共に、亜衣が後ろからやって来た。中腰姿勢のままだった麗美は、振り向くと膝を伸ばした。良くない知らせだろうというのは、亜衣の神妙な面持ちで察した。
「亜衣ちゃん。どうし──」
「千鶴ちゃんが教室で倒れちゃったの!」
千鶴が異変を訴えたのは、麗美が教室を出てから五分と立たないうちだった。お笑い芸人コンビの動画を一通り視聴し終えたので、次は面白ペット動画にでもしようかと亜衣が提案すると、千鶴は顔をしかめ、両耳を手で塞ぐような仕草をした。
「最初は、ペット動画なんて観たくないって意味かなって思ったの。でも何か千鶴ちゃんらしくないっていうか。七海ちゃんが笑いながらどうしたのか聞いたら、『さっきから耳鳴りがするんですよ』って。そしたらその直後にフラッと……」
「耳鳴り……」
絵美子が呟いた。麗美は彼女の方を見やったが、亜衣が「それでね」と再び喋り出したので向き直った。
「たまたま七組の村田先生が教室の前を通り掛かったから、保健室に連れてってくれたの。七海ちゃんも先に行ってる」
麗美はもう一度絵美子を見やった。
「行ってあげて」絵美子は真顔でそう言い、それから微笑んで付け加えた。「またね」
「うん、また」
麗美は小さく頭を下げると、既に早歩きで数歩戻りかけていた亜衣に続いた。
図書室を出て、ダラダラと歩く生徒たちの間を縫って小走りで進む。途中、亜衣が麗美を覗き込むようにして、
「麗美ちゃん、さっき誰と話してたの?」
「さっきって……図書室で?」
「うん。わたしの位置からじゃ本棚の死角で見えなかったんだけど、隣に誰かいたんだ?」
「いたよ。同じ二年生の望月絵美子ちゃん。満月と、絵のように美しい子、って書くの。顔を合わせたのはさっきが初めてで、お互い自己紹介したばっかり。どこのクラスか知ってる?」
「望月絵美子ちゃん?」亜衣は小首を傾げた。「うーん、全然聞いた事ないなあ」
「特進コースかな」
「もしかしたらそうかもね」
〝わたしの位置からじゃ本棚の死角で見えなかったんだけど〟
──声は聞こえなかったのかな?
麗美が疑問を口にするか迷っているうちに、一階の保健室に到着した。
「大丈夫、ちょっと貧血起こしちゃっただけですから」
ベッドの上で上半身を起こした千鶴は、駆け付けた麗美と亜衣に笑顔でそう言った。
「良かったぁ~!」亜衣は千鶴に抱き付いた。
「すみません二人共、心配掛けてしまって。麗美さんもわざわざ図書室から」
「ううん、そんな。気にしないで」麗美は右手を顔の前で振った。
保健室には、千鶴と七海、養護教諭の内野、七組担任で体育教師の村田の他にも、長椅子に座っている、足首に包帯を巻いた三年生の男子が一人。
「もうすぐ六月で、季節の変わり目でしょう。体調を崩しやすいのよ」
包帯と鋏を片付けながら内野が言うと、村田が大きく頷き、
「自律神経がやられたのかもな。運動だ、運動。体を鍛えるのが一番!」
「村田先生は脳味噌まで筋肉ッスからね。そういう体調不良とは無縁ッスよね」」
男子生徒の軽口に、村田はガハハハと笑った。さっぱりとした性格と、筋肉質で大きな体全体から発しているようなこの豪快な笑い声が生徒たちに人気がある。麗美もどちらかというと好きな方だが、今のところ一度も授業を教わった事はない。
「んじゃ、俺は戻るぞ」
「村田先生、すみませんでした」
千鶴が頭を下げると、麗美たちも続いた。
「気にすんな気にすんな。無事で何よりだ」
村田が保健室を去ると、内野が千鶴のベッドまでやって来た。
「どうする向井さん。次の授業には出られそうかな」
「はい、もう大丈夫です。本音を言えば、サボって寝ていたいですけど」
「それは先生も同じ」
麗美たちが笑い合っていると、保健室のドアが半分程開かれ、出て行ったはずの村田が顔を出した。
「あら村田先生。どうしました?」
「先生、二人追加だ」
村田はドアを全開にすると、中には入らず脇に避けた。
「失礼します!」
背が高く横幅もかなりの女子生徒が、対照的に小柄で華奢な女子生徒を背負いながら入ってきた。どちらも一年生だ。
「内野先生。うちのクラスの中邑さんが、急に倒れました。顔色悪いですし、どうも貧血っぽいです」
背負われている女子生徒は、確かに顔面蒼白だ。
「あ、あと、耳鳴りもしたって」
「失礼します」
続けて、同じく一年生の茶髪の男子生徒が、同じくらいの背丈の男子生徒に肩を貸しながら入って来た。
「俺のクラスの山口なんですけど、廊下で喋ってたら、耳鳴りがするとか言って、それからしゃがみ込んじゃって」
麗美たち四人は顔を見合わせた。長椅子に座っている男子生徒は、口を半開きにしたまま追加の病人たちを見やっている。
「どうなってんだ……一度に三人も」村田は眉をひそめた。
「あらあら、こんな事もあるのね」内野は冷静だった。「とにかく、空いてるベッドまで運んであげて」
村田が入って来て男子生徒を引き受け、亜衣は女子生徒たちを千鶴の隣の空きベッドまで誘導する。
麗美は人知れず静かな興奮を覚えていた。
──いつもと違う。
新しい友達が出来た。それも並外れた美少女で、名前もピッタリな。
──いつもと違う。
少なくとも三人の生徒が耳鳴りを訴え、その直後に貧血を起こした。しかもどうやら、大して変わらないタイミングのようだ。
──滅多にないよ、こんな事。
「何だろうね、これ」
思わず笑みを浮かべかけた麗美は、戻って来た亜衣の不安げな声に我に返った。
「何か嫌な感じ……ちょっと怖い」
途端に自己嫌悪に陥り、麗美はそっと目を伏せた。不謹慎にも程がある。ましてや、倒れた一人は大切な友人だというのに。
「こういう偶然もあるんですね。まあきっとすぐに治りますよ、私みたいに」
──ごめん。
麗美はベッドの上の大切な友人に、声に出す事なく謝罪した。
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